アジワエル
愛庵九郎
アジワエル
01
ワタシは天使だ。
ワタシのもとには毎日何人もの迷える子羊が救いを求めてやってくる。
「天使さま、どうか私をお救いください」
今日もまたひとりの男が。
「どうしたんだい? かわいい人間」
「天使さま。いくら働いても借金が返せないんです」
「それは大変だ。同情するよ、人の子よ」
「いいえ、私がいけないんです。お金が入ったらすぐにギャンブルに手を出してしまうんです。博打で当てれば借金を返せる。そう思ってお金をつぎ込み、負けたらせめて負け分を取り返そうとしてさらにつぎ込む。そのくり返しで、いつまでたっても借金を返せないんです。だから、私が悪いんです」
「そうか、人の子よ。それはおまえが悪いな」
「そうなんです。どう考えてもトータルでは負けた金額のほうが大きいはずなのに、いつまでたってもギャンブルをやめることができません。借金もふくらんでいく一方で、毎日の生活もつらいです。この先ずっとこんな生活をつづけていくんだと思うと、吐きそうになります」
「うんうん、わかるぞその気持ち。自分が悪いとわかっているのに、正しい道を選べないふがいなさ。その無力感はきっとつらいものだろう」
「そうなんです。ギャンブルで生活もままらないし、借金取りには日々つめよられて精神も参ってしまいました。天使さま、どうか私をお救いください」
「あいわかった。ワタシがそなたを救ってみせよう」
ワタシは告解室の仕切りを上げて、両手で男の肩を固定する。
そして口を大きく開け、男の顔を丸呑みにし、ギザギザの歯でその首を噛みちぎった。
ダバダバとあふれた血が私の首元から体をまっ赤に染める。
バリバリと音をたてて、男の頭蓋骨や首の骨を噛み砕く。
「げふ。どうだ、これで救われただろう?」
首から血をふき出しながら男はうつ伏せに倒れている。
もうこれでギャンブルをやめられない自責の念も、借金取りに責めたてられることもなくなった。
男の苦悩はきれいさっぱり消えたのだ。
ワタシは残った男の胴体も咀嚼していく。
「ムシャムシャ。パキッパキッ。ゾブリゾブリ。モゴッキュンッ」
ワタシはミカエルでも、ガブリエルでもなく、アジワエル。
これが、ワタシの救いだ。
「きみの苦悩は、肝臓の味がしたよ。ごちそうさま」
ワタシは血まみれのエプロンに残るまっ白な部分で口元をふき、告解室をあとにした。
02
ある朝。
礼拝堂のステンドグラスからは斜めに光がさしこみ、追いやられた闇が建物のすみに青くうずくまる。
スズメのさえずりがシンとした礼拝堂まで届く、穏やかな時間。
ワタシの好きなひととき。
「でも今日もまた、お仕事がはじまるな。迷える子羊は尽きないものだ」
木の両開き扉が大きく開かれ、肩で息をするひとりの少女が現れる。
「天使さま! 哀れな子羊をお救いください!」
「あいわかった。このアジワエルが、おまえを救ってしんぜよう」
私たちは礼拝堂の長椅子に隣りあって腰かける。
「天使さま。私を苦悩からお救いください」
「ふむふむ。なんでも言ってみたまえ」
「私には愛してやまない男の人がいます。名をトール。トールとは幼いころからのつきあいでした。おたがいに腐れ縁で、友だちのようなつきあいでした。ところが、ある日、トールに恋愛相談をされたのです」
「トールが好きになったのは学園でも高嶺の花の女生徒でした。名をウェンディ。ウェンディは学園のマドンナのような存在で、私ははじめ、『ウェンディに憧れるのはわかるけど、うまくいかないと思う。でも勇気を出して、気持ちを伝えてみるのもいいんじゃない?』、そうトールに話していました。ところが、当たって砕けろとトールのした告白を、ウェンディは受け入れたのです」
「長年のつきあいで意識したことはなかったのですが、実はトールも魅力的な男の人だったんです。そのときにはじめて意識しました。私はトールを好いていたのだと」
「また古典的な悩みだね」
「え?」
「いいよ、つづけて」
「トールは笑顔で私にこう言います。『ウェンディとつきあえたのもきみのおかげだよ。きみは僕の人生で最高の友だちだ』と。私は胸が苦しくなって、うまくトールの顔も見れませんでした」
「私はいまでもトールのことが好きです。トールとウェンディがおにあいなのもわかります。ウェンディといるトールがとてもうれしそうで、トールの笑顔を見ると幸せな気持ちになるのもほんとうです」
「でも、それでも私の心は茨の縄で締めあげられるようにジクジクと痛んで、毎夜嗚咽が止まらないです。天使さま、どうか私をこの苦悩からお救いください」
一息で話し終えた少女は、祈りの姿でワタシに向きなおる。
「ふぅーっ、あいわかった。ワタシがおまえを救ってしんぜよう」
ワタシは大きく口を開いて、少女の肩口に鋭い歯を突き立てた。
「ひぃあっ……!? いっ……いぎゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
大聖堂に少女の悲鳴がこだまする。
「いやぁっ……! いだいいだいいだいいだいっ! やめでっ! はなしてっ!」
ワタシの歯と少女の服の隙間から泉のように血がふき出す。
「どうしたのですか? これがおまえの求めていた救いですが?」
「痛っ……あああぁぁぁあぁあぁああああっ!! やめてっ! このっ! 私を食べるなっ!」
?
この女は何を言ってるんだろう?
「これは救いです。苦悩から解放されたい。そう思ってワタシのもとに来たのでは?」
「いっ……はぁっ! はなしてっ! 私は……わたしはぁっ……こんなことのために教会に来たんじゃないっ!」
少女の拳がワタシの頭をガスガスと叩く。
でも人間ごときの拳じゃワタシの歯はビクともしない。
ワタシは天使。
そういう風にできている。
「おまえは苦悩から救われたくてここに来た。そしてワタシが与えられる救いはこれだけ。そのかわりこれは絶対的な救いなのです。いままで苦悩から解放されなかった人はひとりもいません。ワタシがあなたを味わえば、あなたの苦悩は必ず消える」
「やめろッ! 口を開けろッ! 殺人鬼ッ!」
ワタシは少女の肉にギリギリと牙を立てる。
少女の悲鳴がステンドグラスをビリビリと揺らす。
「ワタシのもとに来ればあらゆる苦悩から救われる。その評判を耳にして、おまえもやって来たのでしょう。それは間違いではありません。ワタシは、必ず、おまえを救う。その苦悩を根絶するすべを、ワタシは知っている」
「くあぁぁぁ……嫌だっ! 私はまだ……死にたくないっ!」
……死にたくない?
これは、これは異なことを言う。
「……なぜですか? おまえは苦悩から解放されたいのではありませんか? ワタシが、与える、救いは、絶対的な救いではありませんか?」
「嫌だッ! 私はまだトールに何も伝えてないッ! いま死ぬわけにはいかないッ!」
少女はワタシの上顎と下顎に手を差し込み、口を開こうとする。
人間の力で天使に敵うとでも?
「おまえはまさか夢見てるのですか? トールという男が心変わりをして、おまえを愛するようになるとでも?」
「違うッ! そうじゃないッ! そうだったらいいけど……私は、何もかも消したいわけじゃないッ!」
「なぜおまえはここに来た? 苦悩からの救済。それだけがワタシからおまえに与えられる唯一のものだ。まさか自分の思いを告白したかっただけなどと、建設的なアドバイスを求めていただけなどと、生煮えなことは言うまい?」
「ワタシは、天使だ。ワタシが、おまえを、救う」
ワタシは少女の骨を削るためにゴリゴリと歯をこすりあわせる。
「あああぁぁぁあぁあぁあああああああああっ!!! いらないっ! 救いなんていらないっ! おまえにはやらないっ!!」
「ああ、そう。その痛みも、血も、その苦悩も、ぜんぶぜんぶおまえのものだ。だから、ワタシが味わえる。でもおまえが救いなどいらないのなら――」
「――それでいい。そのていどの苦悩なら、ワタシが味わうまでもない」
ガバッヂュッ。
ワタシが口を開けると。
少女の肩口からわき腹にかけては、赤い弾帯でもかけているように血にまみれていた。
「痛ッ……この化け物ッ! おまえは絶対に退治してもらうから! 丘の上の教会には化け物がいるって!」
少女は脚をもつれさせて、転びそうになりながらも、教会の扉から外の世界へ出ていく。
どうやら、その苦悩をひきずって生きることに決めたらしい。
03
「――さて」
大聖堂にひとり残されたワタシは、扉からすべりこむ涼やかな朝の風を顔で受ける。
「またひっこしだ。これでは民を救うのに不都合が出るだろう」
ワタシは教会の身廊に伸びる竜がのたくったような血の染みを見る。
「静かな教会が好きだったけど、こうなってはいたしかたないな」
ここには。
神父も修道女もたくさんの信徒もいない。
静かなものだ。
みんなワタシが救ってしまった。
なのになぜあの少女を救わなかったのかって?
ふふ、長く生きすぎると、ひとりごとが多くなるんだ。
「ワタシは人の苦悩を食べるけど、吸血鬼とは違い、それで生きているわけじゃない。ワタシは天使だ。人を救うためにある」
「あの少女は救いを拒絶した。さすれば、救いを与えるわけにはいかない」
ワタシは、天使だからだ。
教会の外に踏み出した。
視界いっぱいの青空、ぼやける山の稜線。新鮮な朝の光を体に受けたりしても、ワタシは灰になるわけでなく。
「ひさびさの外の空気だ。次は……どこへゆこうか」
ワタシは天使だ。
これから味わうであろう数々の苦悩を思い描く。
迷える子羊たちよ、願わくば――
「おまえに、救いあれ」
アジワエル 愛庵九郎 @1ron9row
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