第六話 炎

 それは灼熱の業炎ごうえんだった。

 無理のない、完成された大上段だいじょうだんくらい。天をする一撃を食らえば、全身の血が燃え眼前に火花がたばしった。

 そのわた撃剣げっけんを食らえば身体ごと魂魄こんぱくが割り砕かれる。

 ただ一心に、「だん」の一字を胸に添えて、それ以外の一切を削ぎ落とした無念無想の剣撃けんげきは、こちらが繰り出した剣撃とまとめて心や迷いも消し飛ばした。

 富田の系譜らしからぬ大太刀おおだちつかいいゆえに、他の富田流の武芸者達から幾度となく絡まれてなお、奴は堂々どうどう胸を張り、己の流儀わざを曲げ歪めることは一切なかった。

 その態度たいどは、己の主人おしえごにさえ変えることなく、…………それゆえに印牧かねまきは、あの日に滅びた。

 ああそうだ、それも確か今日のような、年明けの日で――。


 この打ち合いで翁は確信していた。

 一刀斎の技は、やはり印牧かねまきりゅうのものではない。

 その流儀の根幹に印牧流のほのおを感じるものの、それでも異なると断言できる。

 もし印牧流を修めているというげんまことならば、この二十歳はたち前後そこら一刀斎おとこすでに、流派りゅうはを破り己の流儀りゅうぎを立てつつある……!

セェェエエエエ!」

フンッッッ!!」

 そんな翁の思惑おもわくを知ってか知らずか。

 一刀斎は懸待けんたい一致いっちの斬撃を放つ。

 しかし翁も百戦ひゃくせん錬磨れんま、あらゆる武芸者を斬り落として解体してきた老虎の技は、一刀斎の剣を寄せ付けない。

 立ち合い中、見開いたままで渇いた目は汗でうるおし、血管がいくつか裂けて充血じゅうけつしていた。

 それでも翁は食い下がることなく、一度動き始めれば、体力で大きく差を付けているはずの一刀斎と斬り結び続けていた。

 翁の身体はもはや心の道具。剣を振るためだけに存在するものと化している。

 一刀斎とてその感覚は知っている。心で刀を振るために、肉体さえも捨て去る境地きょうち。技の究竟くっきょう、心の畢竟ひっきょう

 翁はやはり、剣の頂点にも近しい剣豪けんごうだろう。

 その背後にいかなるわだちきざまれているのか。なぜあそこまで武芸者を、特に富田流を怨み印牧流を消えたと言い張るのか。

 ――だがしかしそんなことは、一刀斎には

 翁が何を見、覚え、感じたかなど知ったところでどうにもならない。

 倒すべき敵は過去うしろにはなく、今目の前にこそいる――!!

ァアア!」

エイァアアアアア!」

 袈裟に振り下ろした甕割を、翁はこの立ち合いで初めて左で受け捌いた。

 左右反転してもなお精細を欠くことはなく、積み上げてきた鍛練の質がうかがえる。

 だが。

フンッ!」

 順逆左右が入れ替わっても、一刀斎はそれに対応しきる。

 火炎の打ち。人は炎に決して触ることは出来ないが、対する炎は人をあぶる。

 その剣を通じて放たれた意に応じ、姿を変える炎のようにける。

 甕割の厚みで以て最小の動きで剣軌けんきを反らし、翁の撃ちを退しりぞけているが、その動きは極小ごくしょうのもの。

 翁の手には、らされたごたえもほとんどないだろう。

 印牧の術理じゅつり理合りあいに対する理解力は、一刀斎も有している。

 翁の技は剣のきわみにもかなり近い。ゆえにここまで来るのに時間が掛かったが――それでも、翁の技に、目は慣れた。

ァアアアアアアア!!」

 絶叫にも近しいたけびが、鋭い質量を纏って一刀斎の肉体に喰らい付く。

 今まで攻防片方ずつ専任していた両の脇差が、太牙たいがと化して迫り来る。

 片割れが実撃ほんめい、どちらか虚撃おとり。決してあやまつことが出来ない二択。

 二つの鋒が一刀斎を切り裂くまで、逡巡しゅんじゅんの間もない。

 ならば。

アアアア!」

 右の脇差を手元で払い、左の脇差を鋒で切り落とす。

 両の刀を封じ込め、甕割をそのまま、横薙ぎに払う!

「ぐぉお……!」

 甕割の尖鋒せんぽうが、翁の顔面を斜めに斬った。目と目の間の眉間が裂けたが、上まで切り付けることが出来なかった。

 あれでは上端じょうたんから血がこぼれても、目に入ることはないだろう。

 しかし斬られたハダはぱっくりと、果実の皮ように裂けている。

 翁が自ら後ろに引いていく。長く斬り結んでいて、翁が引いたのはこれが初めてであった。

 翁は親指を軽く舐め、傷を唾液だえき湿しめらせた。

 とうに体力は限界なのだろう。逞しかった老虎は肩で息をし、大粒の汗を全身からどっと噴き出させていた。

 それでも口で大きく息を吸わないあたり、真の武芸者であるとかんぜられた。

 翁の目と纏う気配には、未だに憎悪ぞうお憤怒ふんぬが宿っている。――だが。

「……認めよう小童。――いや、外他とだ一刀斎いっとうさい

 呼吸も荒いはずなのに、一刀斎を呼ぶ声に乱れはない。

 どす黒い瞳がわずかに光り、一刀斎を力強く睨みつけた。

「貴様は…………ワシの生において相対してきた者の中で……五指の指には入る存在じゃ……!!」 

 忌々しげにたけり。翁は撞木しゅもくに足を開き、身をかがめて両の脇差を向けてくる。

 その立ち姿は正に虎。

 しかしその振る舞いには、ケダモノのような荒さはない。

 翁は間違いなく、一人の剣客となっていた。

「ならばおれも死力を尽くす。――行くぞ、印牧流の翁!」

 一刀斎が吼えた瞬間、二人は同時に地を蹴り出した。

 炎に躍りかかる練達の老虎は、爪牙そうがを立てて切りかかり、老虎の爪牙を避ける若き炎は、その火の手を首へとかける。

 迫る火の手を太刀風であおり飛ばし、老虎は炎心えんしん目掛け牙を立てる。

 だが一刀斎は逆に、翁を飲み込まんと大きく踏み込む。

 両者の距離は三尺以下。翁の間合いのただ中にいる。

 しかしながら一刀斎は、翁の距離でも対応しきる。

 それはひとえに、三尺以下で優に生きる剣を見て、最近距離でも放たれる抜刀を見知ったゆえ。

 なにより一刀斎は、印牧の術理を知っている。

 己の持ちうる全てをべて、一刀斎は技を振るう。

 自身の見たもの聞いたもの、そしてその身で以て体験してきたあらゆる全てを。心王に注がれたものは一刀斎を大火に変える。

 吸気でもって火をよりおこし、呼気でもって粗熱あらねつを吐く。

 そして放たれた懸待けんたい一致いっちの斬撃は、いよいよ老虎の身に迫る。

ェエエエイ!」

「ぐぬっ……!」

 一刀斎の逆袈裟に、翁がる。

 この瞬間を逃すまいと、一刀斎は一気に畳みかける!

ァアアアアアアアア!」

 袈裟、左袈裟、胴薙ぎ、腿切り。

 あらゆる軌跡きせきで翁へと幾度となく斬りかかる。

 一刀斎の渾身の撃ちに翁は受けに専念せんねんする一方であり、まるで反撃することが出来ない。

 抑え込めぬ。払いきれぬ。心に間隙かんげきがまるでない。

 それでも一刀斎の猛攻もうこうを、ひたすら捌き続ける防御の技倆ぎりょうは、もはや絶技といって過言ではなかった。

 翁の脳裡が焼き切れる。身体中の血管が裂ける。

 身から溢れ出、操ることが出来なかった墨色と炭色のどす黒い感情が、臓物ぞうもつを握り潰さんと身体の中を駆け巡る。

「なにをぐずぐずしているのか」「いい加減にしろ」「早く終わらせろ」「そんな塵芥ごみなど払ってしまえ」「いつまでも無様を晒すんじゃない」「お前は武芸者さえ殺していればいよのだ」

 二十年ものあいだかれてきた、病毒びょうどくの如き妄執もうしゅう

 翁を凶行に走らせていた、武芸者に対するおもくるしい、暗澹あんたんとした狂気。

 今まで武芸者に向けていた憤悶ふんもん怨嗟えんさが、一刀斎を斬ることが出来ぬ翁自身にへと返ってきた。

 黒い手が、心の臓にさえ迫った瞬間――

(黙れ!!)

 翁の心が、たける。

(今、貴様らは不要いらぬ! 邪魔をするな!!)

 心をむしばむ毒は不要。感情より分け隔てられていた翁の心王しんおうは、黒々とした怨怒えんどを逆に喰らう。

 外他一刀斎という男を殺すには、その二種はもはや邪魔である。動きを乱すぐらいならば、黙って力になっていろ!

 一刀斎が己の全てを削ぎ落とし、こころほのおへとたきぎの如くべたように、翁もまた己の全てを噛み砕き、腹の底へと叩き落として力に変える。

ェエエエエエ!」

「ッ!」

 中段の撃ちを、翁は撃ち弾いた。刹那でも遅い全くの同時に突き出された脇差を、一刀斎は横に足を捌いてかわし、即座に胴を打ち払う。

 しかし翁はその剣さえも止めてみせ、手首狙いの斬撃が飛ぶ。

 たまらず一刀斎は翁の腹を蹴り飛ばし、その勢いのまま鏡合わせのように飛び退いた。 

 一刀斎の目の前には、もはや黒い老虎はいない。

 一刀斎が今相対しているのは、人の形をした虎、虎の力を持つ人。

 復讐者ケダモノでなく、紛う事なき武芸者ぶげいしゃだった。

 武芸者と化した翁は調息ちょうそくし、全身に力を巡らせている。

 膨れあがった筋肉は、よく見れば汗にまみれ、胸が前後に膨縮ぼうしゅくを繰り返していた。

 一刀斎は、瞬間悟る。

「翁の体力は尽きかけている」と。

 翁は既に切れかけた活力を絞り出し、限界を超越した一撃を撃ち放つつもりである。

 翁の最後の一撃など恐れるに足りず。

 などと、とうてい言えるわけがない。一介の武芸者が「ついの一撃」と定めた技は、あらゆる摂理せつりくつがえす力が宿るもの。

 だからこそ己が振える、究極の一を持って立ち向かわねばならない。

 一刀斎は高めの正眼に構えてしかと地面に足裏を付ける。

 翁も両の手の脇差を構えており、動くのは力の脈動みゃくどうする筋肉にくばかり。術理理合を修めた心は、ピクリとも動かない。

 先に仕留めなければならぬ。しかし、先の先を取られてはならない。後の先などは論外だ。

機先きせんを読み切り制して乱し、真っ向から斬り越える。

 それこそが、相手の全霊に対するたった一つの対応策である。

 決着の一撃を放つべき瞬間は――――今ッッッ!!

ッッッ!」

ァアアアアア!」

 一刀斎と翁は共に大地を蹴り出した。

 鋭い気を吐き出す一刀斎と、咆吼ほうこうが如き喊声かんせいを上げる翁。

 しかし纏いはっする気質きしつは同等。燃える烈火れっかと荒ぶる人虎じんこは瞬く間には激突げきとつする。

 駆け抜ける最中、一刀斎は中段から上段へと移行した。

 さながら風を受けた炎が膨らんで、より強く火の手を天へと掲げるように。

(上段――最速最大を撃つ気か!!)

 ならそのやいば千切ちぎろうと、翁は両の手の柄をしかと握る。

 一刀斎が翁の術理理合かねまきりゅうを知っているように、翁の身もまた知っている。「究極の兜割かぶとわり」を。

 あの振り下ろしはとうに消えた。二十年前、火種ひだねごと踏み消されてついえて消えた。

 だからこそ、武芸者狩りを始めてから、

 力だけに頼った雑な一撃など、真っ向から破砕するだけ。

 火の位に掲げられた刀のきっさきが、完成しきるその直前!

アアアアアアアアアアア!!」

 振り下ろされる。その瞬間を見越した翁は右手を振り上げ軌道を塞ぎ、左手を腕が振り下ろされる場所へと向けた。

 これで、決着しまい――――

「……っ!」

 ――成立した構えを見て、翁は一瞬硬直した。

 拳を握りきらず、肘を張らず、肩を緩めたそのかいな

 吐き出される気の圧に反して力みはなく、重心は体の芯に鎮座ちんざする。

 そして己さえも映るほど、曇りなく澄み渡った無心のひとみ

 その立ち姿は間違いなく。

――)

 燃え盛る火の手が、振り下ろされる。

 身が硬直してなおも、翁の心王は技を振るう。

 ただ真っ直ぐ撃ち放たれる兜割りを、防ぐのみ……の、はずだった。

ァアアアアアアアアアアアア!!!」

 一刀斎の一撃は、まさに無念、心法しんぽう秘奥ひおう

 己に対する誠心せいしんだけで放たれる究極の一。

 慢心まんしん疑念ぎねんも、覚悟かくご願望がんぼうも、相手を討ちたいという当然の苛烈さも、己が生き延びたいという自然な臆病さも。

 あらゆる感情を削ぎ落とした、無為むい天然てんねんの「ざん」の一念だけを乗せた撃ち。

 それは確かに、あの冬の日に消えたはずの斬撃で――。


 一刀斎は、倒れる翁を見下ろしていた。額を打ち割り鼻梁びりょうを分けた。頭で斬れた血管から盛れた血が、翁の目鼻めはなから流れ出ている。

 見るも無惨な状態にも関わらず、一刀斎にはその赤い涕泗ていし慟哭どうこくでなく、想いのこもった熱涙ねつるいにも見えていた。

 大上段から切り落としを放つ瞬間に、翁の目が揺れたことを思い出す。

(おれは、斬れたのだろうか)

 翁に絡みついていた、怨嗟と憤怒を。

 かつて月光を浴びながら、一刀斎と同じく天下一を目指す医者おんなが言っていた通りに、翁を蝕んでいた悪感情を断つことが。

 それを確かめる術は、翁が死んだ今もう残されていない。

 ――――強敵だった。

 在野ざいやには、これほどまでの強者つわものがまだいるのか。

 一刀斎が思い出したのは、柳生やぎゅうさとにて己を完膚無きまでに打ち倒した男が、今世こんせい無双むそうの剣豪が語っていた言葉。

『この道には、天狗道に堕ちた悪鬼がいる。会えば神仏すら斬り裂こうという狂人がいる。人の命を砥石としか思わない者もいるし、君より練武を重ねた求道者もいる』

「そして何より、おれより天下一に近き者もいる」

 拳を作らんばかりに、甕割の柄を握りしめる。

 あの柳生の郷を出て二ヶ月。多くの者と相対した。

 見知らぬ技を、違えた道を、異なる情熱をたりにした。

 天下とは果てしなく広く、天上は遥か高い。

「…………より、鍛えねばな」

 無意識に見上げた冬空は、深い青に染まっている。

 天下一の剣客になる。研ぎ澄まされた、綺麗な剣を放てる者になる。

 そう、一刀斎は誓ったのだから――――。

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