第六話 炎
それは灼熱の
無理のない、完成された
その
ただ一心に、「
富田の系譜らしからぬ
その
ああそうだ、それも確か今日のような、年明けの日で――。
この打ち合いで翁は確信していた。
一刀斎の技は、やはり
その流儀の根幹に印牧流の
もし印牧流を修めているという
「
「
そんな翁の
一刀斎は
しかし翁も
立ち合い中、見開いたままで渇いた目は汗で
それでも翁は食い下がることなく、一度動き始めれば、体力で大きく差を付けているはずの一刀斎と斬り結び続けていた。
翁の身体はもはや心の道具。剣を振るためだけに存在するものと化している。
一刀斎とてその感覚は知っている。心で刀を振るために、肉体さえも捨て去る
翁はやはり、剣の頂点にも近しい
その背後にいかなる
――だがしかしそんなことは、一刀斎には関係ない。
翁が何を見、覚え、感じたかなど知ったところでどうにもならない。
倒すべき敵は
「
「
袈裟に振り下ろした甕割を、翁はこの立ち合いで初めて左で受け捌いた。
左右反転してもなお精細を欠くことはなく、積み上げてきた鍛練の質が
だが。
「
順逆左右が入れ替わっても、一刀斎はそれに対応しきる。
火炎の打ち。人は炎に決して触ることは出来ないが、対する炎は人を
その剣を通じて放たれた意に応じ、姿を変える炎のように
甕割の厚みで以て最小の動きで
翁の手には、
印牧の
翁の技は剣の
「
絶叫にも近しい
今まで攻防片方ずつ専任していた両の脇差が、
片割れが
二つの鋒が一刀斎を切り裂くまで、
ならば。
「
右の脇差を手元で払い、左の脇差を鋒で切り落とす。
両の刀を封じ込め、甕割をそのまま、横薙ぎに払う!
「ぐぉお……!」
甕割の
あれでは
しかし斬られた
翁が自ら後ろに引いていく。長く斬り結んでいて、翁が引いたのはこれが初めてであった。
翁は親指を軽く舐め、傷を
とうに体力は限界なのだろう。逞しかった老虎は肩で息をし、大粒の汗を全身からどっと噴き出させていた。
それでも口で大きく息を吸わないあたり、真の武芸者であると
翁の目と纏う気配には、未だに
「……認めよう小童。――いや、
呼吸も荒いはずなのに、一刀斎を呼ぶ声に乱れはない。
どす黒い瞳がわずかに光り、一刀斎を力強く睨みつけた。
「貴様は…………ワシの生において相対してきた者の中で……五指の指には入る存在じゃ……!!」
忌々しげに
その立ち姿は正に虎。
しかしその振る舞いには、
翁は間違いなく、一人の剣客となっていた。
「ならばおれも死力を尽くす。――行くぞ、印牧流の翁!」
一刀斎が吼えた瞬間、二人は同時に地を蹴り出した。
炎に躍りかかる練達の老虎は、
迫る火の手を太刀風で
だが一刀斎は逆に、翁を飲み込まんと大きく踏み込む。
両者の距離は三尺以下。翁の間合いのただ中にいる。
しかしながら一刀斎は、翁の距離でも対応しきる。
それはひとえに、三尺以下で優に生きる剣を見て、最近距離でも放たれる抜刀を見知ったゆえ。
なにより一刀斎は、印牧の術理を知っている。
己の持ちうる全てを
自身の見たもの聞いたもの、そしてその身で以て体験してきたあらゆる全てを。心王に注がれたものは一刀斎を大火に変える。
吸気でもって火をより
そして放たれた
「
「ぐぬっ……!」
一刀斎の逆袈裟に、翁が
この瞬間を逃すまいと、一刀斎は一気に畳みかける!
「
袈裟、左袈裟、胴薙ぎ、腿切り。
あらゆる
一刀斎の渾身の撃ちに翁は受けに
抑え込めぬ。払いきれぬ。心に
それでも一刀斎の
翁の脳裡が焼き切れる。身体中の血管が裂ける。
身から溢れ出、操ることが出来なかった墨色と炭色のどす黒い感情が、
「なにをぐずぐずしているのか」「いい加減にしろ」「早く終わらせろ」「そんな
二十年もの
翁を凶行に走らせていた、武芸者に対する
今まで武芸者に向けていた
黒い手が、心の臓にさえ迫った瞬間――
(黙れ!!)
翁の心が、
(今、貴様らは
心を
外他一刀斎という男を殺すには、その二種はもはや邪魔である。動きを乱すぐらいならば、黙って力になっていろ!
一刀斎が己の全てを削ぎ落とし、
「
「ッ!」
中段の撃ちを、翁は撃ち弾いた。刹那でも遅い全くの同時に突き出された脇差を、一刀斎は横に足を捌いて
しかし翁はその剣さえも止めてみせ、手首狙いの斬撃が飛ぶ。
たまらず一刀斎は翁の腹を蹴り飛ばし、その勢いのまま鏡合わせのように飛び退いた。
一刀斎の目の前には、もはや黒い老虎はいない。
一刀斎が今相対しているのは、人の形をした虎、虎の力を持つ人。
武芸者と化した翁は
膨れあがった筋肉は、よく見れば汗にまみれ、胸が前後に
一刀斎は、瞬間悟る。
「翁の体力は尽きかけている」と。
翁は既に切れかけた活力を絞り出し、限界を超越した一撃を撃ち放つつもりである。
翁の最後の一撃など恐れるに足りず。
などと、とうてい言えるわけがない。一介の武芸者が「
だからこそ己が振える、究極の一を持って立ち向かわねばならない。
一刀斎は高めの正眼に構えてしかと地面に足裏を付ける。
翁も両の手の脇差を構えており、動くのは力の
先に仕留めなければならぬ。しかし、先の先を取られてはならない。後の先などは論外だ。
それこそが、相手の全霊に対するたった一つの対応策である。
決着の一撃を放つべき瞬間は――――今ッッッ!!
「
「
一刀斎と翁は共に大地を蹴り出した。
鋭い気を吐き出す一刀斎と、
しかし纏い
駆け抜ける最中、一刀斎は中段から上段へと移行した。
さながら風を受けた炎が膨らんで、より強く火の手を天へと掲げるように。
(上段――最速最大を撃つ気か!!)
ならその
一刀斎が翁の
あの振り下ろしはとうに消えた。二十年前、
だからこそ、武芸者狩りを始めてから、一度たりとも、大上段を防ぎそびれたことがない。
力だけに頼った雑な一撃など、真っ向から破砕するだけ。
火の位に掲げられた刀の
「
振り下ろされる。その瞬間を見越した翁は右手を振り上げ軌道を塞ぎ、左手を腕が振り下ろされる場所へと向けた。
これで、
「……っ!」
――成立した構えを見て、翁は一瞬硬直した。
拳を握りきらず、肘を張らず、肩を緩めたその
吐き出される気の圧に反して力みはなく、重心は体の芯に
そして己さえも映るほど、曇りなく澄み渡った無心の
その立ち姿は間違いなく。
(助右衛門――)
燃え盛る火の手が、振り下ろされる。
身が硬直してなおも、翁の心王は技を振るう。
ただ真っ直ぐ撃ち放たれる兜割りを、防ぐのみ……の、はずだった。
「
一刀斎の一撃は、まさに無念、
己に対する
あらゆる感情を削ぎ落とした、
それは確かに、あの冬の日に消えたはずの斬撃で――。
一刀斎は、倒れる翁を見下ろしていた。額を打ち割り
見るも無惨な状態にも関わらず、一刀斎にはその赤い
大上段から切り落としを放つ瞬間に、翁の目が揺れたことを思い出す。
(おれは、斬れたのだろうか)
翁に絡みついていた、怨嗟と憤怒を。
かつて月光を浴びながら、一刀斎と同じく天下一を目指す
それを確かめる術は、翁が死んだ今もう残されていない。
――――強敵だった。
一刀斎が思い出したのは、
『この道には、天狗道に堕ちた悪鬼がいる。会えば神仏すら斬り裂こうという狂人がいる。人の命を砥石としか思わない者もいるし、君より練武を重ねた求道者もいる』
「そして何より、おれより天下一に近き者もいる」
拳を作らんばかりに、甕割の柄を握りしめる。
あの柳生の郷を出て二ヶ月。多くの者と相対した。
見知らぬ技を、違えた道を、異なる情熱を
天下とは果てしなく広く、天上は遥か高い。
「…………より、鍛えねばな」
無意識に見上げた冬空は、深い青に染まっている。
天下一の剣客になる。研ぎ澄まされた、綺麗な剣を放てる者になる。
そう、一刀斎は誓ったのだから――――。
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