出会い:綴野つむぎ
「いやー、今週もお疲れさんでしたっと」
金曜日の午後五時十五分。今日のお仕事を終えた俺は会社を出て伸びをした。
ここしばらくは終電で帰ることが多くて、しかも休みなく働いていたけど、何とかひと山片付いたので定時退社が許された。しかも土日も休めるときたもんだ。
こんな時間に外にいるのは久しぶりだから気分がいい。どこか寄り道でもしていくか。
そう考えて俺は、駅に向かう道から少し逸れた裏道に入ってみることにした。
しばらく歩いていると、見慣れない建物の並びの中に本屋を見つけた。
「KIMIRANO書店……へえ、こんなところに本屋があったのか。会社から結構近いけど知らなかったなあ」
小さい頃から本屋が好きだった俺は、自然とその店へと足を踏み入れた。
独特の静かな空間に充満する紙の匂いと、そして行くたびに陳列が変わる本が、いつ来ても飽きなくて好きだった。
なぜ過去形なのかというと、学生時代はそこそこ本を読んでいたが会社に入ってからは本を読む時間が全く取れずにいるため、本屋に足を運ぶこともなくなった。
だがこうして数年ぶりに本屋に来てみても、ワクワクする心はまだ失っていないことを実感する。
さて、せっかく週末が休みなことだし、昔読んでたようなミステリーものを二、三冊ぐらい買って帰るか。
お店に入った俺は、まず本棚の配置図を見る。
入口が小さいから狭い店だろうと思っていた店内は、予想を少し裏切るくらいには広かった。
自分の現在地と目的のコーナーの位置をなんとか記憶しようとしていると、後ろから声をかけられた。
「あの、何かお探しですか?」
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
首元までしっかりとボタンを閉じたボーダー柄のYシャツの上には「KIMIRANO」と書かれたエプロンを掛けている。
ここの店員だろうか。
「えっと、はい。ちょっとミステリーものを探していて」
「よかったらご案内しましょうか?」
「助かります。お願いします」
せっかくの申し出を断るのも引けたので、彼女に頼んでステリー小説が並んでいる本棚に案内してもらった。
「こちらになります」
「わざわざありがとうございます」
「いえ。ちなみにどういった本をお探しですか?」
「あー……特に決めてないんですけどね。この週末に二、三冊ぐらい適当に読もうかなと思って」
「そうでしたか。ご迷惑でなければ、いくつかお勧め致しますが」
「うーん、そこまでお願いしてしまうと申し訳ない気が……」
「お気になさらず。人に本を勧めるのは好きなので。ちょっと失礼しますね」
そう言って彼女はミステリー小説が並べられた本棚を見回す。
釣られて私も本棚を見ると、綺麗な字で書かれたポップが目に入った。
『店員イチオシ!』
『ドラマ化しました!』
『今話題の新作!』
うーん。
なんとなくオススメしたい気持ちは伝わってくるが、肝心の中身が分からない。
少しばかりモヤモヤしていると、店員が本棚からスッ、スッ、スッと本を三冊抜き出した。
「えっと、こちらがオススメになります。週末に読まれるとのことでしたので、ちょっと長めのものを選んでみました」
「ありがとうございます。あの、ちなみなんですけど、それらってどんな感じに面白かったですか?」
彼女が持つ本の表紙を軽く眺めた後になんとなく尋ねる。
すると彼女は、少し小首を傾げながらクスクスと笑い出した。
「えっ、なんか変なこと言いましたか?」
「ああいえ、すみません。悪気があって笑ってしまったわけではないのですが、不快な思いをさせてしまったのなら失礼しました。ただ、ことミステリー小説においては、それをお答えしてしまうと作品の面白さが半減してしまうかと思いまして。何も知らずに読むからミステリーは面白い。私はそう考えてます」
言われて少し考えてしまう。確かにミステリーにおいて
ここで「犯人が意外な人物でした」「動機がよく練られてました」「トリックに惚れ惚れしました」などと言われてしまっては、そのことばかりが気になってしまうし、読んだときの楽しみも損なわれてしまうかもしれない。こういう本を勧めるときは「とりあえず読め」でいいのだ。
ふと、直ぐ後ろにある別のジャンルの棚を見てみると、そちらには作品の魅力が詰め込まれたポップが置かれていた。視線を戻し、もう一度ミステリー小説の棚にあるポップを見る。
なるほど、作品の魅力を伝えるだけでなく、作品の魅力を伝えずに買ってもらうという工夫も必要なのか。
「失礼しました。お姉さんの言う通りですね。何も聞かずにそちらを買わせて頂きます」
選んでもらった本をそのままレジ打ちしてもらい、購入する。
「何から何までありがとうございました。お陰様で良い週末が迎えられそうです」
本が入ったビニル袋を受け取り、礼を言う。
「こちらこそ、お買い上げありがとうございました」
彼女の笑顔に見送られながら店を後にした。
これが彼女、綴野つむぎさんとの出会いであり、俺が再び本を読み始めたきっかけだった。
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