第十八話 窮鼠(1)

「ぜえ……はぁ……!!」

 路地ろじを作り出す家屋かおくに背を預けて、のきしに上を見てみれば、暗い空がなみっていた。

 わずかばかりの繊月せんげつひかりで、浮かび上がる薄い雲の輪郭りんかくは、灰色はいいろうつしまるで乗り重なるネズミの大群たいぐんである。

 正刻しょうこく。夜も喧騒けんそうが続く尾張おわり有数ゆうすう商都しょうとだとしても、夜もきわまり日の切り替わったこの時刻じこくには物音ひとつしない。──普段は、と枕に着くが。

 野太のぶとい男達の吠え立てる声がそこかしこから聞こえる。

 その中に紛れて、己の荒い呼吸が響いて聞こえた。咄嗟とっさに喉をしぼめるが、今度は心臓が「空気を寄越せ」と暴れだし、うるさいくらい内側から肉を叩いてきた。

 千治せんじよそおいは、いつものかぶいたものと大きく違う。

 紺色こんいろはかまは、ひるがえり音を立てぬようすそはぎに結ばれていて、濃藍こいあいの小袖のそでも、同じく布で腕に巻かれていた。

 暗夜あんやの中で一際ひときわ黒い、路地の闇に溶け込んでいる。

 しかし、乱れた呼吸で胸や肩を動かせば、気付かれる。呼吸を浅くも長くし動かぬように気を付けながら、舌を打つ。

「ちくしょう、しくじった……」

 じょうを砕いた感触と、手にかけた銭箱ぜにばこの重みが残る拳を握る。

 そこまでは、上手うまくいっていた────


「おい! こっちの鍵がはずされているぞ!」

「こっちもだ、戸が開いている!」

「なんてこった、裏の戸が空いているぞ!? もう盗まれたあとか!?」

番頭ばんとう旦那だんなを呼んでこい! 盗まれた品がないか確かめてもらえ。お前達は外を見てこい! ついでに、見回りしてる若い衆を見つけたら声をかけろ!!」

 混乱させる為に、他の倉の鍵を壊して戸も開け放していた。

 お陰で「外」はてんやわんや。いつもならほくそ笑むところだが、千治はでひっそりと息を潜めていた。

 ひときわ暗い天井近くで、影に溶け込んだ窓をじっと見ながら。

(旦那、奥の倉は……)

(あれは私用しようのだ。構わない。今はぐらしなぐらを見て回れ)

 遠くに聞こえた実父じっぷの声に応じて、奥歯おくばが軋んだ音を立てる。奥の倉とはすなわち、この倉のことだ。どうやらこちらには来ないらしい。

 当然だ。倉貸し問屋といやとしてあきなひんおもんぱかる様子を見せなければいけないからだろう。何より優先して、ちっぽけな箱がいくつか並ぶだけのここを見せるはずはないとは、見当けんとうがついていた。

 千治はたなの上からサッと下りて、懐から十手じって紐縄ひもなわコ型こがたかすがいを取り出した。

 十手のに紐で鎹をくくりつけ、まど直下ちょっかの壁に突き刺す。

 これならば打ち込む為に打って音が鳴るようなことがない。

 鎹を足場にし、登る度に鎹を打つ。腹に十貫じっかんはあろう木箱きばこを結びつけ、身のたけ三倍さんばいあまりの壁を、千治はあっという間に上って見せた。

 窓を開ける。幅は一尺いっしゃくはんもない。箱を背負っては抜けられない。

 千治は懐から、四隅よすみをそれぞれ縄で結んだ風呂敷ふろしきを取りだしてさんに敷く。

 その中心に木箱をおき、縄を握って慎重に、そして手早く手繰たぐり下ろした。地面に付いても、重い箱は音一つ立てない。

 縄を鎹に結びつけ、今度は自分が、縄をつたって外に出る。線の細い千治の体は、少し身を縮ませるだけで窓から抜け出ることが出来た。

 この間、五分と経っていない。驚くほどの早業はやわざである。

 後は、屋敷の外に出るだけ。

 倉の裏から、表の様子をうかがう。手代てだい年長ねんちょう丁稚でっちまで出てきて、総出そうでで倉をさらっているらしい。

 ……人目が多い。戸から出るのは無理そうだと、残った鎹を塀に打ち付けた。

 塀の高さは倉の半分程度。この程度、登ることなど容易たやすい。千治は今一度、金の入った箱を胸にくくりつけようとした──だが。

「なにをしている!」

「っ──!」

 瞬時しゅんじに、声をした方を振り向いた。……そこにいたのは。

「……まさか、千治、か?」

「ちぃ……!」

 この倉の持ち主で草間屋の店主である、父親の顔。

 見たくなかった。良心がさいなまれるから、などではない。己の行いを受けて、「悪事」に手を染めた悪人の顔であったから。

「お前いったい、なぜ」

「なぜもはぜもねえってんだよ!!」

 目を剥いた千治は、己の体重の半分以上はあるはずの箱を、持ち上げ振りかぶる。

 千治の腕では、父親まで投げつけることなどとうていできない。──はずだった。

「らあ!」

「んな……!」

 しかし千治は、容易よういにそれをなげうった。咄嗟とっさに倉に隠れた父親が再び顔を出した時には、黒い影がすでに、塀を登りきっていた。

 その背中の持ち主の名を、呼びかけて。

「旦那様! どうしました!」

「っ……」

 騒ぎに気づいたのか、三十年さんじゅうねん連れ添った番頭ばんとうが寄ってくる。呼ぼうとした名を、すんでで飲み込み。……吐きたくなかった台詞せりふを、代わりに吐いた。

「……影縫だ! 外に逃げたぞ!!」


「見つけた、影縫だ!」

 こちらを指差すのは、丁稚の頃から見知った男。最近手代になった真面目まじめな奴で、奔放ほんぽうな千治とはりが合わなかった。ただ、好物の団子だんご土産みやげに持ってくと、大袈裟おおげさに喜ぶ奴だった。

「おらぁあ!」

 かつての笑みが頭を過ぎる。だがしかし千治は、その笑みを浮かべた顔目掛けて縄を結んだ十手を振り投げる。頭を庇った手代の手をしたたかに打った。利き手だ。もし折れていたら、そろばんはじきやしなろしに支障ししょうが出るだろう。

 そんなことを思ったのは、一瞬で。そんな思いを置き去りにするように、一心不乱に逃げ出した。

 つらくはない。くるしくはない。なぜならこれは、

 哀れではある。雇い主の悪行など知らぬ身で、巻き込まれてしまったのだから。

 父親には顔を見られた。もう戻れる場所はない。稼業としてしまうのがいいだろう。

 ああそうだ、ならばいっそう、熱田あつたの方にでも行ってみるか。ここより人に溢れた街なら、盗める物など数あろう──。

「ここにいたぞ!」

「ようやく見つけたぞ、盗人ぬすっとめ!」

「っ!」

 路地を抜けたら、右と左に二人がいた。気を散らしていなかった。周囲を探っていなかった己の落ち度──だというのに。

「なんでここにいやがる!」

 当たり散らすように叫んで、紐にくくった十手を振り回す。十手はにぶい風切音を発して、用心棒を近づけさせない。

 用心棒達は息をのみ冷や汗を流しながら、ジッとこちらを睨ん《にら》でいる。

 ……目の端で、右の男が頷いた。その理由に気付いたのは。

「ふん!」

「んなっっ!」

 棒の手で、十手についた紐を巻き取った時。

 荒い竜巻が収まった瞬間、左側の男が迫ってきた。

 さきのうなずきは、合図。睨んでいたのではなく、反対側の男と目で示し合わせていた!

 野太い棒の手が、高く掲げられ、千治の頭めがけ振り下ろされる。

 ──打たれる!


 カコーン……!!


 ……そう、覚悟していたのだが。樫の木が頭蓋ずがいを強かに打つかわいた音ではなく、なんとも間抜けな、気が抜けた音が響き渡った。

 左側から来た用心棒が、白目を剥いて倒れ込む。その背の向こうに、立っていたのは。

「止めとけそれは。さすがに死ぬだろうが」

 六尺ろくしゃくばかりの青竹あおたけを携えた、一刀斎の姿であった。

「一刀斎、なん……」

「お前、影縫の仲間か!?」

「いや違う」

 千治のいにかぶされた、用心棒の叫びに応える一刀斎。

 しかし訊いた言葉は届いていたようで、その目はじっと千治に向けられていた。

 仲間ではない。それはきっと、千治自身にも当てられた言葉だ。

「なら、手柄てがらを横取りに来たか!?」

「──そうなるか」

 目を伏せて首肯しゅこうする一刀斎を見て、千治は縄を思いきり引く。すると十手の絡まる樫棒は、用心棒の手からひったくられ、あっという間の千治の手元に。

「おらあ!」

 用心棒から奪った棒を、一刀斎へと振り付ける。

 しかし軌道きどうは素直、一刀斎は寝かした青竹で棒の手を受け止めてみせる。──しかし。

「………ッ!」

 猛烈もうれつ違和感いわかんが、一刀斎におそいかかった。

「……おいそこの! 手柄てがら云々うんぬんは後に投げ置け! 得物えものがないなら人を呼べ!!」

 いきなり出てきた大男になぜしたがわなければならぬのか。得物などなくても細身のコソ泥などなんとかなると、用心棒は無手で千治におそいかかった。

 だが、しかし。

「るぁあああ!」

「がっぶっっ……!!」

 翻された六尺の棒は、迫り来る男の胴を打ち付ける。肉が潰れる音が耳にさわる。千治より体格のいい男はの字に体を曲げたまま吹っ飛んで、背中から壁に叩きつけられた。

 細腕で振るわれた樫の棒は、今の一振りで折れ壊れる。

 ──やはり、尋常じんじょうの力ではない。少なくとも千治に、これほどの力が備わっていたとは思えない。

 この感覚。覚えがある。これはまるで、川の向こうの村で暴れていた無頼者ぶらいものの──。

「……お前の武器は舌鋒ぜっぽうだと思っていたんだがな、千治」

「俺は、ネズミだぞ」

 瞳の白に、赤い筋が幾条いくじょうも駆けている。形のいいひたいゆがめるように血管けっかんが浮いていて、細い首からは強く張られたすじが見えていた。

窮鼠きゅうそは、猫を噛むんだよ──!」

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