第152話  優雅なる束縛




 アベルがランバニア王女に促されて部屋を出ると、入室の時には姿の無かった男が控えていた。

 王女との会話の最中、僅かに気配は感じていた。

 もしアベルが王女に何かを仕掛けたら、飛び出してくる。

 そして、あっという間に始末するための男。


 その褐色の髪をした男はまだ若い。

 二十代半ば。

 鍛えられた肉体をしていた。拳は硬い岩のごとくであった。

 獰猛なまでの攻撃性を上手く隠している。

 淡褐色の瞳。その眼つきは鋭く、アベルを見抜こうと凝視してくる。


 かなり強い。直感がそう告げていた。

 別に恐ろしくはない。

 今日という日は、ヒエラルクという真の化物と手合わせした。

 あれと比べれば誰もが小者だ。 

 

「お前、嫌な眼をしている」


 いきなりの不躾な感想だった。

 だが、当たっているのだろうなとアベルは感じた。

 

「どこで寝させてもらえるのかな」

「ついて来い」

「名前ぐらい教えてもらえるか」

「ジャバト」

「僕はアベル」

「知ってる」


 馬蹄形をした螺旋階段を降りて一階へ。

 西側の小部屋に男たちが三人、沈黙して待ち構えていた。

 アベルは素早く観察する。

 それぞれ短剣を腰にぶら下げている。体つきから戦士に違いない。

 浴びせられる値踏みの視線。

 どいつもジャバトと似た、というより同一の雰囲気だった。 


「俺たちはランバニア王女様の奴隷。護衛が務めだ」

「だろうね。よく鍛えられている」

「俺も仲間たちもランバニア王女様に命を助けられ、ここにいる。この恩は忘れない。そして、お前も助けられたな?」

「……そうだ」


――助けたのは裏があるに決まっているがな。


「もし、お前が王女様を軽んじたり、裏切ったりするような素振りを見せたら容赦しない。そういう場合は両腕を切断することにしている」

「過去にもそういう制裁を加えたことがあるわけか」


 無言で頷きすらなかったが、表情は肯定していた。


「分かったよ。で、悪いが疲れているんだ。空いている寝床はあるのかな」

「一番奥だ。厠に行くときは誰でもいい、声を掛けてからにしろ。死にたくなければ黙って動き回るなよ」


 脅迫じみた文句。手を軽く振って了解の意を伝えた。

 アベルは藁の上に布が敷いてあるだけの寝床に身を横たえる。

 出入り口から一番遠い位置。黙って外に出ることなど出来やしない。

 だったら寝るしかない。

 

 今日はヒエラルクの弟子たちと死に瀕した駆け引きをした。

 ヒエラルクからは痛撃を食らい、もう一歩で殺されるところだった。

 酷く、疲れている。


 だが、広くもない部屋に知らない人間たちが四人もいる。

 疑えばきりがない。

 想像する。

 うっかり深く睡眠に落ちたところで襲って来る奴ら……。


 眼を閉じたが、疲労に反して神経は休息を拒否していた。

 安心して寝られる場所すらないのが現実だった。


 浅い眠りと、消えることのない緊張。

 色々と考えが浮かんでは消える。

 これから取り得る最善の手とはどんなものだろうか。

 手持ちのカードを整えておく必要がある。

 手にある札……あまりに貧弱で笑いたくなった。

 

 金は腰巻に隠した金貨一枚。あとは湿気た銅貨が十数枚きり。

 武器が無い。

 前に恐喝を仕掛けて来た奴隷から奪ったナイフは土を被せて隠してある。

 だが、勝手に移動するわけにもいかないとなれば取りに行くのも難しいだろう。

 どこかで盗んで手に入れるか……。


 知り合いや協力者がほぼ居ない。

 これが、どうにも重苦しいほど辛かった。

 思えば、これまでは窮地にあったとしても頼りになる仲間がいた。

 ワルト、カチェ、ガイアケロンやハーディア。

 今は誰も身近にいない。


 唯一の例外がアスだ。

 あいつなら、この王宮にも侵入してくるかもしれない。

 だが、あの魔女は謁見の前に伝えてきた。

 未来は分からない。直ぐには助けにいけないだろうと。


 他に利用できそうな者……奴隷監督官などは論外。

 奴隷仲間になったホルモズ。彼は、普通の男だった。

 大した頼みは出来ない。

 

 それから陽の差さぬ、暗い牢獄に堕ちた男たち。

 誉あったはずの将軍、知恵あるはずの哲学者、意思あるはずの反徒。

 皆々、深い穴の底で怒りと憎しみを滾らせていた。


 浅い眠りと覚醒を繰り返していくうちに、夜明けとなった。

 アベルが身を起こすと他の四人も同時に動き出す。

 固い視線を送ってきた。

 夜は意外と静かだったが、つまらない真似をするなよ。そんな声が聞こえてきそうだった。


「井戸や水道はあるのかな」

「ついてこい」

 

 ジャバトという名の男の後を歩く。

 アベルはそれとなく周囲を観察していく。

 石畳の床。石材で作られた壁や天井。


 こういった格式のある邸宅の一階には使用人の寝室、倉庫、調理場などがあるはずだ。

 会見室もあるかもしれない。

 ランバニアの寝室や私室は二階にある。


 武器になりそうなものを探す。

 どんなものでも無いよりあった方がいい。

 出来れば金属。

 無ければ石や骨、木などが手ごろだった。


 土石変形硬化を使えば尖らせた礫を作るぐらいはできるが、本物の刀剣とは比べ物にならない。それに出来るだけ魔法は隠しておきたい。

 ゴミ捨て場に行けば食べ残しの骨があるかもしれない。

 それを加工すれば武器の出来上がりだ。 


 既に水場では奴隷の女たちが働き出していた。

 洗濯や洗い物をしていた。

 新参のアベルをちらちらと覗き見る女もいる。


 そこで顔を洗い、身を整える。

 するとジャバトが拒否を許さない声で言って来た。


「お前、服を脱げ。持ち物を調べさせろ」 

「……この服は昨日、与えられたものだぞ。持ち物なんか、何もない」

「俺は自分で確認しないと気が済まない。早くしろ」


 用心深い男だった。

 しかし、悪くない考えだ。

 

「ジャバト。僕はあんたの手下じゃない。命令される筋合いじゃないよな」

 

 毎日、検査などされたら、ますます窮地に陥ってしまう。

 ところが、アベルの答えを聞いたジャバトが即座に戦闘態勢に入ったのが分かった。

 力で相手を捻じ伏せる。それしか知らない男だ。

 説得は無意味。


 ジャバトは自然な動きで腰を落とし、ほとんど無音で踏み込んできた。

 伸びのある真っすぐの拳。

 アベルは体を捻って躱し、バックステップで距離をとる。


 ジャバトの視線が、さらに冷たくなる。

 従わないなら殺す。

 たったそれだけの単純な掟。


 アベルは足さばきを開始。

 跳ねるように左右に振り、偽の動きを入れる。 

 一転して攻撃的だったはずのジャバトは慎重に間合いを測ってきた。

 どう攻めるかアベルは考える。 


 ジャバトの動きは巧みだった。

 どこかで拳闘術を会得しているようだ。それに腰の短剣も気になる。

 およそ普通に殴り掛かるだけで当てられる相手ではない。

 まずは欺いて、機会を作る。

 

 アベルは腕と肩、拳の位置を工夫しつつ全身を使って動く。

 全て騙すための嘘の機動だ。

 そして、接近。


 ジャバトもまた、フェイントを交え、簡単には見抜けない移動を仕掛けてくる。

 アベルは相手の足先を意識する。

 といっても注視するわけにもいかないから、つま先は視界の外にある。 

 それでも鋭敏に磨かれた感覚は、ジャバトの進みたい方向を捉えた。


 アベルはジャバトの偽の動きを察知した。裏を掻き、わざと緩慢に相手へ合わせる。 

 瞬間的にジャバトは体を沈ませて拳を繰り出してきた。

 狙っている部位まで見抜けた。あごだ。 

 

 迫りくる拳。予想を超えて速いがアベルは首を捻り、拳を回避した。

 そして、溜めのない蹴りとパンチを連続して繰り出す。

 脛と腹に打撃を入れた。だが、深く入らなかった。


 ジャバトは反撃。身軽に回し蹴りを入れて来る。

 腕で防御。勢いを抑えたはずが、強い衝撃。

 ジャバトはバックステップで距離を取った。


 睨み合い。

 やはり、かなり強いとアベルは感じる。

 

 女奴隷たちが悲鳴を上げて逃げる。

 アベルはそこで、ジャバトの仲間たちに囲まれているのに気が付いた。

 いっぺんに襲い掛かられたら、さすがに防ぎきれないかもしれない。

 今は短剣を抜いていないが、武器まで使われると一撃で致命傷を与えられてしまう。


 どうするか。

 あくまで抵抗するか、従った真似をするか。

 その時だった。


「お前たち。朝から元気のいいこと」


 頭上。邸宅の二階から声。

 見上げるとランバニア王女がいた。

 胸元が大きく開いた象牙色のローブを着ていた。

 くしけずられた金髪が朝日で輝く。


「ジャバト。アベルはどう?」

「はい。とても強い。危険な男です」

「でも、わたくしには逆らえない。だから、それぐらいで遊ぶのは止めなさい」


 ジャバトが攻撃態勢を解いた。

 刺すような闘争の気配は泡のごとく消え失せて、別人と見紛うほど静か。

 王女の命令は絶対であった。


「アベル。一緒に朝餉を食べましょう。二階へおいでなさい」


 素早く階段を上り、昨夜の部屋へ入る。

 ランバニアが椅子に腰かけていた。

 卓にはパンや料理が潤沢に並んでいる。


「好きなだけ食べなさい」


 ランバニアは品の良い薄化粧をしていた。

 若い女に特有の、血色の良い薔薇色をした頬。

 穏やかに微笑したその姿は、高貴で思慮に満ちた女性にしか見えない。

 立場の高い女ほど姿と態度を使い分ける。 

 昨日の夜が嘘のようだ。


「今日は政務がたくさん控えていてよ。次から次に面会希望が来るので捌くのに苦労するほどです。ハーディアも似たようなことになっていたでしょう」

「毎日毎日、多くの人がやってきました」

「商人や貴族たち……内心、誰しもが会いたがっているはず。どんな者が訪ねて来ましたか?」

「すみませんが、僕は中央の政治には疎くて人物の見分けなどつきません。それにいつもお傍で侍っていたわけでもないので」


 これは嘘だ。

 オーツェルから王道国の政治に関しては短期間ながら詳しく伝えられている。


「勿体ないわねぇ。わたくしならアベルみたいな姿の良い青年、いつでも横に置いておきますけれど」


 探り入れの会話だろうが、それにしても褒めそやすのが巧みだった。

 裏を感じない物言いだ。


「護衛と言えばランバニア様は兵をどれぐらいお持ちなのですか。僕は戦いぐらいしか取り得はありませんので気になります」

「常備している兵は三千人ほどよ。軍隊というのはやたらとお金を消耗するくせに戦がなければ無駄になるだけ。必要な時は傭兵を雇うしかありませんが、わたくし、合戦は不得手ですのよ。そこで父王様には頼んであります。戦に出たところで活躍は出来そうになく他に働く場を与えてくれと」

「そうした要望は聞いていただけるのですか」

「女で、若く、美しければね。下手に戦うより利益が見込めますから」


 戦争へ行く代わりに、イズファヤート王の命じるまま降嫁するわけだ。

 

「でも、ハーディア様は戦で実績を上げていますがディド・ズマへ与えられようとしています」

「ふふっ。あの男、ハーディアにすっかり入れ込んで魂を奪われているわ。兵も金もほとんど何から何まで絞り出している。あの美貌に狂わされているのよ」


 アベルはズマの顔を思い出す。

 まともではなかった。

 狂っていた。

 もっとも、その点では自分も似たようなものだったが。

 

「ハーディアって本当に恐ろしい女だと思わなくて?」

「戦場で敵として会いたくはないですね」

「あんな女性こそ、真なる魔性の女だと言えますよ。妹はズマに指一本と触れさせず黄金と死体、その両方の山を作り出している」

「ハーディア様が望んだことではないかと」

「わたくし二人の亡夫には愛も体も、ありったけ渡しました。命じられた婚姻と申せども、そうしてやらなくては公平ではありません。ですけれど、妹にはそんな心があるかしら。生娘にして男を意のままに操り、そうして何もかも奪い尽くす。アベル、お前も内心ではハーディアが忘れられないのではないですか?」


 ハーディアは確かに、怖いほど人を惹きつける力を持っていた。

 単純に美しいだけではなく、凄味と色気が混交した姿は言い知れぬ魅力の塊であり、次に何が出てくるか分からない未知感が漲っていた。

 普通なら惑わされていただろう。


 しかし、直ぐ傍にはカチェもいて、さらにイースの面影が常に心をよぎるような日々では妙な気持ちは起こらなかった。

 女というよりも目的を同じくする仲間だった。

 

「ハーディア様に懸想するなど恐れ多いことです。身の程は弁えています」

「そうかしら。そこを弁えないのが若さの特権だと思うのですけれど。わたくし、我慢しない男の人は嫌いじゃなくてよ……」


 意味ありげなランバニア王女の目線。

 そうして艶やかにランバニアは微笑んだ。

 長い睫毛に隠れた黄褐色の瞳には、甘美で淫らな想像を働かせる匂いがあった。

 妄想とも思えない。

 本当に、有らん限りの悦楽が与えられそうな雰囲気に満ち満ちていた。


「もうハーディアのことは諦めなさい。骨まで磨り潰して、何の見返りもないでしょう。そこで言えば、わたくしはもっと慈愛というものがありましてよ」


 慈愛と言うより快感だろうと思った。

 やはりランバニアは何か勘違いをしているのかもしれない。

 アベルとハーディアの間に、何かしら主従関係を超えるような情交があったと……。

 

 部屋の入口に誰か来た。

 身形の整った妙齢の女性が呼びかけてくる。


「ランバニア様。パリオ・タリムナガル様がご到着になられました」

「まったく、朝の早い内から相談しに来る者が多いこと。わたくし、忙しさでは奴隷を上回ること間違いなくてよ」


 蜂蜜をかけたパンやヨーグルト、爽やかな果実などを素早く食べて、ランバニアとアベルは会見室へと移動した。

 そこにはジャバトや軽装鎧を身に着けた騎士風の者たちがいる。

 衝突したはずのジャバトだが、彼は全くそんな気配を消していた。

 視線一つ寄越さない。


 アベルもまた会見室にいるように言いつけられた。

 これほど人数がいるところでの話し合いなら、密談というようなものではなく、通常の政治的な遣り取りのようだ。

 政治家や貴族は必要もないのに一対一で話すことは無い。

 

 やがて来室の者が通される。

 供を連れた貴族の男。

 顎鬚を伸ばした年配で、どことなく湿った風な視線をしていた。

 立ち振る舞いはやや大仰で、位の高さばかりが目立つ人物だ。

 鼈甲の象嵌が施された見事な椅子に座ったまま、ランバニアが鷹揚に呼びかける。


「パリオ・タリムナガル。ようこそ」

「ランバニア王女。ご機嫌、誠に麗しゅう。朝の一番からお会いできること感謝の極み……」

「さぁ、本題から入りましょう。誉れ高き勝利の祝いでもある闘技大会の準備諸々は進んでいますか。開催告知の使者は既に王都から方々へ発してますよ」

「それが……容易な事でなく。祝祭にて市民に配る穀物だけでも五十万人分になります。なにしろ、どの貴族も人手と言う人手は戦線に派遣しており、なんとか捻り出した人員にて王都付近から物資を搔き集めていますが捗らず。本日、報告に参ったのもそのためです」

「それで? 出来ないでは済みません」

「案があります。囚人たちを使うのです。オングラハン監獄にいる囚人五千人を人足として働かせるのです」

「凶悪な囚人を上手に扱えるということでしたら、お好きに。責任は貴方にあることですから」


 白髪の生えた、老人に近い齢の貴族をランバニアは叱り飛ばすような態度で臨んでいた。

 タリムナガルと言えば王道国の名門五家に当たる由緒正しい家であろう。

 だが、完全服従の態度は終始、揺るがない。

 王家の権威は絶対であることに加え、どうやらランバニア王女は内政において、かなりの重鎮であるらしかった。


 詰めるような遣り取りは続く。

 徐々にパリオという老人は興奮を示してきた。

 枯れ木を思わせる手は小さく痙攣のように震え、また不安そうに揉み合わせられた。

 それでいて面相は、紛れもなく喜悦に深入りした表情をしていた。


 アベルは思い当たる。

 似たようなものをハーディアの横で見たことがあった。

 厳しく問い詰められ、質問を重ねられていくうちに、どこか傾斜した発奮を重ねていく男たち。

 権高い美貌の女性を相手にして際どい遣り取りをした挙句、そうした喜びを感じる男がいるものだった。


 また、アベルは深く考えてみれば自分自身に辿り着く。

 かつてイースとの鍛錬の最中、恍惚とするような一時が訪れたことがあったではないか。


 力を尽くしたはずの、有らん限りの手段が及ばず、捻り飛ばされ、イースの足に踏みつけられた時だ。

 あの完璧な芸術を見せつけられた心境。

 少しも悔しくなかった……。


 その後も入れ替わり立ち替わり、貴族がやってくる。

 午後にやってきた若い男は出陣が近いことを告げに来たようであった。

 レタイオン家のルコスと名乗る。

 これもまた、極めて名家の者であった。

 身に着けた腕輪や剣には、ふんだんに黄金や宝石があしらわれている。


「ランバニア様。先日、イズファヤート王より使者あり。その要件とは兵力六千を揃え、また冬支度も整えて出征に備えよとのご命令。どうやら北はマカダン藩国への増援であろうかと」

「ルコス。名誉ある拝命に感謝を。そして、健闘を祈ります」

「本日の用向きですが……レタイオン家は、これが本当に最後の余力を絞ることになると説明しに参りました。どの家もそうですが、もはや戦力供出の限りを尽くしております。

 既に二人の兄は皇帝国との戦いへ出陣し、四年間も帰ってきてはいません。こたび三男の私が北に征き、王道国の貴なる五家と数えられる我らレタイオン家は男子が全員出征であります」

「貴族の義務。尊い位に相応しい働きを期待します」

「これは恥を忍んでの言上ではありますが、取り急ぎ集められる兵力は三千余り。残りは夏以降になることを許していただきたい」

「父王にそれを伝えて欲しい、とのことですね」

「はい」


 イズファヤート王は絶対的な専制を敷いている。

 王道国に宰相という人物は存在していなかった。

 それでいて王へ何かを伝える時に有用なクッションが必要とされる場合がある。

 そこでランバニアが重要な役割を果たしているようであった。


 ルコスという二十代と思しき貴族との話し合いは、困難な納税や作物の不足、治安の悪化などに及ぶ。

 ルコスは熱っぽく語り続け、それをランバニアは穏やかに、抱擁するように黙って聞くのだった。

 やがて熱弁も終わり、情熱は落ち着きを見せた。


「今日という日、最後にランバニア様へご挨拶が叶いましたこと、このルコスは忘れません」

「まるで二度とは戻らぬような言葉ねぇ。きっと帰ってくるのですよ。その際には祝宴をいたしましょう」


 ランバニアは憂えた視線と甘い言葉を贈る。そこには王国を離れ、乱れた地へと向かう男を気遣う気配が籠っているように見えた。

 演技にしては出来過ぎだった。

 ルコスという若い貴族は、そのたった一言、いくらの間もない情けがよほど嬉しかったらしい。

 無邪気なほど喜色を浮かべて、そうして帰って行った……。

 

 男が部屋を出ていくとランバニアは表情を消し、次の面会者を呼ぶように申し付ける。

 いちいち感傷に浸っていては政務が行えるはずもなく、また次の仕事がなくとも同じ態度であっただろう。

 相手により感情と臨む姿勢を入れ替えるだけの作業であることをアベルは察した。


 夕方まで続けられた面会の後、ランバニアは着替えた。

 私室に侍女と共に入り、出てきた時には、政務を執っていた際の印象を拭い去るほどの変化をしている。


 素肌の多くが露わになった黒い長衣を纏っていた。

 すらりと伸びた首筋、そこへ大粒な白い真珠の首飾りをして妖艶な肢体をさらに誇示する。

 みっしりと肉のついた太腿がスリットから飛び出していた。

 アベルにだけでなく、この世の全ての男に対して挑戦的な、いうならば触りたければ触ってみろ、というような高慢な気配が漲っていた。

 そして、うっかり触れたら命を失うことになる危険極まりない女だった。


 今度はこの後、どんな勿体ぶった要求や話があるのかアベルが警戒し考えていると素っ気なく今日の護衛は終わりだと告げてきた。


「ジャバト。いつもの通りに外で侍っていなさい」


 部屋の外。

 何かあれば、いつでも対応できる場所にジャバトが移動する。

 忠犬のように、静かに任務を続ける姿。


 今宵のランバニアは王宮軍団で将軍を務める男を迎えて晩餐をするそうだ。

 奴隷たちが既に清潔な床や机を、さらに丁寧に拭き清める。


 夜、アベルは使用人や奴隷たちと食事をする。

 出されたのは主人のために作られ、しかし残された食べ物と麦粥だった。

 

 寝床は昨夜と同じまま。

 同室の男たちとは会話一つ交わさない。

 アベルは何度か試しに話しかけてみたが、彼らは無駄口をするつもりがなかった。

 冷えた反応。

 王女の制止が効いているだけで、内心では戦って強弱を決めたいと考えている様子だった。


 張りつめた空気の中、浅い睡眠をとる。

 夜間、人目を忍んで行動する……これでは無理だ。

 ランバニア王女はアベルという新しい駒を受け入れているようでいて、警戒は解かない。


 そうして翌日も、その翌日も、似たような一日であった。

 アベルは拙いことになったと悩むが、解決の鍵は見つからない。

 ランバニアの巣から抜け出すことが出来ない。

 そして、段々と、むしろランバニアに期待しそうになる自分の心に気が付いた。


 仲間や協力者が全くいない環境でランバニアだけが、ちょっとした優遇を与えてくれて、刺激のある会話が楽しめる。

 

 このままでは様々な餌に踊らされて、訳が分からないことにされる……?

 そうはならない。

 いつだって忘れられるはずが無かった。


 イズファヤートの極まった姿。

 あの王を、殺すと決めているのだ。

 どんなことがあっても、何をしてでも耐えて、機会を待つ。

 燃える溶岩のような想念を胸に秘めて、アベルは沈黙する。




 そして、さらに数日が過ぎた日の朝。

 新鮮な陽射しが月桃の樹を照らしていた。

 列柱の陰でランバニアが手招きをしている。

 アベルが走り寄ると、言うのだった。


「今日はこれより王宮へ参じます」

「……大王様にお会いになるのですか」

「招かれるかどうかは分かりません。官僚どもに色々と申し付けておくことが山ほどありますから。お前も来るのです」


 アベルは感情を隠すため伏し目がちに頷いた。

 背筋が、ざわついた。

 





~~~~~~~~~~






 カチェはエイダリューエ家の華麗な庭園を歩いていた。

 庭に施された様々な趣向は来訪する客を楽しませてきたらしいが、いまのカチェに風景は意味をなさなかった。


 心の中は嵐だった。

 なぜ、アベルと別れてしまったのか。

 何のために、遥々と王道国の中心部にまでやって来たというのか。

 全てはアベルの為であった。


 こうならないために、いつでも、どんな時でも、命懸けで共にいるために皇帝国を飛び出してきた。

 それなのに離れ離れになりアベルは奴隷にされてしまった。

 失敗した!

 最悪の間違いを犯したのだ。


 なによりもまず自分が許せなかった。

 心は焦燥に駆られ、叫び出したいほどだ。

 カチェの手にはアベルの愛刀「無骨」が握られていた。

 王宮でガイアケロンに預けられたという。

 アベルの持ち物は残らずカチェが受け取った。


 胸に燃え上がるような怒りを滾らせ抜刀した。

 やや紫に近い、不思議な金属光沢を帯びていて沈鬱な気配が刀身から滲み出ている。

 この刀は、かつて魔女アスから贈られたものだ。

 骨もないほど鮮やかに斬れるという。

 

 カチェは上段に構え、振り抜く。

 歴戦の大男でも切断できないような野太い生木が狙い違わず、あっさりと斬れ落ちた。

 幹が音を立てて地に激突する。

 激しく渦巻く気迫と意思に、無骨の方が従ってくれたようだった。


 カチェはアベルを繰り返し、思い出す。

 自分に注がれていた視線は常に優しかったが、遠くを見る眼は何かを油断なく探していた。

 煮え滾るような怒りと情熱で、途轍もなく大きなものを追っていた。


 ガイアケロンから王宮に纏わる情報は、いまだやってこない。

 引き留められているとはいえ、そろそろ邸宅に籠っているのも限度を超えていた。

 こうしていても埒が明かない。

 まず、王都に出て、いくつかの要件を済まそう。


 それから、アベルを助けなくてはならない。

 どんな手段を使ってもだ。


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