第153話  群衆の世界

 




 カチェは王都を流れる運河の傍を歩いていた。

 隣には獣人ワルトが付き従う。


「ワルトがいてくれて良かった。もし貴方がいてくれなければ一人きりになるところでした」


 カチェは短い期間だが一人旅の経験がある。

 アベルを追い駆けて、ハイワンド家を出奔したときだ。

 それで理解したのだが、一人旅というのは酷く苦労する上に危険なのだ。


 荷物は常に手放せない、いつも周囲を注意していなければならず、手分けして作業することもできない。

 あの時は夢中で一気に成功させたからいいものの、長期になれば何が起こるか分からなかった。


 カチェはワルトに感謝の視線を送った。

 立場としては主と奴隷であるのだが、いつしかそんな感覚は薄らいでいてワルトは頼もしい友人だった。

 

「ご主人様が戻って来るまで、カチェ様を助けるのがおらの役目ずら」

「いいですか。アベルは戻ってこられるか分からないので、必ず近いうちに助けに行くのですよ」


 自分に言い聞かせるような言葉だった。

 ガイアケロンとハーディアに対する信用は失われていないが、甘い期待はしないことにしていた。

 状況を変えるのは、いつだって自分の力だ。


 カチェはアベルを想う。

 たしかに彼ならば自力で脱出してくるかもしれない。

 有り得そうな事ではある。

 

 だが……アベルは何かに憑りつかれた様になっていたのを知っている。

 虚空を睨み、執拗に標的を探るような視線を隠し持っていた。

 不動の決意か、絶えず揺動する欲望か、いずれにせよ途方もない望みをカチェは感じていた。

 危険だ。

 物凄く嫌な予感がした。

 だから、じっとしてなどいられなかった。


 今日の目的地は西方商友会だ。

 世界中に販路と支店を持つ商友会の本拠地と呼ぶべき商館が、この王都にあるらしい。

 だが、行ったことが無いので詳しい場所は分からない。

 人に聞いても、詳細な場所までは分からなかった。

 数々の大商家や商人協会が集中するエラン・バムという街区に存在しているという。

 

 エイダリューエ家の邸宅を起つ、今朝のこと。

 ガイアケロンの参謀オーツェルは、王都へ出かける旨を伝えたカチェを引き留めた。

 

「頼む、カチェ嬢! いま貴方に万が一の事があれば、テオ皇子との関係が終わってしまうかもしれない。軽率な行動はやめてくれ」


 実はカチェが皇帝国の人間だと知っている者はガイアケロンとハーディア、その側近のオーツェル。そして、スターシャの僅か四人だけであった。

 薬師シャーレは使者ではないので、陰謀や交渉については何も知らされていない。

 同行し、薬を作り続けて献身的に働いてくれたが、彼女が関わったのはそれだけのことだ。

  

「数日したら戻ってきます」

「王都は危険すぎる。せめて案内ぐらいは手配する」

「断ります。信頼の置ける者がいません」

「スターシャはどうだ」

「密使に関わることには誰も巻き込みたくないのよ」


 そうしてカチェは、なお言い募るオーツェルを振り切って邸宅を出て行った。

 本当のところは、ただ待っていることが出来ないほど焦っているだけなのかも知れない。

 そんな自覚がカチェにはあったものの、とにかく密使としての任務に区切りを付けたくもあった。


 なにしろアベルは逃げるしかないのだから、ガイアケロン陣営に戻るわけにはいかない。

 任務は続行不可能だ……。


 通行手形があるので市街地に出るのに難は無かったが、歩いても歩いても群衆が途切れることのない、殷賑を極めた都に悪酔いしそうだった。 


 直ぐ傍の運河からは海の匂い、潮臭さが立ち上ってくる。

 驚くほど物資を高く積み上げた運搬船が、喫水を限界まで沈めながら河を漕ぎ進む。

 岸には大小様々な船が係留されていて、どうやら寝起きする家としても使われているらしい。小舟を所狭しと走り回る子供がいる。


 王都は喧騒に満ち満ちていた。

 一瞬たりとも音の洪水は止むことが無い。

 赤子の泣き声、怒鳴り合い、旅芸人の歌声と楽器、大工の槌音、物乞いの貧苦を訴える声……。


 信じられないほど擦り切れた襤褸を纏った男や老婆が、地面に敷物もないまま横になっている。

 大路を歩いていると、どこにもかしこにも、そういう浮浪者と物乞いがいた。

 これが死んでいるとなれば、どれほどの汚れた衣服であろうと誰かに盗まれて裸にされ、放置される。

 それでやっと死人であると理解された。 

 

 運河を離れて、さらに混み合う市中へ入る。

 カチェを見て両手を差し出してくる老若男女の物乞いたち……慌てて早足で過ぎ去る。

 およそ怯む相手などないはずの自分ではあるが、こんな時ばかりは一目散に進むしかないのであった。


 つい、出来心で物乞いに施しをすると大変なことになってしまう。

 我も我もと他の数十人、数百人の乞食が殺到するからだ。

 カチェにも同情心というのはあったのだが、あまりに多くの困窮者を見ていくうちに、拭いきれない諦めのような気持ちが湧いていた。


 状況が巨大すぎて助けようとしても手の施しようがない。

 それほどまでに貧困の量は深く莫大である。


 物乞いには様々な者がいて、ぐったりと寝ている赤子を抱えた女もよく見かけた。

 当初は酷く哀れに感じたのだが、いつしかその赤子は利用されているだけだと知った。

 抱かれた赤子は我が子でも何でもなく、そのほとんどが他人の子なのだという。

 同情心を誘うために赤ん坊を借りているだけなのだった……。


 この王都の人々ほど金銭を欲している人間は居ないかもしれない。

 カチェは世界を横断するような旅をして、様々な街を通り過ぎてきたが、王都ほど拝金主義と呼ぶべき風潮が強い地域を見たことが無い。

 強いて言えば皇帝国の帝都に似てはいたが、こちらの方がさらに強烈なような気がする。


 日差しが邪魔になるほどの晴天だった。

 朝市が終わろうかという時間、野菜売りや買い物をする女性で騒然としていた道を抜ける。

 方角がこれで正しいかどうか、どうにも不安になってきた。


 しかし、道を聞くにしても相手を間違ってはならない。

 悪意が無くとも適当に答えて、妙な順路を示されることがある。

 さらに悪ければ、騙してくる者もいるのであった。


 考えたカチェは、ちょうど四つ角の辻にあった露店喫茶を訪れた。

 長机はなく、粗末な木製の椅子だけがある。

 店主の老爺に挨拶して座った。


「お茶をいただくわ。獣人には牛乳を」

「高貴な御嬢様に獣人のお供様。少々お待ちください」


 カチェは不思議に思う。

 冗談でそういう返事をしたのだろうか……。


 今の姿は、旅人のものだ。

 革靴に麻の服、皮革の胴着、肩にかけた布袋。

 そして、腰に刀が二振り。

 二刀流の女性で、しかも旅人なんてちょっと珍しい。

 しかし、高貴な印象は与えているつもりはなかった。


 お茶は直ぐに出てこなかった。

 沸かした湯で、じっくり淹れているようだった。

 急いでいる者は喫茶になど立ち寄らない。

 路上の水売りに声をかけて銅貨数枚を払い、柄杓一杯の水を贖うものだ。


 しばらくして老爺が盆に茶と菓子を持ってきた。

 菓子は油で揚げたパンに蜂蜜が振りかけられたものだった。

 牛乳はどうするのかと思っていると、店の傍に繋いでいる牛から乳を絞り、それを温めて出してきた。

 ワルトは美味そうに、そして素早く飲んでしまった。


「ねぇ。店主さん。どうして高貴なお嬢さんと呼んだの」

「顔を見れば分かりますよ。わしは、ここで四十年も店をやっておるのです」

「……わたくし、商人です。そういう服装をしているでしょう?」

「ほっほっほ。ええ、そうでしょうとも。そう名乗られるのなら、そうでしょう」


 何とも煙に巻かれたような答えだった。

 老爺は愛想よく笑っていた。


「わたくし、エラン・バムにある西方商友会へ行きたいのです。どうやって進んだらいいのかしら」

「さて、王都はとても広く、数え切れないほどの店や協会があるのです。詳しい場所は分かりませんが、この四つ辻の、どれを行っても着くことは出ますぞ」

「早く着きたいわ」

「物事は得てして思った通りにはならず、近道と思ったら遠回り」

「……」


 雑踏の中には多種多様な人間や亜人だけでなく、動物もたくさんいる。

 店先から食べ物をくすねようとした犬が蹴飛ばされ、空ではカラスが飛び交っていた。

 荷を曳いた馬車もひっきりなしに通り、あたりは埃っぽい。


 まったく無秩序が重なりあい、混沌が溢れ出していた。

 どの道を進んだとしても、酷く時間がかかってしまいそうだった。

 すると喫茶店の老爺が指差す。


「この道を真っすぐ行った方角に、パルーヴァ寺院があります。丸い屋根が金箔で覆われているから誰でも見れば分かるのです。パルーヴァ様は商売の神様。もうそこは商人たちの街ですよ。そこで人に聞けば最も早く目的の場所に辿り着けるでしょう」


 カチェは礼を言って、さっそく立ち上がる。

 雑踏の中に飛び込んだ。

 見る人によっては、服の纏い方、使われている布、柄、刺繍、身につけている装身具などの情報からその出身地をおよそ正確に言い当てることができるという。

 さっきの喫茶店の老爺は、長年の経験からそういう特技を持っていて、さらに顔の雰囲気から相手の素性を推察したのかもしれない。

 いずれにせよ、一瞬の交差だ。

 もはや二度とは行かない場所であろう……。

  

 昼間、暑くなる時間帯は昼寝をする習慣がある。

 誰しもと言うわけではないが、働かずにゆっくり寝ている者も多い。

 寝ないのは、商人、道行く旅人、あとは乞食だろうか。


 早足で進むカチェとワルトに、いつしか並走する少年がいた。

 薄汚れた衣服トゥニカを着て、褐色の髪は伸び、眼つきに少し鋭さがあった。

 頻りに話しかけてくる。

 無視しても無視しても、お構いなしに語り掛けて来た。


「なぁ。あんた、案内してやるよ。どこへ行くんだ? 宿屋か、神殿か、市場か? どこだって連れて行ってやるから」

「いらないから。あっち行ってください」

「俺に任せろって。あんたみたいな綺麗な女が供一人じゃ危ねえぞ。スリに囲まれたらどうすんだ。金だけじゃなくて、もっと大事なものを奪われるぞ!」

「自分で対処できます」

「分かったぞ。あんた、商人だろ」


 カチェは少し迷うが聞いてみた。


「なんで、そう思うの」

「刀なんか差しているけれど武人ってわけでもなさそうだぜ。となれば商人さ。なあ、そうだろ」

「そうよ。商人よ」

「なら、ゴート大市場まで連れて行ってやるよ。そこらの、ちんけな商店街じゃないぜ。すげえ店がたくさんある。儲けの種が落ちているってわけだ」

「西方商友会は知っているの?」

「任せろ」


 少年は断言する。

 カチェは焦りと疲れを感じていた。

 ずっとアベルがいないところで、いったい何をしているのだろうと、そんな疑問が絶えず頭の中で渦巻いていた。

 景色の全てが色褪せるとまではいかなくとも、けばけばしく、雑な障害物のように見えてきた。

 一刻も早く状況を改善したいのである。


「エラン・バムにあるのよ。他の場所に用事は無いわ」

「知っているよ。こっちだぜ」

 

 カチェは手招きする少年についていく。

 たぶん、方角はそんなに違っているようには感じない。

 老爺に教えてもらった寺院も気になるが、知っているというのだから事は早く済むだろう。


 少年はうるさいほど、色々と聞いてきた。

 出身地だとか何を買いに来たのだとか……。

 どれもが答えられない質問だったのでカチェは全部虚言を連ねることになった。

 中央平原のセウタから来た。

 一緒にいた伯父が病気で亡くなった。

 そのことを知らせに西方商友会に行かなくてはならない。


 逆に少年は聞いてもいないのに身の上話をしてくる。

 幼い弟や妹がいて食うや食わずや……というような。

 

 信じてやりたいところだが、都会で人の話は簡単に信じない方がよい。

 すっかり疑り深くなった自分に嫌気がさすものの、カチェは適当に聞き流した。 


 やがて、午後もそれなりの時間になったころ着いたのは、巨大な市場であった。

 堅牢な石造りの店が大通りの両側に、見渡す限り続いている。

 僅かな場所にも露店が必ずあり、凄まじいほどの熱気と群衆。

 まるで土地勘など無いため、カチェは少年の後をただひたすら付いていくことになった。


 いくつもの路地を何度となく折れ、何とも薄暗くて雰囲気の良くない通りに入り込んでしまった。

 やがて少年は、いきなり貝殻を売る店の案内を始めた。

 五十歳ほどの髭を生やした店の主人も、猛烈に商品を押し付けてくる。


「ちょっと待ってよ。わたくし買い物に来たのではないわ。人の話を聞いてないの」

「おい。この一級品を見ろって。ここにしか売ってないんだぜ。商人なら買わなくてどうするんだよ。だからわざわざ連れてきてやったんだろ」


 貝殻で作られた首飾りを手に渡そうとしてくるのでカチェは一歩退く。

 何だか風向きがおかしくなってきた。

 店の奥から若い男が二人も出てきたが、下品な笑みを浮かべていた。


「それを買ったら次はあんたの目的地に連れて行ってやるよ」

「……もういいわ。さよなら」

「待てよ! 買い物をして、それから俺に紹介料を払え!」

「頼んでない!」

「ふざけんなっ。こっちは忙しいところ連れてきてやったんだぞ」

「行き先は西方商友会だと言ったわ。雑貨屋ではないわよ」

「途中に儲けの種があれば教えるのが義理ってもんだ」

「それがこの安物の貝殻の首飾り?」


 カチェは、しまったと思った。

 少年のしつこさに負けてしまった。

 つい、楽しようという誘惑もあった。


 カチェは踵を返すが、狭い通りを塞ぐように二人の男がいた。

 後ろには店から出て来た三人。

 脅迫して安物を押し売り、何もかもを奪う手口だ。


 店の親父と人相の悪い男が近づいてくるのでワルトが睨みつけて唸った。

 カチェは落ちていた小石を拾うなり、行く手を塞いだ男の顔面に投げつける。

 怯んだ隙に脛を蹴り飛ばした。

 呻き声を上げて引っ繰り返る。


 もう一人が掴みかかろうとしてきたので、逆に腕を掴んで、力を入れて捻り上げる。

 こうした取っ組み合いの鍛錬は、アベルを相手にずっと続けて来た。

 こんなゴロツキ風情に負ける気がしない。


 カチェが怒りと共に、男の腕の関節を逆に引っ張ると、ミシミシと音がしてきた。

 情けない悲鳴を男が上げる。

 片膝を付かせたところで膝蹴りを食らわせると、そのまま地面に崩れ落ちた。

 

 すると、脅迫してきた店の親父は苦々し気な表情となり、罵声を浴びせて来る。

 カチェは無視して走り、逃げる。

 ワルトが後を付いて来るが、やはり少年まで延々とついてきた。

 餓えた犬のような剣幕で、金を払えと言う要求と共に。

 このままでは本当に、どこまでも追ってくるだろう。


 カチェは迷う。

 少年はあのゴロツキどもの仲間か下っ端なのだろうか。

 適当な獲物を誘い込んで、お零れにあずかる立場のような気がする。

 子悪党だが、しかし、本気で成敗するほどの相手でもなかった。 

 刀の錆にする価値もない。

 

 カチェは懐から銅貨を取り出すと親指を使って、思い切り弾き飛ばす。

 少年の額に、勢いよく命中した。


「痛てえ!」


 少年が額を押さえて、たじろいだ。

 さらにもう二回、銅貨をぶつける。


「やめろ! やめろって」

「その銅貨を褒美として取らせます。失せてちょうだい」


 少年は地面に落ちた銅貨を慌てて拾う。

 それから、なお言うのであった。


「まぁ、そう邪険にすんなよ。いい宿屋があるぜ。行きたい所には、もう間に合わないから。明日、連れて行ってやる」

「それで朝にまた貴方と顔を合わせるの? 調子に乗るのもそれぐらいにしておくのね。まだ付いて来るのなら、この獣人と戦うことになるわ。わたくしほど手加減はしてくれないわよ」


 少年はせせら笑って、やっと去って行った……。

 

 カチェは、王都とはこういう所なのだと、むりやり自分を説得するように考えた。

 あの手のたちの悪い連中と正面から戦っていたら、毎日毎日、何人も斬り殺さなくてはならなくなる。


 とりあえず移動を再開させたが、カチェは自分が今どこにいるのかすら分からなくなってしまった。

 しかも、時間は夕方だった。

 日の暮れた王都がどれほど危険なのか、知り尽くしている。

 以前、スターシャたちと夜間の移動をした時、何度も強盗団に襲われたのだった。

 

 カチェは憤懣の行き場もなく、大市場のどこかで呆然と佇んでしまう。 

 行き先の詳しい場所も分からず、自分が今どこにいるのかも分からない。

 やはり、このような世界最大級の都では、自分の力は通用しないのだろうか。


 さすがに胸が締め付けられるような、そういう気持ちが込み上げてくるのだった……。

 雑踏の中、立ち尽くしていると隣のワルトが普段と変わらない態度で言う。


「寝る所を探すずら。こんなところなら宿屋ぐらいは簡単に見つかるっち。そのあと、腹いっぱいに食べてからさっさと寝るずら」


 カチェは楽天的な友人に笑いかけながら頷いた。

 日常のワルトは主人に付き従うだけで忠告などしてはこないし、何も考えていない素振りをしている。ところが、稀にこういう時がある。


「今日はワルトの言う通りにします。誰よりも貴方が正しい時があるのよね」


 再び、群衆の世界を二人で歩み出した。


 

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