中嶌B4

年々歳々

 そろりと扉を開けて、小声で声をかける。

「ただいまー」

 返事はない。当たり前だろう。今は深夜とも明け方ともつかない午前三時。よほどでなければこんな時間帯に起きている家族はいない。というか、自分もそこまで遅い時間まで起きている予定はなかったのだ。

(それもこれもいちろー先輩のせいだよな……)

 思い出すのは、日々テンション高く自分やもう一人の先輩を振り回す先輩の姿。これだけ振り回されても憎む気になれないのは、彼の人徳なのかもしれない。いつもの笑みというよりも、集中したときの真剣な姿に毒気を抜かれてしまうのだ。

 しかし、それはそれとして、こんな時間の帰宅に至ったことには恨み言の一つも言いたくなる。今日は朝から実家の年越しの支度の手伝いがあるからと、前々から母と姉に言い聞かされていた身としては寝坊もできそうにない。

(てことは、今日は布団に入ったらたぶんアウトだ……)

 なるべく規則正しい生活を心がけて体内時計をセットしてはいるが、恐らく今日ばかりはどうしようもないだろう。

 頭を抱えつつ、スマホの明かりを頼りに部屋に戻る。勝手知ったる我が家、階段もあるが、スマホ画面の頼りない明かりでもさほど困らない。


 形ばかりの仮眠をとっていつも通りの時間に居間に降りれば、母と姉しかいなかった。

「はよ。父さんは?」

「お父さんは昨日忘年会で飲みすぎたみたいで、二日酔い。今日は使い物にならないわね」

 からからと笑う母から湯気の立った椀を渡される。今日の朝食は和食らしい。お味噌汁の他に、ほっくりと焼き上げられたほっけと、ほうれん草のおひたし。それに梅干し入りのご飯。

 豪華だ、と思ったが、年末年始に向けて買ったあれこれを詰めるための冷蔵庫掃除も兼ねているのだろう。年越しの支度を手伝うようになって数年、そのあたりの機微がわかるようになってきたのはよかったのか悪かったのか。

 そんなこちらの心中はさておきとばかり、向かいの姉がこちらに箸を向ける。行儀が悪いと母から小言が飛んだ。

「あんたこそ昨日は帰り遅かったみたいだけど、何時に帰ってきたの?」

「三時」

「ちょっとー、そんな寝てません状態なこと言われたら、力仕事頼みづらくなるじゃない」

 もう、と唇を尖らせた姉の隣、腰掛けた母が首を傾げる。

「いつもの先輩のところ?」

「そーそー。卒論が年明けすぐ提出だから、今年の年末年始は帰省しないらしくて」

「あら。それならきよ、お節届けてらっしゃい。余分に作るようにするから」

「え」

 うん、それがいいわよ。にこやかに笑う母に、きよ、こと梶原潔は内心途方にくれた。


 ◆ ◆ ◆


 編集中だった文書の上書き保存が完了したのを確認して、中嶌は大晦日に漬けた胡瓜をつまみつつ、焙じ茶を飲む。梶原を帰してからもなんのかんのと口実をつけて入り浸っていた岡田もさすがに大晦日には実家に帰ってしまい、部屋は静かだ。

 実家はさほど遠くはないものの、卒論を抱えて帰る気にもなれず、結局今年は初めて一人で年を越した。カップ麺でもそばはそば、と年越しに選んだコロッケそばはなかなか癖になりそうで、今度からときどき買ってみようかと考え始めている。

 提出後落ち着いてから帰るとだけ伝えた実家には、電話で年始の挨拶を済ませた。初詣は自転車で十数分走った先の小さな社へ。初めて自分で一から出汁をひいて作った雑煮は、意外とうまくできた。大晦日に漬けた胡瓜もいつも通りに美味しい。

 それにしても、といつもよりも余裕のある炬燵に足を入れたまま横になり、思う。いつも通りのようで、一人きりで過ごした日はさほど多くはなかったことに気づかされてしまい、つまるところたぶん、寂しいのだ。

(おっかしいなー……一人暮らしをしてたはずなんだけどな……)

 ごろりと寝返りをうって、目を閉じる。

 うとうとと微睡む耳に、遠く呼び鈴の音が聞こえた。


 ◆ ◆ ◆


 # 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 - 劉希夷「代悲白頭翁」より

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