第二十一話 遙か高みを目指すと言うこと

「なんだ、もう帰ってしまうのか?」

「私たちは元より文を届ける者達に便乗してきたのだ。用さえ終われば帰らねばならん」

 一刀斎と伝鬼房との立ち合いから一日が経つ。一刀斎と勘解由左衛門は、こうしてもう一度伝鬼房が棲む野までやってきた。

 その理由は、別れである。

 勘解由左衛門が仕える北条と、伝鬼房を懇意こんいにする武将は敵対している。伝令の兵卒達は勘解由左衛門が会いに来た旧友が伝鬼房であることは知らないだろうが、北条にはそのことを知っている者もいるだろう。

 そんな中この敵地に居座ろうものなら、裏切りを疑われるのはまず間違いない。

「人に仕えるというのは全く不自由なことであるな! 俺には到底かなわん生き方だ!」

「それはおれも同じだな。誰かに仕える自分は想像できん」

 仕えた姿を想像する相手はもう、この世にはいないのだから。

 そうは思っても口にはせず、ただただ青い西の空へと目をやった。

「こちらにも立場があるのでな。お前も、軽々と文を送るのは止したらどうだ。向けられなくともいい不信を向けられるぞ」

「別に、俺はお前と違ってが勝手にこっちに来ているだけのこと。不義理を問われる筋合いはないからな! それに、内通しようとも奴らの事情などなにも知らん!!」

 なるほどたしかに、そもそも裏切ることが出来ないのだ。最初から仕えてすらいないのだからそれも当然のことであった。

「……伝鬼房、今回はいい経験をさせてもらった。感謝する」

「うむ! それはこちらもであるな! 一刀斎ほどの剣客と相対することなどこの先有るかどうかの幸運。またいずれ、機会があるならばもう一度手合わせを願いたいものである!」

「ああ」

 あの立ち合いは、お互いに死力を尽くした戦いであった。あれほど己を尽くすことは、そうそうあることではない。

 剣客としての人生は、もはや剣を握っていなかった時代より長くなっている。

 その長きに渡る旅の中でも、伝鬼房との戦いは深く一刀斎に刻まれた。

「次会う時は、一刀斎も斬るべきものを斬っていることを期待しておこう! そうしてより達人となったお前と、やはり武を交えたい!」

「無論、その時こそが決着だ」

 今回の立ち合いは、一刀斎が勝ち越した。無論いま互いに出しうる全てを使い果たしての勝敗けっちゃくであったが、それでも一刀斎は伝鬼房に対して、大きな差を感じ取っていた。

 培った努力、秘めた能力、そうして生まれた実力、全てが揃ったところで勝てるとは限らず、それらが相手より上回っていても敗北することもある。

 それは、一刀斎の師、印牧かねまき自斎じさいが語っていたことでもある。

 一刀斎は確かに勝ち越した。だがしかし、伝鬼房との間にある「差」は決して埋まったわけではない。

 今回は、一刀斎が得てきたものを削ぎ落としてようやくその差を埋めることが出来たが、それはあくまであの場限りのものであり、理想の剣とはほど遠い。

「ではな、伝鬼房、またいずれ会おう」

「うむ、その時を待っているとも!」

 童のように大きく手を振る伝鬼房を背にして、一刀斎と勘解由左衛門は野っ原を抜ける。

 初めは長いと思った雑木林では有るが、元より山の麓に出来た街、参道が作られていることもあり、日の本にあるどの街よりも里山と街が近い。

 この林を抜ければ、すぐに村に辿り着くだろう。

「……一刀斎殿、改めて、私からも礼を」

「見たかったものを見ることは出来たか?」

「ええ、この上ないものを見せていただきました」

 合戦の伝令に付き添ってまで、小田原より遠く離れたこの土地に訪れたのは、全てこの勘解由左衛門の誘いがあったからこそである。

 槍の達人である勘解由左衛門が、己以上と語るほどの長物使い。

 その名を知り興味を抱いて、その折に会いに行けるのだから、動くしかあるまい。

 勘解由左衛門もまた、一刀斎と伝鬼房を会わせることを望んでいるようだった。

「改めて聞くが、なぜこのような機会を?」

「――――――私は、「一」になりたいのです」

「……一、か」

 こぼれた言葉を、聞き返すように復唱する。

 それが意味するところを、全てではないが察することは出来る。

 武芸者としての唯一。己が目指す武の際涯さいがい。あるいはそれに至った己か、自らの理想の末。

 またはもっと些細で遠大な、「己が培いものにした武」。

「私は、一刀斎殿や金平……伝鬼房のように、己だけの武を手に入れたいと思っています。しかし私は、知ることでしか強くなれない。既にある技術を見詰め、術理をほどいて物にしていく」

 しかしながら、と勘解由左衛門は一度言葉を区切る。

「それでは、一になることは出来ないと思いました。私のやり方には、顕界がある。だから」

「おれと伝鬼房の立ち合いを見て、手本にしようとしたかったワケか」

「その通りです。…………ですが」

 林の中、蒼く茂る枝の合間のその先に、淡くも深い晴天せいてんが見える。夏特有の青空は、空は、遥か遠い。

「二人の戦いを見て、多くのことを学びました。太刀捌きに長物の運び、足や体の動かし方。間合いの読み方に気構え。懸かるも待つも全てに意味や意図を見出しました。そしてなにより学び取れたのは、「あなた達のようにはなれない」ということでした」

「おれたちのように?」

「ええ」

 夏風に揺れる木々の傘。まだらに見える青い空。大きくも、果てに見える入道雲。その上に輝く、燃える火輪かりん

 いくら枝葉が揺れようとも、空が完全に見えなくなることはない。

「私は、お二人のようにはなれません。心が、なにをすべきか瞬時に判じて剣へと伝えるその速度。心がじかに剣を振るうその練武にはきっと、私は至れません」

 勘解由左衛門が足を止め、空を見上げた。一刀斎もそれに習うようにして、足を止めて空を見上げる。

 ちょうど林と林の境目なのか今まで広がった枝の傘はどこにもなく、青い空が広がっていた。

 勘解由左衛門の悩みなどお構いなしに、雲は流れて陽射しは注ぐ。

 思考が、判断が、勘解由左衛門の足を止めている。これより先は行けぬのだと、心を無視して脳が意志を止めている。

 だがしかし、それは――――。

「私のように、思考が剣を動かすのならばきっと、一になるまでの道など」

「思考もこころも、関係あるまい」

 自らを嘲るのような独白どくはくを、最後まで言わせること無く。一刀斎は遮った。

 ……だがしかし、それは止めなくてはならない言葉だった。

 剣の師としても、槍の弟子としても。

「おれは魂で剣を動かしている。だがそれは、おれがおれであるからだ。おれだからこそ、出来ていることだ」

 そしてそれはきっと、昨日相対した伝鬼房とて同じのはず。

 目指す高みが人それぞれ違うのであれば、用いる理念も、進む道も、異なるのは当然だろう。

「おれたちを手本にするのには構わん。得られるものがあるならば、好きなだけ得ればよいだろう。だが、御身がそれに会わせる必要がどこにある。逆に、おれたちの技を御身に合わせてゆくのが道理だろう。……それにだ」

 一刀斎が見上げる空は遠く、どこまでも高く、そして、彼方まで広がっている。天を衝くような筑波の峰の向こうにも、更にその先、海の果てまで広がっている。

 その遍く蒼天の気配を纏う武芸者を、理馬鹿と揶揄される今世無双を、一刀斎は知っている。

「俺が戦った中で最も強かった剣士おとこは、武の術理を、理合を知ることで強くなる男だった。武技が持つことわりを、どこまでも深く知り尽くした男だった。――――だからおれは、勘解由左衛門殿のやり方が悪しとは思わん。むしろ、御身が「一」になるためには、守り続けるべきやり方だろうな」

 なぜならその者にとっての「一」とは、その者にしか辿り着けないものなのだから。だからこそその者が、自らが持ちうる道理を崩してしまえばきっと、「一」に至ることが不可能になるのだから。

「…………ああ」

 勘解由左衛門が、声を漏らす。文字通り、体の内から溢れて漏れたような声であった。

 勘解由左衛門は一刀斎の前を行く。故にその声を、どんな面持ちで発したのかは分からない。

 ただしかし、吐かれた息には、季節外れの狭霧もやが見えた。

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