第二話 「印牧」

 熊の頭から引き抜かれた山刀ナガサには、ぬめった血がこびりついている。刀身のあちこちには、潰れた脳みその肉片にくへんが引っ付いていた。

 朝っぱらからえらいものを見た。腹から熱い酸液が逆流して胸を焼く。

 それにしても。

(何者だ、あの男……)

 熊をほうむったのは、既に年老いた老人である。

 その老体から肉は落ちているが骨は太く、背丈せたけちぢみきってるだろうが、壮健な男共より多少低いぐらいだろう。

 若かりし頃は、さぞ立派な体躯たいくだったに違いない。それこそ、今の一刀斎に迫るほどの。

 それに加え、暴獣を相手にしてなお怯まぬ剛胆ごうたんさと小さな目を真っ直ぐ貫く刀捌き。まさか。

(奴がくだんの剣客か?)

 美濃の山に潜み、武芸者を狩るという老剣士。生き残りからケダモノとさえ称されるおきな

 それほどの男であれば、ああもたやすく熊をほふることも出来なくはないだろうが……。

(――――)

 試しに一刀斎は、老人に向かって意識を飛ばした。

 闘志と興味を攻め気に乗せて、矢のごとく放ち射貫くように真っ直ぐに。

 質量さえ感じる濃密な気配。それを受けた老人は──。

「……ふぅ」

 ──一刀斎の方へ目を向けることなく、血と肉片を落とした山刀で熊を解体し始めた。

 その間も念を刺し続けたが、こちらを見る様子は全くないし、返意さえも感じなかった。

 どうやら、一刀斎に気付いてはいないらしい。あの老人はただの猟師なのだろう。

 この山で活動している猟師ならば、件の老剣士についてなにか知っているかもしれない。

 そう思った一刀斎は狭いうろから抜け出して、伸びをしつつ老人へと近付いた。

 近付くにつれ獣の血と肉の臭いが漂ってくるが、人の臓物ぞうもつも大して変わらない。

「すまんが、ひとつ聞きたいことがあるのだが……」

「そっちの足の方を押さえてくれんかのう」

「……なに?」

「胆を取ったから今から皮を剥ぐ。皮は後で売れるしのう。ほれ、早く」

 今出会ったばかりの一刀斎に、まるで長く連れ添った相方か、それとも弟子かとでも言うように指図を出すおきな

 なんとも身勝手というか、自分の調子で生きる男である。とは言え、手伝いの駄賃としてたずねても悪くはあるまい。

「分かった」

 一刀斎は熊の足に手をかける。荒い毛が根付く肌は、まだぬくみが残っていた。

 支えを得た老人は、瞬く間に熊の皮を剥いだ。その切り口に雑さはなく、手慣れた様子をうかがうに、やはりただの猟師なのだろう。

 やたら手際てぎわあざやかで、不思議と目が離せない。

「ふぃ、これで終わりじゃ」

「そうか、ならおれの話を……」

「次は肉を捌くとするかのう。剥いだ皮に包めば、持ち帰るのが楽になるからのう」

「……そうか。で、おれはなにをすればいい」

「荷物持ちを頼む」

 観念かんねんして問えば、さも当然の如く指図した。

 よくもまあ名前も知らない男を顎で使えるものである。

 よほど面の皮が厚いのか、それとも細々こまごまとしたことを気にしないおおらかな気質なのか。それとも年寄りらしく、横柄おうへいなのか。

 手際よく肉を捌いた翁は、ぽっかりと空いた熊の身体に適当に投げ置いて、四隅よすみを縄で結びあげ、簡易的な包みにする。

 見てくれは毛皮で出来た風呂敷だが、毛は血で赤くべたつき、片目をえぐられ顎をつらぬかれた頭は繋がったままで、むごい姿は恐ろしく異様いよう。丸い身体をした熊の妖怪ようかいのようである。

 そこらで拾った野太い棒に、翁は縄を括り付けて、その棒を一刀斎に差し出した。……これは、持ち運べと言うことなのだろうか。

「なにをしてるんじゃ。持ってくれんかのう」

 持ち運べと、言うことらしい。

「これもついでだ」と一刀斎は、翁から棒を受け取り肩に担ぐ。まだ成熟せいじゅくしたばかりの若い個体だろうが、それでも重い。一刀斎も優れた体躯をしているが、自分より十貫じゅっかんは重いだろう。

 それでも優に担げる辺り、さすがの怪力かいりきである。

 だが翁は感心する素振りも見せず、着いてこいと言わんばかりに山の中を進んでいく。

 行く当てもないし熊肉を横から掻っさらう気もない一刀斎は、黙ってその背中を追った。背筋は曲がりかけだが歩みを進める足はしっかりと持ち上がり、地面から浮き上がった木の根につまづくことなくまたいでいる。

「熊の肉は、美味いのか」

「美味い。が、その若熊わかぐまは腹の中もからで痩せてたからのう……」

 なるほど、この翁が熊を山刀で仕留められたのは、たとえ暴れていようが飢えて力がなかったからか。

 山道を進んでしばらく。崖縁がけふち近くに建っている小さい家が見えてきた。外見がいけんには一刀斎が堅田で過ごした自斎邸にも似ているが、それよりも一回り小さく見える。

おきなに家族は」

「もう、らんなあ」

 よほど遠い日にわかれたのか、いないと語るその言葉に寂しさは乗っていない。

 一刀斎には、翁がまるで木のように感じられた。

 この翁は生気せいきこそあれど、意気いきを感じない。まるで植物のように渇いている。妙な気配をする翁だった。

「熊は戸の側に置いておけ。本物の包みを持ってくるからの……」

 軒下のきしたまで家に寄ると、翁は屋内おくないへと姿を消した。ようやく解放されたと肩から熊の肉と皮を降ろして肩を回す。

 近付けばだいぶ古い小屋だった。土壁にはヒビが入り、個所かしょによっては中さえ見える。この寒い冬の山で暮らしていることはないだろうが、隙間風すきまかぜは入り放題だろう。

 ヒュウ、と、丁度ちょうど冷たい風が吹いた。同時にヒビから欠片かけが落ちる。やはりもうこの小屋は限界だろう。翁が戻れば忠告でも――――

「……む?」

 山風に撫でられた鼻が、ピクリと跳ねた。

 冷えて鼻水を垂らす前兆ぜんちょうではない。渇いているはずの冬の風に、妙な湿を感じた。

 一刀斎はふらりと小屋の横に回る。すると裏手に、小さな物置があった。

 唾を飲み込み喉仏のどぼとけを上下させ、ふらりと物置に近付いた。

 戸にはかんぬきがはまっているがじょうはない。一刀斎は閂を引き抜いて、ゆっくりと戸を引いた。

 すると、そこには。

「――――!!」

 狭い物置の中に詰め込まれていたのは、男の死体。

 健常のまま置かれているのは少しばかりで、腕足が欠けた胴体が、胴から離れ腐った手足頭が、こぼれた刀や折れた槍によって、無造作むぞうさに繋ぎ止められていた。

 さっき熊袋くまぶくろを見て「妖怪のようだ」と思った自分が愚かだった。

 このとうに朽ちた骨骸ほねむくろに溶け着いた肉こそが、一匹の化生けしょうであった。

 見忘れようもない。これは三年前に京の川沿いで見た、「屍肉しにくの山」に他ならない。

 鼻を揺らした湿りの正体は、物置からわずかばかりに漏れた

 要するに――――!

「っ!」

「キャァェエエエエイ!!」

 を感じ取った一刀斎は、即座に横に飛び転がる。

 一刀斎が居た場所を、真っ直ぐ貫く二つの刃は間違いなく、山刀ではなく小太刀である。

 さっきまで微塵みじん敵意てきいも零さなかった、樹木のような男から漏れ出るのは、尋常じんじょうならざる悪毒あくどく気配さつい

 流し目にこちらを見る兇貌きょうぼうは、まるで牙を覗かせた虎の如く。

 積み重ねられた屍肉のかたまり一刀斎ぶげいしゃに対する憎悪ぞうお結晶けっしょう

 これはもはや、否定しようがないものだった。

「全く……冬場だからとのを怠けるもんじゃあないのう……バレてしまったわい……」

「山に潜む武芸者殺しはお前か、じじい

「ほう……ワシのことを知って山を登ったと。ほうほう、なんとも命知らずな若人わこうどじゃ」

 翁は小太刀を引いて、握る二刀を構えて真っ直ぐ一刀斎へと向き直る。

 その姿が、脳裡のうりに焼き付いた師の姿と重なった。

 翁の構えは寸分違わず、自斎のものと一致いっちした。

「――その、構えは」

「ならば名乗るとしようかの……。ワシの名は、印牧かねまき助右衛門すけえもん当流とうりゅうは、印牧かねまきりゅうという」

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