第169話  毒蛇の戯れ





 微笑を浮かべたハーディアは色鮮やかな馬衣を纏わせた白馬に跨り、騎馬用の道を進ませる。

 場所は王宮の手前。

 ここより先へは王族と言えども騎乗を許されてはいなかった。


 ハーディアは誰に対しても美しい笑顔をくれることから王女の訪れを心待ちにする衛兵や奴隷も増えている。

 その高貴で魅力溢れる姿を見た者は、思わず熱に浮かされたように注目するのだった。


 とはいえハーディアが身に纏うのは、いつも簡素な白絹の乗馬服だった。

 これは単に利便性からそうしているのだが、人々はさすが戦姫と呼ばれる颯爽とした姿であると噂する。


 今日も兄ガイアケロンとは別行動であった。

 多忙を極め、仕方なく役割分担をすることが多くなってきている。

 

 ハーディアが王宮に来た用件は、繰り返される廷臣らとの会合である。

 いよいよ四日後に戦勝の祝い、闘技大会が開催される予定であった。

 

 既に王道国の各地へ報せは走り、地位のある者ない者を問わず、信じられないほどの人数がやって来ている。

 これから、さらに増えるはずだった。

 当然のように宿泊料金は数十倍の高騰を始め、諸物価も値上がりしていた。

 

 ハーディアは会合を通じて何としてでも父王イズファヤートの予定を知らねばならなかった。

 もし、王がごく少数の供だけで移動するような隙を見せたならば……。

 そこへガイアケロンとハーディアが自由に接近できたなら。

 

 父親を殺すしかない。

 自分自身の憎しみに決着をつけ、ありとあらゆる惨劇と暴政を食い止めるのだ。


 ところが……、いくら大臣らに聞いたところで肝心な王の予定は分からなかった。

 王が決められた通りに動かなければ、役割を果たすはずの家臣たちは行動を失うことになる。

 いくつもの儀式、儀典というものは連動しているため一つが狂うと連鎖的に全てが立ち行かなくなってしまう。

 しかし、そんな常識はイズファヤート王には通用しないのだった。


 イズファヤートという王は唐突に重要な慣例を破ることがあった。

 予期不能な行動。

 それに対応できる者だけが残ってきた。


 ハーディアは改めて儀典執行官ナビド・エズマイユや内務大臣ヤザン・グラシャートに大会の進行を問い質した。


「何度も言っているように三日間の闘技大会、その詳しい進行を知らせてもらわないと困ります。もし、我らが不在の時に父王様が会場に来駕されたらどうするのですか。大恥をかいてしまいます」


 老獪な梟のように用心深いヤザンは、王の動向は伝えられないと婉曲な答えを繰り返すのみ。

 ナビドは巧みな阿りを繰り返し、取りなすような言に終始する。


 この二人の廷臣による説明は、大事なところで上手く責任から逃げていく。

 どこまでも最終的にはイズファヤート王が決めることであり、その権威に従うようにとの結論にしかならないのである。

 問い詰めたところで無駄であった。


 結局、知りたいことは分からず、自分と兄の予定ばかりが出来上がっていく。

 大会最終日の正午に魔獣と戦うのである。

 それも兄妹別々に、という。

 

 相手は捕えられたゴブリンや大醜鬼という魔獣だ。

 知識としてそういう魔獣がいるのは知っているものの戦ったことはない。

 油断はできないが魔法を使っても良いということなので、負けるような相手ではないはずだ。

 何事も無ければ……。


 いずれにしても三日間にわたって催される大会の最終日、正午というと盛り上がりも最高潮に達している頃合い。

 いったいどれほどの熱狂になるのか想像もつかなかった。


 それからハーディアはアベルを思い浮かべた。

 あらゆる手段を尽くして奴隷の身から助けなくてはならない。

 テオ皇子と結んだ密約のためではなく、一人の愛する男のためであった。

 

 賄賂を使い、官吏らを買収して情報を集めている。

 それによって信じたくもない酷い話を入手していた。

 数日前、剣聖ヒエラルクの地下迷宮巡検に連れ出されたというのである。

 迷宮は封印された危険極まる場だ。


 また、ヒエラルクの狙いも理解できなかった。

 単なる気まぐれなのか、それともアベルの正体に薄々感じるところでもあり圧迫するつもりなのか。


 迷宮の奥という極限状態であれば、どんな人間でも人間性を隠せないとも思える。

 下手をすると拷問じみた責め苦を受けているかもしれない。

 そうでないとしても地下迷宮など悍ましいに尽きる。

 

 ハーディアは夜中に寝れないまま苦悩に身悶えしつつ、美しい金髪を搔き乱しながら頭を抱えた。

 アベルを無事に助け出し、せめてもう一度だけでも会いたいのに、どうすることもできない。

 それがなおのこと苦痛を倍増させた。


 悪くなっていく状況についてカチェへ説明もできなかった。

 確認が取れていないと自分を騙し、黙っていたのだ。

 また、カチェの反応が怖かったという理由もある。


 兄ガイアケロンは率直に伝えるべきだと考えていたのだが、無理を言って沈黙してもらった。

 卑怯と言われようともカチェやアベルの父であるウォルターへ、どう話したらよいのか全く見失っていたのである。

 兄は憐れむような、それでいて優しい視線で見守ってくれた。




~~~~~~~~


 


 実りの無い会合は終わった。

 酷い徒労感が全身を重くさせていたが、ハーディアは耐えて背筋を伸ばばす。

 辛い時こそ余裕のあるように振る舞わなくてはならない。

 顔には微笑を張りつかせた。


 色鮮やかな七宝で飾られた会合の室を出たところだった。

 思いがけない人物と出くわした。

 姉のランバニアがいた。

 

 丁寧に梳られた軽やかな金髪が陽光に輝いている。

 象牙色の衣は肌の露出が多くなるように作られ、魅力的な手足が覗いていた。

 しなやかな肢体には金鎖や宝石が絡みついて光る。

 まさに王道国の王女たる美と風格を兼ね備えた姿。


「あら。可愛い我が妹ハーディアよ。ご機嫌麗しいこと。今日も大臣どもと相談ですか」

「姉上。御機嫌ようございます」


 ハーディアはどんな話題が相応しいか次々に考える。

 巧みな社交辞令で身を守らねばならない。

 しかし、ランバニアが先に口を開いた。


「ここのところ王宮で噂になる女はハーディアのことだけよ。わたくしなど邪魔とならないよう日陰に隠れているのが相応しいわね」

「姉上。ご謙遜はおよしになってください。本来、私こそ王宮に似合わない者です」

「あら、そうかしら。戦場では向かうところ敵なく、美貌においても比類なく。それなのに、わたくしなど合戦では役に立たず、二度も嫁いでおきながら今は王宮の片隅に住まわせてもらっている身分です」

「全ては父王様のため。我ら子として等しく務めを果たしているはずです」

「これで貴方がディド・ズマに嫁ぎ、戦争に勝てば皇帝国の大部分は夫であるズマのものになるかもしれないわね。貴方は妃として、わたくしなぞ比べ物にならないほどの権威と富を得ることでしょう。まさに歴史に名を残す偉大な王女ねぇ」


 ズマの妻となる……。

 その悪夢的な忌まわしい未来を告げられてハーディアは維持していた余裕を失くしてしまった。

 思考はバラバラに千切れ、当たり障りのない返事も浮かびはしなかった。

 微笑むランバニアの言葉は続く。


「わたくしは、このまま政務に追われて徒に年齢を重ねていくでしょう。仮に輿入れの話があったとて、さすがに三度目とあれば家格は相当落ちるに決まっています。ハーディアの素晴らしい人生に比べて、何と哀れで貧弱な行く末なんでしょう」


 ランバニアは眉目を悲痛に曇らせ、世を嘆く仕草を見せる。

 ハーディアは辛うじて表情を保っていたが、もはや言葉を出す気力はなかった。


 父親に命じられるまま降嫁する運命という意味では姉と似ているが、相手はあのズマである。

 この苦痛と悩みは、やがて絶望に成長するかもしれない。

 そうなった時、自分はどうすればよいというのか。


「妹よ。わたくしの哀れな立場に声も出ないのは無理もないこと」

「……あ、姉上。申し訳ありませんがこれから用件がありますので」

「忙しいのに呼び止めてごめんなさい。ああ……それと貴方に一応、告げておこうと思っていたのですが、あのアベルとかいう奴隷ですけれど……」


 予想外の名を聞き、ハーディアは思わず微笑を消して眉を動かした。 


「あの奴隷ねぇ、可哀そうに。ヒエラルクに迷宮へ連れ込まれて、死んだそうよ」


 激しく殴られたような衝撃だった。

 喉が塞がる。

 長年に渡り自己を抑制する鍛錬を積んでいなければ、きっとここで正気を失っていたに違いない。


 ハーディアは精神力を振り絞り、震えを押さえて深呼吸をした。

 だが、意志を無視して心臓は激しく鼓動する。

 やっとのことで口から言葉を絞り出した。


「アベル? あの小者ですか。兄がせっかく機会を与えたというのに、父王様へ忠義を見せることのできなかった粗忽者でした……。

 あんな男のことなどすっかり忘れておりました。もっと戦働きできる者が軍団にはいくらでもおりますので」

「あら、貴方も気に入っていたのではなくて」

「配下が死ぬのは当たり前のことです。ましてや、ただの奴隷に成り下がった男。ですが、わざわざ教えてくださりお礼申し上げますわ」


 ハーディアは心を握り潰して言葉を絞り出す。

 こんなに辛い嘘は初めてだった。

 ランバニアはとても満足そうに頷き笑う。


「そうねぇ。戦女神と讃えられる貴方のために死ぬまで戦う男など、いくらでもいるでしょうねぇ」

「ところで……アベルの死は本当に確かなのですか。兄は別れた配下にも慈悲を与えるところがあるやもしれず……」

「さぁ? わたくしも奴隷から伝え聞いただけのこと。ヒエラルクに聞いてごらんなさい。あいつが殺したようなものよ。せっかく、わたくしが便利に使っていたのに無理やり迷宮なんかに連れ込んで。もしかしたらあいつが戯れに殺したのかもしれないわね」


 ハーディアは冷静さを保つ限界に近づいていた。

 必死に自分を励ます。


「そ、それではランバニア姉上。私は用件がありますので……失礼いたします」

「ヒエラルクなら王宮の鍛錬所にいると思うわよ。帰る前に聞いてごらなさい」


 ハーディアは自分の体を強引に操り、軽く会釈してから歩む。

 いったん帰るか、それとも真偽を確かめるか。

 鍛錬所の場所は知っている。


 いま供にいるのは治療魔術師のクリュテのみ。

 それにヒエラルクと会ってどうしようというのか。

 だが、足は自然とそちらへ向いていく。


「ハーディア様。あの……アベルのことは残念ですが……。まさか、そんな……」


 ハーディアは気遣ってくるクリュテに答えられなかった。

 彼女にしてもアベルの死は悲しむべきことだったらしい。

 なんと深緑の瞳に涙が滲んでいる。


 ハーディアの心には怒りと疑念が渦巻いている。

 アベルの死は信じられない……というよりも信じたくなかった。

 だが、ヒエラルクならやりかねないという真実性と混じり合い、生まれてこの方、味わったことのない激情に心は溢れている。


 もし、ヒエラルクがアベルを殺したのなら……。

 必ず復讐しなくてはならない。

 奴の武人としての、男としての誇りを全て奪い去り、五体を引き裂いてやる。

 もはや優雅な微笑は消え、歯を食い縛り、剣の柄を固く握りしめた。


 波模様の大理石や鉄の飾りによって壮麗に彩られた王宮の廊下を歩く。

 出会う官僚らはハーディアに気が付くと大げさに頭を垂れてきた。

 ハーディアは全て無視した……というよりも視界に映らなかった。

 頭の中はアベルのことで一杯だった。

 あの奇妙な誇り高さと孤独を秘めた群青色の眼差しが心に蘇る。


 生きていてくれ。

 死んだなどと間違いであってくれ。 

 祈るように願うが、アベルにはどこか深く死の影があった。

 自分の命を平気で投げ捨てていた。


 一つ思いつく。

 もしかするとアベルはヒエラルクが兄の脅威になると見抜き、それで迷宮に紛れて殺そうとしたのかもしれない。

 ところが返り討ちに……?


 頭の中で想像は膨らみ続ける。

 やがて気が付くと目的地の前にいた。

 閉じられた樫材の大扉。

 ヒエラルクの従卒たちが番をしている。

 突然、現れたハーディアに驚きの視線を送っていた。


「……中にヒエラルク殿は居ますか」

「貴方はハーディア王女様! あ、あの。はい。師はおられますが」

「入りますよ」

「あっ! お待ちください。師は誰も入れるなと」

「イズファヤート王の姫である私が、用事があると言っているのです。それともヒエラルクの従卒は王家に逆らうのですか」


 年若い従卒は石でも飲みこんだように黙った。


「クリュテはここで待っていなさい。直ぐ済みます」


 ハーディアは再び微笑の仮面をつけ、燃え上がる怒りを隠して扉を開ける。

 広い石畳の鍛錬所。

 静寂に満ちていた。

 血と汗の臭い。

 床には隠しようもなく黒い染みがついている。


 なんとヒエラルクは、たった一人で佇んでいる。

 他に誰もいない。

 絶好の機会……なのだろうか。

 ハーディアは自問する。

 あの剣聖と呼ばれる男を、いま殺せるだろうかと。


 剣とダガーは身につけてある。

 どれほど忙しくとも鍛錬を欠かしたことは無い。

 しかも、稽古の相手は兄ガイアケロンである。

 勝てたことは無いが、あの力と技術に肉薄するべく努力してきた。


 それに自分にはどうやら武術の天稟があるらしい。

 様々な流派の達人らに高い金を払い、技を売らせたが、彼らはお世辞ではなく心からハーディアの成長を讃えた。

 ここまで技術を吸収できる者はいなかったと。


 この天性を齎した呪われた血。

 アレキア王家の血統。

 自分の中には無数の英雄を生んだアレキア王家の血が流れているのだ。


 そして、英雄とは優れた殺戮者でもある。

 劣勢を跳ね返し、敵により多くの代償を払わせた強者たち。

 その血が憎しみに震えていた。


 ヒエラルクは立ったまま目を閉じ、瞑想をしているようであった。

 彼我の距離を測り、間合いのぎりぎり手前で止まる。


 ハーディアは沈黙したまま、剣聖の爪先から額まで全身を見渡す。

 心の中、驚きが広がる。

 完璧に隙が無かった。


 それでも殺すなら飛び込まなくてはならない。

 魔力を操れば、察知され不意打ちはならないはずだ。

 どうするべきか……。


 剣とダガーを組み合わせた、嵌め手。

 初見の者に見抜かれるとは思えない技がある。

 ここ数年でさらに腕を磨いた自信があった。

 父親を殺すために鍛え抜いた技だ。


 いま、私は冷静ではないのだろうかと他人事のように感じた。

 兄と自分の怒りと憎悪。

 暴虐と戦禍から大勢の者たちを救う望み。

 

 しかし、自分自身の幸せはどこへ行ったのだろうか。

 一度でいいから愛する男に抱き締められてみたかった。

 なぜ、アベルを愛してしまったのだろう。

 かつて考えもしなかった。

 ヒエラルクが眼を開いたのは、その時だった。


「これはこれは。どんな魔物がやってきたかと思えば、なんと美しい」

「貴方は殺しすぎです。だから魔物などと妄念が生まれるのですよ、ヒエラルク殿」


 ヒエラルクは会心の表情で答える。  


「これほど美しい魔物ならいくらでも化かされたいものですなぁ」

「剣聖殿。聞きましたよ。迷宮巡検に赴いたとか。アレキア様が封じた地下はどうでしたか」

「いや、それが……なかなか楽しいものでござった。弟子たちも見事に戦士の本懐を遂げました。いま、静かに冥福を祈っていたのです。

 邪魔のないよう従卒に人払いを命じておったのですが、なにやら不穏な気配が近づくので、てっきり迷宮から悪霊が憑いてきたのかと思いましたぞ」


 ハーディアは朱唇を大きく笑ませた。

 ヒエラルクの返答次第で本当の悪霊になるだろう。


「死んだのは弟子だけですか。兄の配下だったアベルも加わっていたと聞きました」

「いやはや。あいつは大したものでござった。さすがはガイアケロン王子が見込んだだけはあると驚きましたぞ」

「でも、死んでしまっては無駄な事です。どんな最後でしたか……」


 ヒエラルクの嘘を見抜くつもりの質問だった。

 殺し合いになったのか、それともヒエラルクが一方的に襲って殺したのか。

 どんな些細な変化も見逃すまいとハーディアは感覚を澄ます。

 ところがヒエラルクは意外そうな顔をしている。 


「いや? あやつは五体満足で生きて戻りましたぞ」


 ハーディアは混乱する。

 嘘かもしれないと疑う。

 ヒエラルクはアベルに不信を感じ、拷問じみた方法で殺したのかもしれない……。

 だが、この朗報を信じたい気持ちが爆発しそうだった。

 

「ランバニア姉上が奴隷から聞いたそうです。アベルは死んだと」

「何かの誤解かと。たしかに数名死にましたからな。アベルめは……今頃、もうランバニア様の邸宅へ戻っていると思いますぞ」

「なるほど……」

「あいつは拙者の弟子にしてやりたいのですがランバニア様に仕えている方が得だと思っておるらしく、まこと惜しいことです」


 ハーディアは頷くのがやっとだった。

 嘘を言っているように見えなかった。

 ランバニアだ。

 嘘を吐いていたのは姉の方だ。


 張り詰めた殺意が溶け、同時に歓喜が胸の中で溢れかえっていた。

 アベルは生きている。


 この王宮では誰のことも信じてはならない。

 分かっていたはずなのに騙されてしまった。

 もしここで激情のままヒエラルクに襲いかかっていれば破滅していたかもしれない。

 そうでなくとも、王の戦目付と言い争いにでもなれば立場を失うだろう。


 いとも簡単に心の隙を突き、政敵を陥れる。

 王宮とは獲物を狩る森なのだ。

 それなのに……。


「ハーディア姫。して、用件はアベルのことですかな」

「まさか。奴隷に用などありません。剣聖殿の新しい武勇伝を聞きたいと思いましたが、お邪魔のようですわね。今日のところは失礼させていただきます」

「また、日を改めて語りましょうぞ」


 ハーディアは薄く笑って踵を返した。

 鍛錬所の大扉を開けると、そこには思っていた通りランバニアが待ち構えていた。

 彼女は目敏く異常は無いかと中の様子も見渡してくる。

 

「あら、姉上でありませんか。どうしてここへ」

「心配になったのです。ヒエラルクとは短い話だけで済んだのね」

「巡検を労っただけですので、ごく簡単に」

「それで、奴隷アベルのことは確かめられましたか」


 アベルが生きていることを知りつつ、動揺させるためにそれを利用したランバニアは平然とそう言い放ったのであった。

 まるで毒蛇だとハーディアは感じる。


「ええ。なんでもお弟子を何人も失ったとか。ヒエラルクの従卒ならば、きっと最前線で共に戦った者でもありましょう。冥福を祈らせていただきましたわ」

「私の奴隷アベルは、やはり死んでいましたか」

「いいえ。ヒエラルク殿の説明では生きているようでしたわ」


 ランバニアは大仰に驚いてみせる。


「まぁ! 聞いていた話とは違うわね。なにしろ急なことでしたので勘違いがあったのでしょう」


 ハーディアはいつにも増して優しい微笑みを浮かべ、答える。


「……姉上。今日はお世話になりましたわ」

「アベルが帰ってきたら伝えておきますわね。ハーディアは奴隷に落ちたお前に、もはや関心は無いと。すっかり忘れていたようであると」

「ぜひ、そうしてください。妙な期待は捨てて奴隷をしているのがふさわしいでしょう」


 ハーディアは優雅に会釈すると場を離れた。

 今日は危なかったと振り返る。

 ヒエラルクが真の達人であったから攻撃を留まったものの、どこかに緩みを見出し、しかもアベルを本当に殺していたのなら……。

 やっていたかもしれない。


 ランバニアにしてみれば戯れのごとき軽い引っ掛けだったろう。

 仮にヒエラルクが死のうと痛くも痒くもない。

 ハーディアが乱心したとあれば並立する勢力が減り、得ばかりだ。


 今日は一刻も早く、この王宮から出て行きたかったが、そうもいかない。

 兄ガイアケロンと落ち合い、それからエイダリューエ家に戻る約束をしていた。

 

 王宮には形式的なものだがハーディアとガイアケロンの居室が用意されている。

 僅か二間の狭い部屋は王族といえども、ただそれだけで厚遇などしない王の態度が現れていた。

 早く支援者を獲得して外に飛び出し成果を上げろ、という意味でしかない。


 幼い頃、短期間だけ使った部屋に親しみなどなかった。

 扉の前では大剣を腰に下げたスターシャが見張りをしている。

 信頼する仲間がいるだけで安堵できた。


 中に入るとオーツェルと共にガイアケロンがいる。

 今日はランバニアから陰湿な罠を仕掛けられたと訴えたかったが、ここは密談をするには安心できない場所だった。


 腹に陰謀を秘めた大臣や官僚と交渉をしたであろう兄は、いつもの通り悠然としている。

 埃っぽい長椅子に身を横たえていたがハーディアの来室を認めて、素早く立ち上がる。

 ハーディアは兄の腕を取ると耳元で囁いた。


「アベルは生きています」

「会ったのか」


 悲しげに俯きハーディアは首を振った。

 ガイアケロンは優しく笑って頷く。 


 予定が詰まっている。

 短い会話の後は、ほぼ無言のまま帰途につく。

 豪壮華麗な宮殿は夕陽に赤く照らされ、どこか禍々しく輝いているような気がハーディアにはした。


 門は一つしかない。

 必然的に通る場所だった。


 大きな瓶を担いだ奴隷が数十人も入ってきたかと思えば、着飾った貴族が歩いている。

 ふと、ガイアケロンは背後に気配を感じ、振り返る。

 夕焼けの中、男がいた。

 そして、語り掛けてくる。


「王宮に来ていると聞いたから、ここを通ると思っていたのだ。私も王都に到着したのは昨日のことなんだが、さっそく会えて嬉しいぞ」

 

 欲望に突き動かされた人々、いくつもの陰謀が重なり合う宮殿。

 そこに立つ人物。

 一見、洗練された美男子だ。

 父親譲りの落ち着いた青黒い髪と瞳。

 均整の取れた肉体。

 どこか虚ろな微笑。


「やあ、久しぶりだな。我が弟に妹よ」


 それは数年ぶりに再会した兄。

 イエルリング王子だった。

 

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