第181話 大円形闘技場
カチェは神殿の上階から王都の大路を見下ろし、驚きから思わず呟く。
「なんて人混みなのかしら」
王都にある大円形闘技場は世界で最も壮大だと讃えられ、その周辺は日頃から賑やかな場所だった。
とはいえ今日の喧騒は完全に異常なものだった。
大路ばかりでなく脇道までも人で溢れ、数万人どころか、もっと多くの者が押し寄せているのではないだろうか。
後から後から尽きることなく湧き出る人の波を統制しようと兵士たちが大声を叫んでいるが、群衆の前に効果が薄い。
ついに警備を担っていた王宮軍団の百人頭が合図をする。
太鼓が鳴らされ盾と棍棒で武装した兵士たちが隊列を組み、人々の流入を防ぐために道路を閉鎖した。
抗議や怒鳴り声が反響して恐ろしいほどであった。
百人頭は制圧の掛け声を絶叫する。
兵士らは盾や棍棒を押し出し、一斉に前進した。
抗議していた男たちと衝突する。
男たちはいずれも肉体労働で鍛えた体つきであり、盾で押されたところで頑強に抵抗していたが棍棒で殴られるとさすがに逃げた。
だいぶ荒っぽい鎮圧だったが、あれはあれで正しい判断だったかもしれない。
放っておけば群衆は行き場を失い、身動きもできなくなるだろう。
カチェは神殿から状況を見ているので安全であったが、これでは王都の大路ですら無事に移動できるか分かったものではない。
祝祭を見物しようと王都近郊の人々がやってくるばかりでなく、さらには海路までも利用して来た者が溢れかえっていた。
そのため宿屋という宿屋は全て満室。
この状況をある程度、予測していた行政は臨時の宿泊所を設けていたが、まるで足りない有様だった。
商店や興行師にとっては、またとない稼ぎ時の到来とあって、辻では音楽師や芸人が即興の見世物を披露していた。
詐欺師やスリ、強盗にとっても同じことで既にかなりの被害が噂されている。
今日は大闘技大会の初日。
ガイアケロン王子が手に入れた情報によるとアベルは大会に出場するのだという。
その話を聞いただけでカチェは酷い不安に陥った。
呼吸は小刻みに乱れ、胸は重たい鎖で締め付けられたようだ。
アベルはたださえも奴隷という最悪の立場であるうえ、命を賭けた試合に出るとは、いったいどういうことなのか。
きっとアベルは無理やり引っ張り出されるのだ。
そうに違いない。
そして、脱出を狙っているはずだとカチェは考える。
もちろん助けなくてはならない。
アベルの力になれるのは自分以外に誰がいるのか。
「絶対に助けるから……」
思わず決意を呟く。
すると背後にいたダンテがカチェに語りかけてきた。
イースの祖父である彼は物静かで、日頃はほとんど無駄口を喋らない。
「カチェ様は機会とあらば襲撃してでもアベル殿を奪還するおつもりでしょうか」
迷わずカチェは頷く。
「そうね。やるべきです」
「王道国には戦場に名を馳せた強者が幾人もおります。特に図抜けているのが剣聖ヒエラルク。できれば戦いを避けるべきでしょう」
「ああ、あの男ね。戦う様を見たこともあります。相手の攻撃は何もかも見抜いて避け、打ち出す斬撃は完璧でした。僅かな間違いもありません」
「ヒエラルクと戦って勝てるとお思いになられますか」
カチェは考える。
この目で直視した、ヒエラルクの鬼気迫る戦い。
相手の血と肉と骨を愉しみ、奪い尽くすような、そういう立ち振る舞いだった。
自分の経験と勘は告げてくる。
戦えば負けると。
「わたくしでは無理かもしれない。けれど、隙を作ってアベルを逃がすだけなら可能性はあります」
「もし、ヒエラルクと出会ったのなら私にお任せ願いたい」
ダンテの声は静かなものだったが、並々ならぬ気迫が漲っていた。
彼は赤褐色の瞳に揺るぎない決意を宿している。
「アベル殿は私にとっても恩人です。義理息子ヨルグの最後に意義を与えてくれた。それは師であり義父であったはずの私にもできないことでした」
「なるほど。ダンテ、貴方の気持ちは分かりました」
「アベル殿に剣を教えたのはヨルグとイース。父と娘が魂を注いで育てたのですから、アーク家の系譜にあるこの私が命懸けになるのは必然」
カチェは思わず溜息を
血族が齎す強固な結び付きに、感心というよりも恐ろしさを覚える。
絡まり合った家族や師弟の絆。
しかし、絆とは時として束縛を超える、呪いに近い意味合いを持つ。
どうやら運命の業はダンテをも巻き込んでいくようであった。
そのダンテから、カチェは幾度か技術を習っている。
さらに強くならなければと無理を承知で頼んでみたのだが、意外にも承諾してくれたからだ。
二人で訓練を繰り返し、彼がイースに劣ることのない真の強者であるのを確認した。
ダンテの持つ多様な技と駆け引きを学べたことは大きな収穫であったのだが、同時に彼の技術を我がものとする不可能さを感じずにはいられなかった。
過去、イースの剣も同じように見続けてきたが、だからといって真似ることはできなかったのを思い出す。
理由は幾つもあるが、まず武器が異なる上に、体力にも差があった。
根本的な資質において、埋めがたい何かを感じる。
となってくると模倣する段階を超え、自分による工夫が必要となる。
「ダンテ。貴方ならヒエラルクに勝てるかしら。考えてみましたが、わたくしには分かりません」
「アベル殿の救出は任務にとっても重要。バース様はアベル殿を単なる使者ではないと仰っていました。危険を承知でやる意味はありましょう」
「おいおい相棒よ。なにやら物騒だな」
二人の会話を聞いていたウォルターは苦笑している。
「お前の強さは分かっているが、下手な手出しは無用だぜ。あいつなら自分で何とかするさ。まぁ、俺だってまさか息子が闘技場に出るとは思いもよらなかったけれどな」
カチェは悩んだ。
叔父ウォルターの言いたいことも分かるのだが、アベルはどうにも普通ではない必死な心境を滲ませていた。
駆り立てられ、飢えた気配。
理性や損得を超えた衝動が心に満ち満ちていたのではないか。
あのアベルが果たして自分を守るという当たり前の行動を取るであろうか。
もしかすると破滅こそを選んでしまうのではないか。
そう思ってしまうと余計に恐ろしくもなる。
「まぁ、とりあえず闘技場の中には入れるのですから今日のところは様子見をしましょう。我らが、せめてアベルの姿を見たいと頼んだら、手を尽くして席を用意してくれたガイアケロン王子には感謝しませんとな」
誰も彼もが大円形闘技場の試合を観たがっていた。
いかに六万人もの人間を収容できるとはいえ、観客席には限りがある。
最前列付近の一等席は王族や貴族のもの。
その後ろは裕福な市民に割り当てられる。
さらに後方が平均的な収入の庶民でも買える値段の席。
そして、最後列付近が奴隷でも観戦を許される区域となる。
王族であるガイアケロンや大貴族のエイダリューエには特別な貴賓席や貴族用の観戦席が割り当てられているが、それをカチェのために分けてくれたのである。
問題なのは警護役であるウォルターとダンテの居場所である。さすがに貴族用の領域に二人の席を用意できなかったという。
代わりに裕福な者が金を惜しまず買い取る席が二人には用意されているが、カチェとは離れ離れになってしまう。
「とにかくカチェ様。くれぐれも気を付けてください。それでなくとも貴方は人目を惹くのですから」
ウォルターは心配のあまり、子供に対するような口調で注意を繰り返す。
「顔は布で隠します」
「ええ、それが良いでしょう。素顔は誰にも見せないでくださいね。本当は俺がずっと横に居たいのですが」
「叔父上様。もう少し、わたくしを信頼してくださいまし」
気品ある美しい微笑を浮かべてカチェは言うのだがウォルターの不安はむしろ促進した。
こんな姿をしていながらカチェは激しい行動力を秘めているのである。
アベルにカチェ、ハイワンド家、皇帝国の命運にも関わる密使としての任務。
いくつもの宿命が重たく圧し掛かっていた。
なんだって俺みたいな庶民育ちの私生児に、こうした日が来るかね。
ウォルターは皮肉気にそう思うが、これが奇妙な巡り合わせによる現実だった。
~~~~~~~~
アベルは王宮の中庭に集められた奴隷たちに混ざる。
興奮しながら喋りまくる男がいたかと思えば、暗い顔つきで黙り込んでいる者もいた。
奴隷にとっても人生を変えうる日だった。
勝てば解放されるだけではない。
市民の身分と賞金が手に入る。
そうとなれば王宮の奴隷身分ではどうしようもなかったもの、例えば女すら獲られる。
人生で一度しかない機会。
闘技場で殺し合いを演ずるという行為はそれぐらいでなければやる意味はない。
奴隷たちは荷馬車で大円形闘技場へ連れて行かれるが、当然のこと逃亡できないような処置が施されていた。
まず二人一組で互いの足は鎖によって繋がれている。
よりにもよってアベルの相手はランバニアの忠実な
奴隷や罪人を輸送する荷馬車は王宮軍団の兵士に守られている。
さらにランバニアの輿も共にすぐ近くを移動するのだが、それにはヒエラルクらの警護まであるというのだった。
――やっぱ簡単には逃げらねぇよな……。
アベルは居並ぶ衛士たちを見てそう思う。
もっとも、それ以前の理由で逃亡に踏み切れないでいた。
イズファヤート王の傍に行き、あの男を殺す。
決して消えない、深い深い欲望。
叶えようとするなら逃げるわけにはいかなかった。
荷馬車は門から出て外苑を通過。
王都へと出て行く。
実に久しぶりの外界。
鎖に繋がれているが、それでも解き放たれたような気分になる。
王宮は美々しい装飾と黄金に溢れていても、イズファヤート王の残酷な秩序に支配された魔窟のような場所だ。
王城の周囲は大貴族の屋敷が並んでいる地域だが、そこを通過すると市民街になる。
景色は一変した。
恐ろしいほど汚れた物乞いと貴金属を身につけた聖職者が同じ路面に佇む混沌。
大路の両側に隙間なく建っている煉瓦造りの商店や工房。
下層民では一生の稼ぎを貯めても手に入らない高級品が売れていく一方で、本物になり損ねた安物や偽物まであらゆる品物が揃っている。
奴隷たちを乗せた荷馬車やランバニアの輿が無事に通過するため、道は通行制限がされていた。
それでも沿道や路地には人が溢れている。
アベルは、もしかしたらカチェがいるのではと忙しなく首を振る。
ところが、あまりにも膨大な数の人間がいて見つけ出せそうもない。
だが、それでも諦められない。
緋色の衣装で着飾った女がいる。大きな壺を担いだ半裸の労務者が列をなし、その横を駆け回る子供たち。
傭兵とも戦士とも知れぬ男どもが険しい視線を飛ばしている。
彼らはランバニアが乗る輿を見詰めていた。
象牙と
立身出世の機会を窺っている男たちにしてみれば、注目しないわけにはいかないらしい。
アベルが体を捻ると鎖がチャリチャリと音を立てた。
ともに繋がれているジャバトが舌打ちする。
「無駄に動くな、このクソが」
「同じ鎖で繋がれているクソ奴隷仲間じゃないか。仲良くしようぜ」
「てめぇなんざ、今日死ねばいい。相手は強者ばかりの剣闘士どもだ。生き残れると思っているのか」
「お前は素手戦奴で良かったな。せいぜい長生きして老人になっても殴り合いをやっててくれよ」
軽く小馬鹿にしただけでジャバトは殺意すら感じるほど睨んでくる。
ランバニアの忠犬が珍しく饒舌だった。
「たとえ死なずとも鼻や眼を切っ先で抉られるなんざ当たり前だ。そうなりゃ、てめぇなんかランバニア様から捨てられる。ちっとばかり顔つきが整っているだけの色男が」
ランバニアから優遇されているアベルを、狂わんばかりに嫉妬していた。
今日とてアベルはランバニアから冑を贈られている。
闘技場ですぐに見分けがつくようにと白鋼が輝くような一級品で、天辺には火喰鳥の黒く長い羽飾りがついていた。
そんな程度の理由で絡んでくる男を鼻で笑って無視した。
それどころではなかった。
再び、王都に目を凝らす。
澄んだ紫の瞳が記憶から蘇る。
猥雑を極めた街々を夢中になって見渡す。
――勝手なことばかりやって、すまない。
そのくせ今だってカチェと会いたいなんて思って……。
結局、いくら探してもカチェの姿は見つけ出せなかった。
もう、ずいぶん長い間、会ってない気がする。
友であり、幼馴染であり、時として驚くほど美しい女であったカチェ。
アベルの胸にやり場のない、疼くような痛みが生まれた。
大円形闘技場の周辺は凄まじい混雑だったが、貴族や関係者がすんなりと出入りするために専用の通路があり、そこだけは通行が確保されている。
アベルを乗せた荷馬車は闘技場の脇に止められる。
ここでようやっと鎖が外された。
ジャバトは素手戦奴の試合に出るため、別の組に合流していく。
アベルらは闘技場の管理者に率いられ、地下に続く入口へ進む。
少し湿気て、ひんやりした地下を歩く。
闘技場には地下室が何層もあるという。
なにしろ、闘技場には罪人だとか奴隷ばかりが集められるので、一種の監獄としての機能も必要とされていた。
実際、そのように作られている。
鉄格子のついた通路と大部屋。
酷い悪相を浮かべた男たちが狭い部屋に詰め込まれ、怒りと怨嗟に満ちていた。
アベルは直感的に罪人だと感じる。
また、ある通路では恐ろしく不気味な唸り声が聞こえてきた。
それは人間離れした声で、どうやら魔獣のものだったらしい。
アベルと奴隷たちは、とある大部屋に誘導された。
それから水とパンが配られる。
出番までしばらく時間がある。
奴隷は罪人ではないので、ほんのささやかな自由は許されていた。
午前中、最初の見世物は罪人の処刑と聞いた。
王権に疑義を唱えた者を魔獣と戦わせるらしい。
その後にいくつか催し物があって、その後にアベルたち奴隷の出番。
予定では正午ごろに決着がつくはずだ。
通常であるなら、無名の奴隷が闘技場に出る幕など前座でしかない。
前座試合は拳や足を武器にした素手戦奴による殴り合いが定番のメニューだった。
剣士風を装った試合というのもあるが、武器は木剣か、そうでなくとも刃を潰した刀剣による。
よって死者が出るのは稀である。
ところがアベルたちの相手は、あまりに粗暴な試合ばかりするので同業者からも嫌われた"狼の巣穴"という
奴隷は勝てば解放と金が手に入る。
剣闘士は素人風情に負けでもしたら廃業だ。
あまりに無様な負け方ならば、その場で処刑されるのが闘技場の慣わしでもある。
これで真剣にならないはずがない。
ここにいる奴隷たちはどれだけ生き残るだろうか。
アベルは想像してみるが、あまり期待できない。
集められた奴隷は先日の選抜試合を勝ち抜いているか、所有者の貴族が特に推薦した者に限られている。
そこそこ経験がある奴隷もいるとはいえ相手は本職の剣闘士だった。
向こうもプライドを賭けて必死に攻めてくる。
ランバニアは言っていた。
筋書きは出来ていると。
狂暴な剣闘士と奴隷は派手に殺し合う。
どちらが死んだところで誰も気兼ねしないで済む。
より強いほうが称賛を浴びるだけ。
どんなに不利だろうと足掻いて、ここから飛躍してみせろと。
「おい! 奴隷ども! まず冑と武器を選べ。盾は使うも使わぬも好きにしろ。名前を呼ばれた者は三人組となって闘技場へ進め。敵方も三人。あとは戦うだけだ! くれぐれも魔法は使うなよ!」
運営役人の怒鳴り声が地下室に反響する。
冑は、それぞれ色や飾りがついていた。
アベルはランバニアから与えられていた冑を被る。
武器は刀があったので、それを手に取った。数打ちものだろうが綺麗に研がれている。
それから少し考えて円盾を持つ。
基本的に相手の剣闘士たちも防具は冑と盾のみ、という条件らしい。
防具が制限されるのは、肉を裂き骨を砕くような血腥い展開を望んでのことだった。
試合は特例がない限り魔法は禁止されている。
アベルは水を飲んだ。
戦いの前は、いつもこうだ。緊張から喉がカラカラに渇く。
三人組の奴隷たちが、次々と大部屋を出ていく。
何度も地鳴りのような観客たちの歓声が轟いた。
待つだけの嫌な時間だった。
そして、ついにアベルを含む三人の名前が呼ばれる。
たった今、編成された即席もいいところの顔ぶれ。
奴隷たちは通路を進む。
やがて唐突に現れた出口から青空が見えた。
陽光が眩しいぐらいだ。
円形闘技場という舞台で、手強い剣闘士と六万人の観客が待ち構えていた。
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