第二話 「印牧」
熊の頭から引き抜かれた
朝っぱらからえらいものを見た。腹から熱い酸液が逆流して胸を焼く。
それにしても。
(何者だ、あの男……)
熊を
その老体から肉は落ちているが骨は太く、
若かりし頃は、さぞ立派な
それに加え、暴獣を相手にしてなお怯まぬ
(奴が
美濃の山に潜み、武芸者を狩るという老剣士。生き残りから
それほどの男であれば、ああもたやすく熊を
(――――)
試しに一刀斎は、老人に向かって意識を飛ばした。
闘志と興味を攻め気に乗せて、矢のごとく放ち射貫くように真っ直ぐに。
質量さえ感じる濃密な気配。それを受けた老人は──。
「……ふぅ」
──一刀斎の方へ目を向けることなく、血と肉片を落とした山刀で熊を解体し始めた。
その間も念を刺し続けたが、こちらを見る様子は全くないし、返意さえも感じなかった。
どうやら、一刀斎に気付いてはいないらしい。あの老人はただの猟師なのだろう。
この山で活動している猟師ならば、件の老剣士についてなにか知っているかもしれない。
そう思った一刀斎は狭い
近付くにつれ獣の血と肉の臭いが漂ってくるが、人の
「すまんが、ひとつ聞きたいことがあるのだが……」
「そっちの足の方を押さえてくれんかのう」
「……なに?」
「胆を取ったから今から皮を剥ぐ。皮は後で売れるしのう。ほれ、早く」
今出会ったばかりの一刀斎に、まるで長く連れ添った相方か、それとも弟子かとでも言うように指図を出す
なんとも身勝手というか、自分の調子で生きる男である。とは言え、手伝いの駄賃として
「分かった」
一刀斎は熊の足に手をかける。荒い毛が根付く肌は、まだ
支えを得た老人は、瞬く間に熊の皮を剥いだ。その切り口に雑さはなく、手慣れた様子をうかがうに、やはりただの猟師なのだろう。
やたら
「ふぃ、これで終わりじゃ」
「そうか、ならおれの話を……」
「次は肉を捌くとするかのう。剥いだ皮に包めば、持ち帰るのが楽になるからのう」
「……そうか。で、おれはなにをすればいい」
「荷物持ちを頼む」
よくもまあ名前も知らない男を顎で使えるものである。
よほど面の皮が厚いのか、それとも
手際よく肉を捌いた翁は、ぽっかりと空いた熊の身体に適当に投げ置いて、
見てくれは毛皮で出来た風呂敷だが、毛は血で赤くべたつき、片目を
そこらで拾った野太い棒に、翁は縄を括り付けて、その棒を一刀斎に差し出した。……これは、持ち運べと言うことなのだろうか。
「なにをしてるんじゃ。持ってくれんかのう」
持ち運べと、言うことらしい。
「これもついでだ」と一刀斎は、翁から棒を受け取り肩に担ぐ。まだ
それでも優に担げる辺り、さすがの
だが翁は感心する素振りも見せず、着いてこいと言わんばかりに山の中を進んでいく。
行く当てもないし熊肉を横から掻っ
「熊の肉は、美味いのか」
「美味い。が、その
なるほど、この翁が熊を山刀で仕留められたのは、
山道を進んでしばらく。
「
「もう、
よほど遠い日に
一刀斎には、翁がまるで木のように感じられた。
この翁は
「熊は戸の側に置いておけ。本物の包みを持ってくるからの……」
近付けばだいぶ古い小屋だった。土壁にはヒビが入り、
ヒュウ、と、
「……む?」
山風に撫でられた鼻が、ピクリと跳ねた。
冷えて鼻水を垂らす
一刀斎はふらりと小屋の横に回る。すると裏手に、小さな物置があった。
唾を飲み込み
戸には
すると、そこには。
「――――!!」
狭い物置の中に詰め込まれていたのは、男の死体。
健常のまま置かれているのは少しばかりで、腕足が欠けた胴体が、胴から離れ腐った手足頭が、
さっき
このとうに朽ちた
見忘れようもない。これは三年前に京の川沿いで見た、「
鼻を揺らした湿りの正体は、物置からわずかばかりに漏れた死臭。
要するに――――!
「っ!」
「キャァェエエエエイ!!」
それを感じ取った一刀斎は、即座に横に飛び転がる。
一刀斎が居た場所を、真っ直ぐ貫く二つの刃は間違いなく、山刀ではなく小太刀である。
さっきまで
流し目にこちらを見る
積み重ねられた屍肉の
これはもはや、否定しようがないものだった。
「全く……冬場だからと棄てるのを怠けるもんじゃあないのう……バレてしまったわい……」
「山に潜む武芸者殺しはお前か、
「ほう……ワシのことを知って山を登ったと。ほうほう、なんとも命知らずな
翁は小太刀を引いて、握る二刀を構えて真っ直ぐ一刀斎へと向き直る。
その姿が、
翁の構えは寸分違わず、自斎のものと
「――その、構えは」
「ならば名乗るとしようかの……。ワシの名は、
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