第138話  訪問者





 アベルの目の前にエイダリューエ家の少女が座っている。

 どんな話が聞けるのかと興味深々の様子。

 祝いの席だ。言葉を選ばなければならない。


「どうやって戦うか。簡単に言うと奇襲です」

「いきなり襲うのですね! なんて野蛮なのかしら。でも面白いわ」

「正々堂々、決闘のように戦うなどということは滅多にありません。戦場で混戦になれば背後から攻撃するのが上策です」


 アベルはゼフィノアという娘の様子を見る。

 まだ十六歳ぐらいだ。

 名門エイダリューエの一族だけあって素晴らしく上等な身なりをしている。

 長い茶褐色の髪は丁寧に洗われ、冠のように優雅に結えられていた。


 ドレープが流れるような白の長衣、輝く金の装飾品。

 宝石の嵌った首飾り。

 日焼けもしていない顔は整っているが、いかにも上流貴族の子女らしく気位が高そうに感じる。

 アベルのことを、あくまで身分はさして高くない現場指揮官の一人として見ているらしく、敬うような態度ではなかった。


 何故かゼフィノアはアベルに興味を持ったらしく、それからも色々と質問を重ねてきた。

 その内容というのは別に珍しくもない、よく聞かれるようなことだった。

 戦場では何を食べるのか。

 皇帝国とはどんな所なのか。

 怖くないのか……。


 ゼフィノアは好奇心が旺盛らしく、知りたいことが山ほどあるようだった。

 しかし、高貴な身分ゆえ外界に出られない環境に不満が溜まっているのが、ありありと察せられた。

 そういうところは少しカチェに似ている。


 だが、カチェと違って武術の心得は無さそうだった。

 話しをしていてもそうした素振りはない。

 体つきや手などを観察すれば、普段から鍛錬をしているかどうか分かる。

 どう見ても、剣など握ったこともないという印象。


 しばらくアベルは聞かれたことに丁寧に答えていく。

 内心、やや面倒ではあったが……。

 周囲の貴族たちは、こうしたことを咎めはしなかった。

 素知らぬ振りをするか、むしろある種の余興として扱っていた。


 やはりガイアケロン王子の馬廻り、さらには戦功の者ということでの特別な待遇であった。

 それにアベルは王族兄妹から重用されていると見て、階級社会の例外として認められたらしい。


 アベルは素性を明らかにしていないが、どうやらエイダリューエ家では甚だしく没落した貴族の出身ではないかと想像している節があった。

 もちろん、それは完全な誤解なのだが……。

 いずれにせよ、王道国でも屈指の名門エイダリューエの少女と、身分すら定かでないアベルとでは戦争でもなければ本来、交わることもなかったはずだ。


 やがて会食は終わったが、ガイアケロンとハーディアは続けて活動をしなければならなかった。

 その内容のほとんどは方々から来た人と会って話しをすることである。


 いま、王道国の貴族たちの多くは次代の王として長兄イエルリングを有力視していた。

 だが、複雑な思惑、利権、恩讐、血縁関係などが影響して貴族たちはいくつもの派閥に割れている。

 不利な立場のガイアケロンとしては、その隙を狙って協力者を増やしたい考えがあった。


 ただ、どんな者でも構わないというわけではない。

 品性下劣な者とは取り引きしない潔白さがガイアケロンにある。

 アベルは祖父バース公爵の言葉を思い出す。

 ガイアケロン王子は政治的に潔癖すぎるが、それは明らかな欠点であると……。


 王族兄妹とギムリッド、オーツェルらは席を立ちどこかに姿を消した。

 館の中には盗み聞きをされないための特別な部屋があるようだった。

 まずはそこで相談をしてから、次の仕事に取り掛かるようだ。

 アベルはガイアケロンから何時いつ呼び出しがあっても応じられるように準備していると、さきほど会話をしたゼフィノアが近づいてくる。


「ねぇ、アベル。午後は暇でしょう。私がお茶を淹れてあげる。皇帝国のことなど、もっと語って聞かせなさい」


 ゼフィノアは、いかにも魅力的な誘いだろうと言わんばかりであり、そこはかとなく高慢さを漂わせつつ言ったものだ。

 僅か齢十六歳程度でこうした態度を取れるあたり、やはり貴族の令嬢というのは何か別の種類の生き物かと思う。


 それにまだ小娘という年頃のわりに自分の姿に自信があるのか、色香を交えた女の交渉術らしきものを漂わせている。

 身に纏う長衣も肩から腕が全部出るようなデザインになっていた。

 立派にそういう効果を狙っているのかもしれない。


 アベルは面倒くさいことになったと慄きすら感じる。

 貴族の我が儘さ、誇りから出てくる無分別な熱意、それでいて飽きた時の冷淡さなどは骨身に染みている。

 何か思いきり下品でくだらない冗談でも言って煙に巻き、逃げるのが上策だ……。


「お茶といえば戦場で飲み水がなかったら、代わりに馬の小便を飲むんですよ。僕は何回も飲みました」

「はぁ?!」

「下手な泥水を飲むより腹に良いんです。馬の尿は意外と粘り気があって薬効もあるという人がいますね」

「……うっ」

「そんなわけで小便の味は分かってもお茶の味なんか分かる者ではないので。勿体ないことしないでください。それでは」


 アベルは素早く踵を返して庭を歩く。

 清水生成が使えるから馬の小便なんか飲むはずないだろうと、ほくそ笑む。

 もっとも魔法が使えない兵士や、あるのか無いのか不明な薬効を期待して飲む人は本当にいるのだが。

 とりあえず、そこらをぶらついて時間を潰してから、また戻ればいい……。

 そんなことを考えていたら背後からゼフィノアが追ってきた。

 顔を真っ赤にさせている。


「待ちなさい! この……アベル!」


 ――ええっ!

   さすがに諦めると思ったのに。


「嘘を言って驚かせようという魂胆ですね。どういうつもりなの!」


 どういうつもりなんだというのはこっちの台詞だとアベルは口に出しそうになったが、それだけは辛うじて耐えた。

 

「すみませんがこれから任務があります。またの機会に」


 ゼフィノアは予想とは違った答えに途惑い、神経質に眉を動かしたが、すぐに取り繕って言う。


「……いいですか。こういう時は無理をしてでも私の要求を聞くものです。貴方はなかなか賢いと思っていたのにがっかりさせないで。どうして私に頼まないのですか。任務を他の者にやってもらえるように口を利いてくれと。私が御爺様に依頼すればどうとでもなるのですよ」

「お気遣いに感謝します。ですが、僕には義務があります」

「貴方は勘違いしているわ。私はエイダリューエの血族ですよ? 私の願いを聞くのも義務のうちでしょう」

「いいえ、武人の義務とは死ぬまで戦うことです。僕もガイアケロン様のために戦い、すみやかに死ぬことでしょう。それ以外のことはしたくないし、するつもりもありません。失礼します」


 絶句したゼフィノアを無視してアベルは離れた。

 これぐらい言っておけば、もう話し掛けてこないだろうと安心する。

 本当に小娘の相手どころではないのだ。

 

 出来れば、さらにズマへ襲撃を仕掛けたい。

 しかし、昨夜の襲撃で敵はすっかり警戒を強めてしまっただろう。

 機会の少なさに焦燥感が湧く。


 もう、まもなく第二王子リキメル、それから第四王子シラーズが王都に来着するはずだ。

 近いうちに謁見の運びとなる。

 イズファヤート王をこの眼で確かめられる機会が巡ってくるかもしれない。

 王族を駆り立て、あのズマをも支配下に置き、執拗に皇帝国へ攻勢を仕掛ける人物。いったいどんな男だろうか。




 ハーディアはギムリッドの機嫌を取り戻し、食事会では列席した全ての者と言葉を交わした。

 およそ計算と演技でしかない遣り取り。

 隠し扉から入る秘密の会議室で相談を終え、すぐさま面会へと移る。


 ハーディアは僅かな隙に鏡の前に立ち、身だしなみを整えた。

 もともと化粧はあまりしないが、薄く紅だけを引いた。

 微笑んでみる。


 笑顔の仮面をつけたようなものだった。

 仮面は重要だ。

 微笑みは人を惹きつけ、油断させるための武器にすぎない。


 次々に現れる来客者。

 お世辞と愛想笑いの洪水。

 誰も彼も平伏し、有らん限り兄妹を褒め称え、忘れずに自分を売り込んできた。

 あるいは隙があれば兄の真意を探ろうとしてくる。


 そうした化かし合い、騙し合いの果てに数多くの男たちがハーディアに恋情を寄せてきた。

 渡される手紙はまるで同じ例文から書き写したのかと思うほど似ていて、誰がどの便りを送ってきたのか、注意しないと分からなくなる。

 いずれにしても結局はハーディアと交際し、思いを遂げたいというような内容ばかり。

 そのためならば金も命も捧げるという。

 飽き果てた言葉ばかりだった。


 ハーディアは、ふと我に返れば虚しさに行き着いてしまう

 幼少時代から暗殺と父親に怯える日々。

 本当に心から豊かだと感じた時は、いったいどれほどあっただろうか。

 存在していたとして、ほんの瞬時ではないだろうか。


 恋も知らないと言ってよかった。

 男をそういう意味で好きになった覚えがまるでない。

 強いて言えば兄ガイアケロンは男として、あまりにも完璧であった。

 もちろん兄だから恋慕とは違うものだが、常に憧れのようなものがあり、自然と比較してしまう。

 するとおびただしくいるはずの男たちは例外なく霞んで見えてしまった。


 唯一の例外と感じるのは、どこか陰鬱な、それでいて奇妙な魅力のある視線をした青年アベル。

 説明不可能だが、どうにも気になって仕方がない。


 取り繕ってはいるが、彼から隠しきれずに滲み出ている狂気と紙一重の気配。

 何か途方もなく叛逆的な魂が現実ではなくて、およそ叶わない空想を追いかけているような……。


 それでいて兄には真実の誠意を見せていた。

 昨日は命がけでズマの手下どもを殺してくれた。

 やはり、あそこまでされれば助けたくなってしまう。

 危険を承知で広場まで行き、包囲されつつあるところで敵を斬り捨て、救出した。

 一体感を味わいつつ眺めた朝日。

 久しぶりの爽快感。


 もしかしたら恋自体に憧れているのかと、ハーディアは自分で考えなくもない。

 しかし、そうだとしても死ぬ前に一度ぐらい、空に舞う幻のようなものでも構わないから甘い恋を味わいたかった。

 死は遠くないどころか、むしろ間も無くやって来るのではないか……。

 そう思えば焦るような気持ちすら湧く。


 だが、恋を手に入れるには、かなりの我慢をしなければならないだろう。

 我慢……。

 そんなことをして手に入るものに価値はあるだろうか。

 とはいえ生きている限り自分の立場から逃げることはできない。

 運命を背負い、最後は月夜に散る花弁のごとく我が身は散ってしまう。

 恋は無理でも、せめて死ぬまで力を尽くして戦うべきだった。


 そうした闘志と情念を胸に滾らせたハーディアには、一種異様な危険なほどの色香が漂っている。

 結局、面会した者たちの心を激しく魅惑させ、どうしても協力しなければならないという気にさせる。

 また、いかにも命を王国に捧げる武将の気位もあるため、すっかり感化されて涙を流す者までいたほどだった。


 傍に控えていたギムリッドは石像のように体を固まらせ、耐えていた。

 昨夜は自分の知らぬ間に邸宅を抜け出して、ズマの部隊に奇襲を仕掛けたのだという。

 あの傲岸不遜な傭兵どもに対する牽制。

 それにしても身を捨てた危なすぎる行い。

 

 どうして相談してくれなかったのかとギムリッドは激しい屈辱に感じ、拳を握り締めた。

 ハーディア姫のためなら命も捧げると宣言しているにも関わらず、袖にされている。

 頼りにならないと見做されているのだろうか。

 これほど悔しいことは無かった。


 いまやギムリッドの願望はガイアケロン王子を王位に据えることに留まらなかった。

 ガイアケロンの側近として王道国の采配を振るう宰相になるというのは、言わば分かりやすい整った野心だった。

 それよりも、もっと自身の嗜好を満足させそうな欲求が浮かんでいる。

 ハーディアのために血を流す労苦をすれば、これまでの人生になかった激しい達成感があるに違いないと……。


 高貴極まる名門エイダリューエ家の嫡男が、まったく徒手空拳の従者のように振舞うのだ。

 空想的なほどの自己献身に、どうしたわけか官能を帯びた快楽すらあった。


 きっと多くの将兵が、こうした気持ちに似たものでハーディアに仕えているのではないか。

 そう思い至れば、ますます誰にも負けられないという気持ちが湧き出てくる。


 精神で負けてしまえば、例えば馬廻りとはいえ低い身分らしいアベルにすら及んでいないという証明になってしまうのだから。

 これまで遠距離からの支援であったものが至近距離からの力添えとなり、侵入事件や襲撃と相次いで、ギムリッドの燻っていた心に火がついていた。


 やがて十組の面会を終えたあたりで、ある貴族の使者が姿をみせた。

 それはリシュメネイ家の嫡男ナセリで、これはアベルからの依頼によりガイアケロンが呼んだものだった。

 旅の途中でリシュメネイ家の親族と出会い、便りを託されたのだという。


 その名をリシュメネイ・リアンとクアン。

 かつて王隷魔術学院で才を讃えられた双子の兄弟であったという……。


 リシュメネイ家は今のところイエルリングを支持する派閥に属しているため、最初は招きを断ってきた。

 だが、儀礼的な意味合いだけでよいので応じよと再度、ガイアケロンが頼むとやっとこうして使者を遣わしたというわけだ。


 リシュメネイ家の当主は姿を見せていないので、しぶしぶ応じたという体であろうか。

 ガイアケロンは控えの間で待たせておいたアベルを呼ぶ。

 アベルは使者に一礼して手短に用件を伝えた。


「無理を承知で、お渡ししなければならないものがあります。御家におかれてはリアン様とクアン様という二人のご家族が行方不明になっていると思いますが」


 使者のナセリは口髭を生やした壮年で、王子を前にしても落ち着いた物腰だったが思わぬ名を聞き、表情に動揺とも驚きともつかない気色が現れた。


「その方は、かつてリシュメネイ家の長男と次男であられました。私も幼少のころ、可愛がっていただいた記憶があります。しかし、今から三十年も前から行方知れずでして……。どうしてお二人の名を出されるのか正直当惑の至りですな」

「詳しい説明は御家の当主様にしたいのですが、お許し願えませんか? 実はそのお二方は遠く離れた地で生きていらして、この僕に便りを託されました。もし、王都へ行くことがあればリシュメネイ家に届けてほしいと」          

「あ、あまりに唐突な話しですので……何と答えたものやら。今、便りとやらをここで渡していただくわけには参りませんか」

「当主にのみ直接手渡してほしいとの依頼です。かのリアン様とクアン様には魔術を教えていただき、まさに恩人であります。約束を違えたくはありません」

「魔術を? では貴殿は子弟の契りを結んだということですか」

「まぁ、そう思ってもらって構いません」


 正式な子弟契約を交わしたわけではない。

 親切な老人たちは、魔獣の犇めく異境で必要だろうと教えてくれた。

 成り行きである。

 だが、今は弟子ということにした方が話は早いだろう。


 ナセリは沈黙して視線を彷徨わせる。

 あまりにも想定外の問題を投げかけられ、答えに窮していた。

 そこでハーディアが助け舟を出す。


「ナセリ殿よ。それほど難しいお話ではありません。これはリシュメネイ家に対する恩返しです。便りを渡したのなら、それで事は終わりです。このことは我らもそれきり忘れます」


 王女から諭されてナセリは態度を決めた。

 何はともあれアベルを伴い、自邸に戻ることになった。

 アベルは安堵し、胸を撫で下ろす。

 あの二人の老人には実に助けられた。

 託された短簡を届けて約束を果たし、楽になりたかったのだ。


 部屋を出たところでカチェが無言のまま後を付いてくる。

 見逃さないぞ、という顔をしていた。

 ほとんど猟犬並だった。

 本当なら猟犬はワルトの役割だが、あいつは会食の残り物をたらふく食べたあと、昼寝のために何処かに行って姿を見せない。


 馬に乗り、エイダリューエ家から外へ出る。

 あまり遠いと厄介だとアベルは考えていたが、拍子抜けの結果になった。

 リシュメネイ家の敷地は、ほんの数メルテほどしか離れていなかった。

 規模はエイダリューエ家に比べてしまえば半分ほどだが、やはり歴史ある家柄らしく壁や建物に古色蒼然とした風格があった。


 ナセリは足早なほどせっかちに移動して、アベルとカチェは離されないように付いていった。

 警護の者や、執事らしき者も仕草で制すると、やがて屋敷の居間に通される。

 落ち着いた雰囲気の織物などで壁は飾られているが、どうにも陰気な空気が充満している。

 こうしたところに嫌でも家風が現れるものだった。


 ここでしばらく待っていてくれとナセリは言い残し、姿を消した。

 少しばかり奇異に感じつつも、アベルらは従うしかない。

 とにかく、ここまで漕ぎ着けたのは王族兄妹のおかげだ。


 階級社会において、貴族の家はそう簡単に面会や訪問を許さない。

 顔見知りでもなければ縁戚でもない貴族に会うためには紹介状などが必要だ。

 逆に言えば、伝手すら用意できない者に会う意味を認めていないわけでもある。


 しばらくアベルとカチェが待っていると、やがてナセリが人物を伴って現れる。

 老齢のその者こそリシュメネイ家の当主、ラバードだった。

 ラバードの年齢は六十歳ぐらいだろうか。

 白い髭を蓄えていて、疑り深い視線を投げ掛けてくる。


 はっきりと歓迎されていないのをアベルは感じた。だが、とにかく約束だ。

 物入れから単簡を取り出す。それは麻縄に括られた木の板である。

 それを机の上に置いた。

 だが、遥か彼方から奇跡的に届いた便りをラバードは冷えた視線で見るのみ。

 手に取りもしない。

 堪りかねたアベルは聞く。


「どうしましたか。これがリアン様、クアン様の便りでございます」

「何の冗談ですかな? 封蝋も無く、紙ですらない。これは手紙とは言えませぬ。王子の側仕えというからお会いしたのですが」

「お二方のいた地は魔獣界の奥地です。紙などありませんでした……。リアン様とクアン様は飛行魔道具の研究をしていたはずです。その事故で、もう二度と王道国へ戻れないほど遠くへ飛ばされてしまったのです」


 ラバードは思わず顔を引き攣らせた。

 あの二人が行方不明になってから数年後、隠されていた家屋を領地で発見した。

 そこに残された物品からリアンとクアンが魔学の研鑽に使っていた施設なのが判明している。

 調べると、どうやら飛行装置についての研究を行っていたらしい。

 これにより二人が不意に姿を消した理由がやっと推測できた。

 おそらく実験中にどこか人のいない地域に墜落したのだろうと……。


 そうした事実はリシュメネイ家の中でも、ほんの限られた者しか知らない。

 それを、この突然現れたガイアケロン王子の側仕えが口にした。

 信じられないが、事実だ。

 ラバードは強く警戒する。


 リアンとクアンが居なくなったことにより、従弟の自分に転がり込んできたリシュメネイ家の相続。本来ならばあり得ないことだった。

 今更、あの二人が生きていると言われては、困る以上の出来事だった。


 ラバードは短簡を手に取る。

 縄をほどいて木板に書かれた文字を読んでいく。

 そこには一族の者しか知りえない事柄が書き連ねてあった。

 信じたくないが間違いなく本物だった。

 相続権についても記載されている……。


 眩暈がしてきそうだった。

 そこにはラバードとは別の人物にリシュメネイ家を相続させると記されてあった。

 怒りと動揺が噴き出す。

 今更こんなものを見せられたところで譲る気持ちなどあるはずがない。

 無効だ。

 しかし、重要なのはイエルリング王子と潜在的に争っているガイアケロン王子が、このことを知ってしまったということだった。


「これは脅しですかな」

「どういう意味ですか……?」

「封蝋がされていないので中は誰でも読める状態です。当然、王子は内容を知っているのでしょう」

「いいえ。それは私信です。無断で中を見たりはしません。それに、この事はこれっきり忘れます」

「……上手い言い方をなさる。我々貴族は言葉を額面通りに受け取ったりはせぬものです。そうでなくては生き残ることができませんので」


 アベルは沈黙した。

 どうやら何か勝手に疑っているらしい。

 こうなってしまえば説得不可能に思える。

 むしろ、言えば言うほど、さらに疑念を募らせる。

 最果ての島で出会ったリアンとクアンはあれほど親切だったというのに、親族らしきこの男の陰険さはどうしたことだろう。


「さて、僕らの仕事は終わりました。便りは届けましたので、これにて失礼します」

「待ってください。アベル殿とやら。貴方はリアン様らの弟子である。リシュメネイ家の魔学に連なる者として遇しなければならない」

「それには及びません。僕はガイアケロン様の配下です」

「では王子に伝えおかれてくだされ。しばらく考えさせてほしいと。イエルリング王子の一派から離脱するのは簡単なことではありません。抜ければ報復されます」

「誤解ですよ。言っても理解されないでしょうけれど」


 アベルは早々に席を立ち、部屋を出た。

 遠い約束を果たして、すっきりすると思ったのに全然違う結果となった。

 こんなもんさ……そう自分を納得させる。




 馬を早駆けにさせる。

 高い壁、貴族街の景色が流れていく。

 隣を騎行するカチェも終始、無言であった。

 

 再びエイダリューエ家の門前まで戻るが、何やら様子がおかしい。

 異常なほどの人数がいる。

 

 前に進めなくなってしまった。

 おそらく二百人ほどの者たちが群れていて、そのいずれもが武装している。

 磨かれた具足が陽光を受けて光っていた。

 旗が見える。


 アベルは小さく驚きの声を出してしまった。

 心臓を掴んだ拳を紋章にしたそれを見間違えるわけもない。

 ディド・ズマが率いる最強の傭兵団「心臓と栄光」の禍々しい戦旗だった。

 

 ハルバードを手にする男たちは、いずれもふてぶてしい容貌をした屈強の戦士。

 戦場の血生臭い風が吹いてくるような集団だった。

 即座に馬をカチェに預けて、徒歩で進む。


「アベル!」

「カチェ様はそこにいるんだ。何かあったら壁を乗り越えて人に知らせてください」


 傭兵どもが穿つような視線を向けてくるが、臆さずに歩んだ。

 しばらく進むと行く手を四、五人の男たちに塞がれる。


「おい、お前。待て! 何の用だ」

「貴方たちこそ、どうしたんだ。ここは天下の往来。貴族街の通り道だぞ。しかも、エイダリューエ家の門前を騒がせるとは何ごとですか」

「……」


 剣呑な目つきの男たちと睨み合いの態勢になってしまった。

 アベルは固唾を飲み込む。

 緊張で喉がひりついた。

 もしかしたら、昨夜の襲撃にガイアケロン王子や自分が関わっていると露見してしまったのだろうか。


 だが、尾行者がいないことは何度も確認した。

 その点には自信がある。

 しかし、そうでなければ完全武装の戦士たちがこうして押し寄せる理由が分からない。

 もし本当にズマが襲撃者の正体を知ったとしたなら、逸早く王子たちに知らせなくてはならない。

 とにかく敵の目的をはっきりさせなくては……。


 アベルに注目が集まって来る。

 大勢の男たちが冷えた表情で探ってきた。

 こうしていても仕方ないのでアベルが門に近づこうとすると、やはり男たちが邪魔をしてくる。


「通せよ」

「お前はどこの者だ? 俺たちを誰だと思っている。心臓と栄光の親衛部隊だぞ。ほら、何とか言えよ」


 下卑た男たちが、にやにやと笑っている。

 蠅でも見るような嘲りの視線。

 その名を口にすれば相手が怯むと確信して疑わないそれであった。

 

 だが、アベルは顔色一つ変えなかった。

 昨夜、この傲慢な荒くれたちの仲間を百人は下らない数で殺した。

 いまだ体の中に興奮と熱狂が渦を巻いている。


 動じないアベル。

 苛つきを押さえられなかった男が、胸倉を掴もうと前進してくる。

 掴んだ後は、利き手で殴るつもり。

 

 アベルは腰を据えて、伸ばされた腕を逆に掴み取ると一気に捻り上げた。

 即座に上半身を押しながら足払い。

 相手は仰向けに引っ繰り返る。

 倒れた男の冑が地面にぶつかって、派手な音を立てた。


 周囲の男たちが怒鳴り声を上げる。

 沸点の低い連中だった。

 戦争を生業としている男たちが殺し合いを始める切っ掛けは、いつでも些細だ。

 そんなことぐらいで……という理由で死体の山が生まれる。


 アベルはこのままし崩しで斬り合いになるだろうかと覚悟を決めつつ周囲を見渡せば、ある視線に絡めとられた。

 視線と視線が合い、金縛りのように体は強張る。


 我が目を疑う。

 勘違いであって欲しかったが……。


 剣聖ヒエラルク・ヘイカトンがそこにいた。

 イズファヤート王の直属にして、天才的な剣の使い手。

 だが、どうしてヒエラルクがズマの傭兵団に交じっているのだろうか。

 激しい危険信号。

 頭の中で鳴り響いた。


――あいつは本当に強い。

  一対一でも勝てる気がしない。

  だが、どうしてヒエラルクがここにいる?!

  もしかして戦闘になるのを見越してズマが連れてきた……。

  

 アベルの首筋に冷や汗が流れる。

 誰が相手でも、そう容易く負けるつもりはなかったがヒエラルクは想定外すぎる。

 奴の冴え冴えとした剣術はこの目で見てきた。

 特に機を察する能力に関しては剣聖と謳われるだけのものが確かにあった。


 アベルに気が付いたヒエラルクが、悠然と笑いながら歩み寄ってきた。

 その物腰には僅かの油断もない。

 挙動に無駄がなく、動作の「起こり」が捕え難いよう摺り足を怠らない。絶え間ない鍛錬で体に染みついた仕草だった。


 アベルは全身に重たい石でも乗っている気分に陥る。

 剣界に入った途端、斬り込んで来る様が見えるようだった。

 それは予測不能な斬撃だ。

 対抗するには……居合い抜きしかない。


 不自然にならないよう、無骨の柄に手をかける。

 だが、指は少し震えていた。


 王道国へ侵入した時から……、いや、ガイアケロンの望みに加担しようと決めた時から、はっきりと感じていた。

 死の匂い。

 それが強烈に高ぶってくる。


――イース……。


 思わず心の中のイースに呼びかける。

 あと一歩で剣界に入る。


 斬るか、斬られるか。

 全身に冷水と熱湯を同時にかけられたような感覚が走った。


「やあ。おぬしはガイアケロン王子の側仕えだったな。名は……アベルであろう」


 ヒエラルクの口元に、意外な笑み。

 濃褐色の瞳孔、奥底に殺し合いを楽しむ倒錯的な精神が垣間見える。

 引き締まった顔には逞しさ以上に、激しい我の強さが滲んでいた。

 油断するなとアベルは自分に言い聞かせる。


「ふむ。おぬし、どうした。傭兵を転ばして……遊んでおるのか?」

「何が起きているのか、図りかねています。ヒエラルク様」

「ちと面倒なことになっておってな。これ、傭兵ども。そこな青年はガイアケロン王子の配下だ。粗相いたせば私が諫めるぞ」


 ヒエラルクは鷹揚に笑っていたが、額には不気味な青筋が立っている。

 諫める、というのは殺すのと同義だった。

 穏やかに見えて、穏やかなまま人を斬殺するであろう。


 この剣聖と謳われる男は剣士として、ある一線を超越している。

 イースやガイアケロンなど様々な達人を間近で感じてきたからこそ間違いないと確信があった。


「そうだ! アベルよ。すまぬが館に滞在しているガイアケロン王子とハーディア王女に伝えてくれぬか」

「何を、ですか」

「エイダリューエ家の門番が融通を利かせなくてな。我らを中に入れてくれぬのだ」

「失礼ながら無理のない対応かと。敷地の中は城も同然。由緒ある名家の守りは安くありません」

「分からん理屈ではない。だが、この私はイズファヤート大王様の直属にして軍目付であるぞ。なにも狼藉をしにまいったのではないのだから、挨拶ぐらいはさせよと頼んでおる」


 アベルは抜け目なく観察する。

 騙し討ちの可能性。

 呼び出しておいて、襲う。

 構造の分からない邸内に入り込むより、よほど容易く戦闘を行える。

 そうした恐れが無いわけではなかった。

 やはり昨夜、ズマの手下を襲ったのがバレてしまったのか……。


「実は言うとな、ズマ殿の強い願いでもあるのだ」

「えっ」

「ほら。後ろに御座おわすのが……かの頭領。戦場という戦場に勇名轟くディド・ズマ殿だ」


 アベルは息を、ゆっくり吐く。

 振り返るのに覚悟が必要だった。

 ほんの少し体を動かすだけなのに。

 

 心臓が暴れていた。

 息を整えながら、そっと後ろを振り返る。

 すぐそこに、ぎらぎらと光る黄金仕立ての鎧を身に着けた男がいる。

 冑はしていない。


 酷い男だとは知っていた。

 醜い男だとは聞いていた。

 恐ろしい男だと噂されていた。


 実物が目の前いる。

 こいつは本当に人間なのかとアベルは疑う。

 汚穢という汚穢を搔き集めた不潔な洞穴に百年住み着いた怪物。

 奇形の蛙。

 これはあのハーディア王女が苦悩するわけだと、アベルは意識の中でやけに納得する。


 分厚い唇、醜怪な顔の造作、底なし沼のような瞳。

 剥き出しの欲望。

 果てしなく貪欲で、際限なく奪い少しも満足しない精神。

 どれほど卑しい人生を歩んできたのなら、ここまで悪相を蓄えることができるのだろうか。


 単に生まれながら容貌が醜いだけで、ここまで人間離れになるとは到底思えない。

 休むことなく他者を蔑み続け、妬み、いたぶり、残虐の果てに殺すことを繰り返した者。

 最も低劣で汚らわしいケダモノの生き方をしてきた男……。


 ディド・ズマがそこにいた。




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