第十話 道はまだ遠く

 よもや、あれを感じるとは思わなかった。

 その太刀風は、炎が吐き出す熱風である。天を摩するほどの灼熱の大火炎が、振り下ろす大上段は、あらゆるものを断ち斬る剛剣。

 それを初めて感じたとき、左衛門入道は既に眼疾がんしつを患っていた。

 故に、その真っ向兜割かぶとわりをその目で見たことはないがしかし。

 この圧、熱、心と体が直結した、緩やかな太刀の動き。

 今までの分身染みた体捌きも、冴えた技倆ぎりょうも人外染みた怪力かいりきも、伊東一刀斎という剣豪を天下一たらしめる要素であろう。

 だがしかし、なによりもだ。

 伊東一刀斎という剣豪が天下一たらしめるものは、全てあの振り下ろしに込められていた。

(まっこと、妙な奇遇もあったもんじゃわい)

 あの撃剣と、そっくり同じ。通家みちいえがその素質を見抜いて教えたのか、それとも、生来持ち得た撃剣なのか。

 あるいは――――――。

(長生きは、してみるもんじゃのう)

 生きていればその分、こうも喜ばしいことが増えるのだから。


 ――しまった。

「生きているか」

 そんなわけないと思いつつ、目玉を裏返して倒れた男を見下ろす。

 額が陥没している。峰打ちとはいえ甕割ほどの剛刀に一刀斎の剛力。それ二つが重なれば当然こうなる。実際今までも何度もこうなってきた。

 うっかり、思い出したかつてを心と体がなぞってしまっていた。どうやら己はまだ未熟らしい。

「伊東殿!」

「すまない、善左衛門殿、御坊、人死にを出してしまった。迷惑掛けるやもしれん」

「なに構わん。元より無法者だったからの。むしろ喜ばれるかもしれんぞ」

 およそ僧籍の老人が吐き出す言葉ではないだろうが、左衛門入道の口から出るそれは、ごく自然と口にする。

 僧侶となっているが、この老人、やはり気質がまるで仏道に向いていない。

 転がる死体に、念仏を唱えようともしなければ手を合わせすらしない。

「とはいえ、御上にバレては足が遅れます。追われる前に逃げましょう」

 そしてその孫の善左衛門も真っ当ではない。

 どちらとも好々爺こうこうや好青年こうせいねんと言った風貌だが、中身は血生臭さをものともしない、錬武れんぶ気儘きままを心の芯に宿している武芸者ひにんげんの気質を持っている。

 もはや一刀斎は、左衛門入道がかつて武芸者であろうと感付いているし、そのことに、なんの疑いも持っていなかった。

「急ぐのは良いが、御坊は」

「ほれ、行くぞ善左衛門、任せたからの」

「もちろん」

 気付けば左衛門入道は、さっさと孫の背中によじ登っている。善左衛門もごく自然に受け入れており、準備万端じゅんびばんたんいまにも駆け出しそうである。

「…………なら、行くか」

 

「そういえば伊東殿、太刀は大丈夫で?」

「む?」

 街からさっさと退散しておよそ半刻はんこく。山の中で朝飯代わりの握り飯を食らっていたとき、善左衛門がふと口にする。

「ほら、あの一同の剣を受け止めた太刀です。貢ぐためのものだったのでは?」

「ああ」

 そういえば、念のために腰に差していた正宗の太刀を抜いて敵の太刀を受けていた。

 握り飯の残りを頬張って、腰に差したままだった正宗を取り、鞘から引き抜いた。

「…………む、きずがある」

 よく見てみれば、きっさき近くとはばき近くが欠けてしまっていた。

 貢ぐための物だというのに使うべきではなかったか。

「気にすることはないでしょう。相手の切り込みを受けたほまれきず、むしろ、尊ばれるかもしれません」

 同じく握り飯を食い終えた善左衛門がうんと頷く。

 刀を集め尊ぶ趣味がない一刀斎は、正直誉疵というものがあるのを今初めて知ったが、審美しんびというのはなかなかに奥が深い。

 あるいは、なににでも美を見い出す人の心が奥深いのか。

 考えても分からぬ事だと一刀斎は正宗の太刀を鞘に戻し、腰には差さずもう一本と同じく布へとくるんだ。

 もし気に入らなくともこのもう一本がある。二つある中二つとも持たせてくれた織部には感謝だろう。

「それにしても、伊東殿もさることながらその刀も素晴らしいものですね。あの太刀を受けてその程度の疵で済むとは。加えて、その刀身も見事な出来です」

「たしか、正宗の太刀と聞いている」

「ほう、正宗といえば古く相模にいためい鍛冶かぬち。見ても振っても見事なのは当然じゃろうて」

 左衛門入道は「まあ、儂は見えんがの」と笑いながら最後に付け加え、最後一欠片残った握り飯を放り込んだ。

「しかし、あのような騒動を起こして御身らは府中に戻れるのか?」

「はてさて、どうでしょうね……」

「なに、もし駄目ならそのときはいよいよ加賀かがにでもいくわい」

「ならば駄目であってほしいものだが」

 善左衛門は正直である。加賀から国一つを遙々はるばる越えて祖父に会いに来るほどの孝行孫だ。国を越えるのが面倒だと思うより、敬愛する祖父を近くに置き、そして。

「そうすればかつてのように剣の稽古を付けて貰えるんだが……」

 己の武を、高める為に使いたいと、そう言っている。

 もはや左衛門入道がかつては優れた武芸者であったことは明白だが、目が見えずに指南は果たして出来るのか。

「そういえば、伊東殿。あの最後の兜割じゃが……」

「あれか。…………あれがなぜ兜割だと?」

「それくらいのことは、太刀の振る音や地面を踏む力加減で分かるわい」

 前言撤回、このおきなであれば目が見えずとも、正しく武を教えることが出来るだろう。

 左衛門入道は目で見る以上に、全てを感じ取り見抜いている。なるほどこれは、剣を鍛えたいのであれば、是非とも身近に欲しい逸材だろう。

「それで、あの兜割、どこで覚えた?」

「ふむ?」

 普段、問われれば即座に答える一刀斎だが、珍しく頭の中を探った。

 あの振り下ろしは、幼い頃、薪を割り木を断つことを生業なりわいとしていたとき、父より教わった物である。

 柄を握りきらず、肘を張らず、肩を緩め、無心ただ真っ直ぐと、地面を打つように振り下ろす。

 それが織部に見初められ、最初の決闘の決め手になった。

 自斎から教わった極意五点ごくいごてんの内一つ、金翅鳥王剣こんじちょうおうけんにそのまま活用できるものでもあり、ここぞと言うとき、心王しんおうが咄嗟に選ぶことが多いものだった。

 ただ……。

「あれをいつ覚えたか、正直分からん。遠い昔から知っているものだが、あれが剣に使えると知ったのはしばらく後のことであったし、あれが、ああもいいものだと思ったのも更に後のことだった。だから……」

 そう、言うなれば。あの振り下ろしはきっと。

「あれは覚えたものではなく、こころが持っているものだろう。知らぬ間に、既に手にしていたものだろう。技の一つに固執こしゅうし頼り切るのは、いざという場で失敗するものだからあれこそ至上という気はないが……それでも、あれはおれという武芸者の根幹にあるものなのは、たしかだ」

 恵まれた体躯から放つ大上段。相手の剣を押し退けて、真正面から体の中心を断ち斬る一刀。

 あれを振るうときが、最も心から剣へと動きが滑らかだ。

 

「いつかは全ての撃剣が、あれのように動かせれば良いと思っている。まだ先は、てしなく長いがな」

「ほっほ、本当に途方もない話じゃのう」

 盲目故に目を伏せている左衛門入道が笑えば、全て爽快な笑顔に見える。

「さて、伊東殿の武の道の行く末はまだ見えなんだが、儂らの目的地もまだ遠い。飯で力も付けたところでさっさと行こうかの」

「爺様はここまで俺の背中に乗ってきただけだろう」

「乗せられる方も疲れるんじゃよ。ほれ、二人とも行くぞう」

 左衛門入道は立ち上がると、一刀斎達も待たずにさっさと進んでいく。

 本当に壮健な老体だと、一刀斎は口の端を僅かに上げた。

「では、行きましょうか、伊東殿」

「ああ、そうだな」

 一刀斎の目的とする場所は、まだまだ遠いのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る