第103話  乾いた男たち

 




 素早く逃亡したアベルたちは迂回したのち北上、ハーディア領に戻る。

 途中、馬の足跡は小川を利用するなどして入念に消しておいた。

 できればガイアケロンがディド・ズマと会う前に襲撃成功の報告をしたかった。


 急ぐ移動なので宿場町は利用しない。

 日没後も進めるだけ進んで、あとは適当な場所で野宿する。

 そんな日々を三日も続けていた。


 夜。焚火を作り、交代で休む。

 街道の側にある草地で野宿することになった。

 ワルトは少し離れた木の下で休んでいる。


 カチェとスターシャは草の上に外套を敷いて、そこに並んで寝ていた。

 襲撃の後、女性二人は会話をするようになった。

 それまでが険悪寸前というか戦闘寸前だったので、やっとまともな人間関係といった感じだ。

 いずれにしてもアベルは、ほっとする。

 至近距離に険悪な関係の女二人がいるというのは……ストレスすぎるというものだ。


 夜警をしているアベルは夜空を見上げる。

 満天の星空だった。

 十字状になった天の川が明瞭に見渡せる。

 深宇宙から届いた星々の輝きは神秘的なほど美しかった。

 思い出されるのは、かつてカザルスが星座の位置や意味を教えてくれたこと……。


 ふと、何か気配を感じた。

 暗闇に目を凝らすと夜の街道に誰かが一人、佇んでいるようである。

 かろうじてシルエットが見えるだけだ。


 アベルはそっと近づく。

 星明りにうっすらと人が照らされている。

 佇む人は、こちらを見ていた。


「私よ、アベル」

「だろうな。そんな感じがした」


 魔女アスだった。

 さらに歩み寄ればいつもの通り、男を誘う艶やかな笑みを浮かべた顔が見える。

 その端正な顔貌は星の光を浴びて、なおのこと妖しい。

 眉目、唇と完璧なまでに調和している。

 途轍もなく美しいのだが、それがかえって女らしさよりも中性的な雰囲気を醸していた。


「貴方、星を眺めるのが好きなのねぇ。冷酷なわりに意外と感傷的」

「俺は冷たいか」

「戯言よ。飛び切り優しい。もっとも、女を愛することはまだできないみたいですけれど」

「……放っておけよ」

「ふふっ。私でしたらいつ抱いてくれてもいいのに。どんな事でもしてあげるわよ。女に試してみたい行為を全てやってみたらどうですか」


 アベルは黙って首を振る。

 この女の誘惑に乗っていたら果てしなく堕落してしまう……。

 そんなことになったらイースに会わす顔が無い。


「それで、どうしたんだ? 最近、よく出て来るな……。以前は一年ぐらい間があったのに」

「いま運命が集い、激しく動き出している。これまでの戦乱など比べ物にならないほどの巨大な転変は近い」

「……」

「ガイアケロンに会ったら、一つ願いなさい。稽古をしてほしいと」

「どうして」

「何故も何も、アベルは強くなりたいのでしょう。いい機会じゃない。正直にそう言えば彼は断らない」

「そういえば、あいつはイース様とかなり競っていたな。またと無い経験になる……か」

「隙を突いてガイアケロンの素肌に触れてみなさい。面白いものが見られますから」

「何を企んでいる……?」


 黙っていれば清純にすら感じられるはずのアスの顔に、どこか淫靡な表情が浮かぶ。

 さらにアスが身を寄せてきた。

 アベルの首に腕を絡ませて、耳元で囁く。

 女の甘い香りが鼻腔を刺激した。


「私、過去を視るのは得意なのですけれど未来視というのは苦手なの。誰の未来も明確には分からない。けれど、その者が持っている可能性の多寡ぐらいは見抜ける。アベル。貴方の可能性はこの地上の誰よりも絶大なのです」

「それとガイアケロンは何の関係が……」

「あの王子は貴方の未来を開き、彼も貴方によって運命が動く……。私はそのように観測しています。悪いことは言わないわ。貴方の餓えが癒されるような、真の喜びを見つけられるかもしれないわよ。ガイアケロンに近づいてみなさい」


 喉の渇きを感じる。

 ほとんど身を預けるほどの傍にいるアス。

 要求すればどんなことでもしてくれそうな女。


「な、なあ。お前、正直に言えよ……。何が目的なんだ。俺の前にちょくちょく現れて……助けてくれるのはありがたいけれど」

「ふふっ……。前に言ったでしょう。貴方の世界に行って知らない景色を見てみたいの。それには皇剣が必要ですし、貴方の手助けもいるのです。できれば時空間魔術を駆使できる者も用意しておきたい……。始皇帝のことは知っているわね?」

「ああ。全世界を支配した最初にして最後の帝王」

「あいつは時空間魔術を私以上に使いこなしていた。あんな人間、私の長い長い生命活動の中でも会ったことが無い。でも、あいつは私を置いて一人、どこかに旅立ってしまった。すぐ帰ってくるかと思ったのに……」

「……」

「私、人間というものは欲望あってのものだと考えております。無欲なんて本当につまらない。土を食べているミミズじゃあるまいし……。いいえ。本来あるべき欲を捨てた人間など地虫以下よ。餓えて走る、貴方のような者を私は好むわ。アベルの持つ巨大な欲望はどこへ行くかしら」


 アスはアベルの頬に口づけをした。

 それから体を離す。

 滑るように暗闇へ身を移動させていった。

 もう姿は見えない。


 アベルは仲間たちの元に戻る。

 皆、外套に包まって静かに休んでいる。

 焚火から枯れ木が燃えて爆ぜる音がした。

 特に鋭敏な感覚を持っていて、たとえ寝ていても異常に気が付くはずのワルトですら目を閉じていた。


――夢じゃないよな……。


 アベルは自分の腕の匂いを嗅いでみる。

 女の肉体から漂う芳香がしていた……。





 ~~~~~~~





 ガイアケロンとハーディアはポルトの郊外に軍陣を形成した。

 騎兵千。各種兵士が三千人。

 会見のために作られた円形天幕の周囲に部隊が配置されている。


 ポルトの城は造営中なので招けないという理由をディド・ズマへは伝えていた。

 しかし、実際はハーディアが居城にズマを入れたくなかったからだった。


 ディド・ズマが率いる傭兵団「心臓と栄光」の先触れが接近していた。

 白鋼の全身鎧に身を包んだ騎兵であった。

 騎兵は軍陣の手前で馬から降りて、椅子に座るガイアケロンとハーディアの前で片膝をつく。


 前口上から始まり、来訪を許したことへの礼を述べる。

 会見への手続きを淡々と進めた。

 王族と家臣では位に歴とした違いがある。

 儀典に従って厳かに進行するのみだった。


 街道をディド・ズマの軍勢が移動してきた。

 整然と兵科ごとに動き、ガイアケロンの軍団と相対するように展開していく。

 その動きは素早く、それでいて齟齬のないものだった。

 ガイアケロンは感心する。

 練度の高い軍団だった。

 さすがに戦争しか取り柄のない男たちの集団といったところだ。


 布陣を終え、やがてディド・ズマが二名の小姓を伴ってやってきた。

 黄金色。

 ズマの鎧は隈なく鍍金されていた。

 水牛の角を左右にあしらった冑。

 腹筋を模して裸体風に造形した胸甲。

 どれもが黄金に輝いている。

 確かに目立つが、ひたすら悪趣味だった。


 ハーディアの目元が痙攣した。

 醜悪な顔が近づいてくる。

 造作以前に貪欲な心が浮き出た表情に怖気すら感じる。

 土色の瞳は血走り、こちらを凝視していた。  

 化物じみた面相。


 本来あるべき位置を越えてディド・ズマが歩み寄ってきた。

 儀典を取り仕切る側近のオーツェルが制止の声を上げる。


「そこで止まりなさい!」


 ディド・ズマは幅広い唇を吊り上げる。

 ハーディアの目の前で頭を垂れ、下から舐るような目線を向けてきた。


「ハーディア様。いずれ貴方様の夫となるこのズマが参上いたしました」

「……頭が高い。位置も間違っています。正しい場所にお戻りなさい」


 ハーディアは何の感情も込めずに言い放つ。

 琥珀色の瞳には器物でも見るような冷たさがあった。

 ディド・ズマの息が荒くなる。

 やはり、見たこともない無上の美女だった。

 顔は無論のこと、髪から爪に至るまで魅力が行き渡っている。

 この珠のような肌を、隙なく舐め回せる日がやってくるのだ……。

 金さえあれば。


 ズマは一歩後退した。

 並び座っているガイアケロンが口を開く。

 その態度は悠然としたまま。


「ズマよ。軍議の申し出であったな。お前が担当している戦域の状況はどうなっている。聞かせい」

「へへ。それはもう、万事順調でございますよ。先日はウルミダスの城砦都市を陥落させました」

「また奴隷の取り引きか。お前からは悪い話ししか流れてこない」

「奴隷なんざ誰だって使っているじゃございませんか。使用するのは良くて売り買いが悪いなどとはこのズマには分からぬ理屈ですな」

「扱い方のことだ。家畜とて丁寧に飼わねば乳を出さぬ。ましてや相手は人だぞ」

「機転の利くやつは奴隷からでも這い上がります。弱いままの人間なんぞ、家畜以下の無駄飯食らいですからな。さっさと死んでもらわねばなりません」


 ディド・ズマは平然と言ってのけた。

 本心からの発言だろうとハーディアは感じる。


 それから細かく専門的な軍事情報の遣り取りが始まる。

 ズマは執拗にガイアケロンの戦略方針を知りたがった。

 だが、それを伝える気はない。

 ズマはイエルリングの部下なのだ。

 ガイアケロンの方策が兄の元に筒抜けになってはならない。


「ズマよ。何度聞かれても答えは同じだ。当面はリモン公爵領に攻めるかどうか決定できない」

「イズファヤート王は皇帝国の討滅を命じておられます。ここに来て異例の戦線停滞ではございませんか。常勝の英雄ガイアケロン王子がどうされたかと本国の連中は思っておりますぞ」

「もはや敵国領内であるぞ。これまでと事情も異なっている」

「イエルリング様は皇帝国へ絶えず揺さぶりをかけております。一ヶ月前からは皇帝国の属州バハルデンに圧迫をかけている次第にて」

「兄上とは戦力に差がある。我の三倍もの兵力があればこそ、とれる作戦もあろうぞ。同じにするな」

「へへえ。なるほど。ではガイアケロン様におかれましては、いよいよ兄上であらせられるイエルリング様を盛り立てる脇役として活動される覚悟が御出来になられたわけですな」


 ズマは唇を捲れ上がらせて黄色い歯を見せた。

 下卑た決めつけ。

 挑発とも言えた。


 父王イズファヤートは、皇帝国を敗北に追い込んだ者を後継者にすると明言していた。

 今、間違いなく長兄イエルリングが後継者として先頭を進んでいる。

 しかし、ガイアケロンが完全に遅れを取っているわけではない。

 まだ覆せると思っている。


 国内の貴族や大商人の思惑はもっと複雑だ。

 今からイエルリングに取り入ろうとしても遅すぎだった。

 十年、あるいは二十年も前からイエルリングに金や兵士を供給してきた者たちが新参の支援者を受け入れるはずもない。

 どの貴族も商人も、どうやって自分が甘い蜜を吸うかばかり考えていた。

 そうとなれば別の王族を支援しようという動きも出て来る……。


 イエルリングにしてみれば他の後継者候補に協力者が現れるのは面白くないが、さりとて特別に反応するまでもない。

 また他の王族を支援したからといってあからさまな圧力を加えれば、今度はイズファヤート王の不興を買うことになる。

 なぜなら、王子王女たちが競うことで高い戦果が得られると父王は期待しているのだ。

 その狙いを壊すようなことをすれば嚇怒の対象となってしまう。


 ガイアケロンはイエルリングの思惑を想像する。

 さしあたって三年間程度の計画ではハーディアをズマと婚姻させるというものだろう。

 実現すればガイアケロンは代わりのきかない協力者を失うという痛撃を受ける。

 逆にイエルリングの重臣であるズマはさらに増強される。


 そして五か年、十か年という規模の戦争計画を定め、他の後継者候補が付け入る隙を塞ぐ。

 盤石の体勢を整えて皇帝国をじわじわと削って行けば、やがて大きな機会が巡ってくる……。

 長期間の計画を立て、かつ実行できるのがイエルリングの恐ろしさだった。


 ガイアケロンは今だからこそ焦ってはならないと自らに命じていた。

 強力に防衛準備をしているリモン公爵領へ、功を焦ってふらふらと侵入すれば大損害を受けかねない。


 無駄にできる余力など、一兵たりとも自分にはなかった。

 たとえ財力を持っていたとしても人品の卑しい貴族や商人とは取り引きをしていない。

 その代わり、直轄経営している領地からの収入を増やす努力は怠っていなかった。


 天下国家のために働こうという意志のある商人。

 やる気のある志願兵。

 目標を持った学者。

 有能な人材が次々に集まって来ていた。

 上手に運用すればイエルリングを越える戦果を出すこともできると信じている。


 だが、戦争に勝つことは目的ではない。

 戦は戦として燃えるような闘争心を注ぎ込む楽しみもある。

 しかし、民衆が安心して暮らせる国家を作るのが王族の責務だ。

 いたずらに戦禍を拡大させるなど、人の上に立つ者のすることではなかった。


 ガイアケロンの脳裏に父親の顔が嫌でも呼び起される。

 あらゆるものを見下したような、暗く陰った青い瞳。

 傲慢で残忍な性格が滲み出た面相。

 その容貌通りの行動をしてきた。


 数多くの実子を餌のごとく権謀術数の渦中へ放り込み、人生を損なわせ、あるいは暗殺の犠牲にしてきた。

 貴族や商人の欲望を煽り、失敗すれば紙屑同然に捨てる。


 意見の異なる貴族も冷徹に排除する。

 王に逆らったという理由だけで幾つもの家が一族郎党、皆殺しにされていた。

 裁判などありはしない。

 ある日突然、王宮親衛軍を差し向けて捕縛し、財産はことごとく没収した上で処刑していた。

 恐ろしくて誰も抵抗できない。


 父王イズファヤートは、ただ残虐なだけではなかった。

 有能と思われる者には権限と立場を与えて、絞りとるように酷使したものだ。

 ディド・ズマも、その一人と言えるかもしれない。

 そうして王道国の人材や資源を投じた結果、戦争はさらに過酷さを増してきた。

 たとえ勝ってはいても長年に及ぶ戦争は民衆に豊かさをもたらしていない。


 あの男だけは必ず殺す……。

 ガイアケロンの胸に燃え上がる冷たい殺意。

 持て余しそうになる憎悪。

 父が子を殺し、子が父を殺すことなど……過去にいくらでも行われてきたこと。

 宿敵が父親であったという因業な運命に負けるつもりはない。


 だが、ガイアケロンは暴君を討ち取るその日まで部下たちには本心を伝えられない。

 言えば露見する。

 あまりにも少ない機会。

 しかし、決して諦めはしない。

 諦められるものか……。


 ガイアケロンはディド・ズマに語り掛ける。


「ズマよ。皇帝国の反撃はいよいよ激しい。お前こそ、苦戦してきているのではないか」

「このズマを見縊られては困ります。ここからが傭兵の腕の見せ所でございますよ」

「金の集まりは順調なのか。傭兵は金が目当てで戦っているのだ。部下に分配する必要もあろう」

「ご心配には及びませんぜ」

「ハーディアを娶る条件。期限があることを忘れるな。まさかハーディアを十年も待たせるつもりなどないな」


 ガイアケロンは意図してそうした質問をする。

 それまで、隠しようもなく傲慢なほどの自信を見せていたズマが顔色を変える。

 軽い揺さ振りに反応するあたり、無駄に虚栄心が強すぎだった。


「期限が守れなかった時には、どうなるんですかねぇ」

「それはハーディアがこれはという男を父王に推挙して、返事をいただくであろう。少なくとも自分で公言した約束すら守れない者よりは……この先は言うまでもあるまい」


 ズマの顔が一瞬、憤怒に変わるがすぐに元に戻った。

 心は煮えくり返りそうだった。

 金貨五十万枚などという途方もない要求に答えるべく、日夜必死に活動しているのだ。

 どれだけ大変な思いをしていることか。

 現に成果も出ている。

 それが、期限切れで不意になるなど……考えただけで視界が赤くなるほどの怒りが噴き出す。


 ハーディアの尊顔を見詰めた。

 欲しい。

 この女が欲しい。

 単純で、強烈な欲望。

 手に入れるためならどんなことでもしてやる……。


「これはこれは、このズマ。聞き捨てなりませぬ。どこに俺以上の男がいますか? 教えていただきたい」

「王道国には血統確かな貴族や神官の家柄はいくつもある。たとえばそこにいる儀典官、オーツェル・エイダリューエ。エイダリューエ家といえば王家に仕えること七百年の名家だ。別に相手として不足はない」


 オーツェルの顔が一瞬、大きく引き攣った。

 濃緑の瞳は困惑に揺れ、痩せているせいでほっそりした頬が強張る。

 普段なら涼しげに整った知的な面には、何を言っているのだという主張が書いてあるようだった。

 ディド・ズマの血走った視線が彼に注がれる。

 しかし、すぐに鼻で笑った。


「なんと御冗談でしたか。こんな棒切れのような男がハーディア様にふさわしいなどと」


 魔術師であり参謀でもあるオーツェルは痩身である。

 貧弱に近い肩に、薄い胸。

 身長も並程度。

 お世辞にも筋骨が逞しいなどとは言えない。

 筋肉と脂肪で固太りしたディド・ズマとは、比べ物にならない体格であった。


「ああ。その通り。これは戯言だ。しかし、出自はともかく、非道な手口で成り上がった男がハーディアと婚姻することを好まない者は国に大勢いると心得よ。少しは情けを持ったらどうだ」

「今は乱世でございますぞ。このズマのような腕っ節の男が必要とされているのでございます。口先で綺麗ごとは言えても、戦一つ勝てない者など不要。豚にも劣るというもの。イエルリング様はそれを理解してくださり、外ならぬイズファヤート王まで認めたるところなのはお二方もご存じのはず。俺は俺の方法で成功し、手に入れてきました。これからもそうです」


 その後、話題はズマの自慢話に移っていく。

 どこでどんな強敵を自ら殺したとか、ウルミダスの郊外で皇帝国の兵士を五百人ほど処刑したなど……。

 しかし、そうした一方的な弁舌を断ち切ってハーディアは冷淡に伝える。


「お前の長話は戦局に関係のない事柄のようです。これで軍議は終いにしませんか。我らとて暇ではないのです」

「そう仰せられますな。ハーディア様に貢物がありますゆえ……こちらに運び込ませていただきたい」

「いつでも献上品は断っています。今日も、これからもです」

「……。それでは、せめてズマめの軍陣にも足を運んでいただきたくあります。実はこのディド・ズマの父であるズラフ・ズマも同行しております。一目なりとも、ご挨拶させていただきたい」


 ハーディアは眉を顰める。

 ディド・ズマの父親になど会いたくもなかった。


「折角ですが、他人の軍陣へ入り込むのは気が進みませぬ」

「これは何としたことでしょうか。何度ご招待しても、御二方おんふたかたの来駕なりませぬ。それともイエルリング様やこのズマを信用してもらえぬのですかな。忠実な部下や活躍する兄王子を疑うということでしたら、それはすなわち……何やら含むところがあると心配になりますな」


 ハーディアから怒りの気配が滲み出る。

 不躾な探り入れ。

 それでいて、全く身に覚えがないというわけではない。

 冷酷な兄も父も、その手下のズマも……本当なら全員殺してしまいたいに決まっていた。

 下賤に勘繰られる不快さ……。


 ガイアケロンは妹の感情が爆発する前に制して、ズマへ承諾の返事を与えた。

 こんな些細なことで本国へ妙な噂を流されては困る。

 あくまで父王に忠実な王子王女を演じ切らねばならない。

 僅かの疑いも掛けられてはならないのだ。


 ガイアケロンとハーディアは側近、近習を連れてズマの後に続く。

 やがて「心臓と栄光」の軍陣が近づいて来た。

 厳格に複数の方陣が編成されていた。


 歩兵、弓兵、騎兵と装備が揃っている。

 総勢、五千人ほどであろうか。

 王道国にもこれほどの軍団はなかなかない。


 ズマは上機嫌で軍団の案内をする。

 これは間違いなく自分の権勢を誇る機会だった。

 自尊心が奮い立っている。

 命令一つで矢の嵐でも炎の中でも飛び込む猛者ども。

 居並ぶ屈強な戦士たちを見ればハーディアも感心せざせるを得ないはずだ……。


 決して自分に媚びない高貴な女を遣り込めてやりたい。

 認めさせたい。

 この悔しさをいつの日か晴らしてやるとディド・ズマは執念をさらに拡大させる。

 ハーディアを獲物のように担ぎ上げ、半裸の姿にさせたあげく軍団の中を引き摺り回すとしたら、さぞや楽しかろう……。


 兄妹は赤い羅紗で作られた豪華な天幕に案内された。

 床には緻密な模様が施された最高級の絨毯が広がっている。

 上座に二つ、鍍金された椅子が用意されていた。

 ハーディアは内心、金色にするしか芸がないのかと心から蔑む。

 ガイアケロンとハーディアは無感動に腰掛ける。


 やがてディド・ズマは一人の初老の男を連れてきた。

 顔はやや似ていた。

 血縁と知れる。

 ズラフ・ズマもまた一様の男ではない。

 傭兵団「心臓と栄光」を立ち上げた男。

 叩き上げの初代である。


 皺だらけで、まるで干物のような面相の奥に炯炯と光る眼。

 顔には無数の傷がある。

 大きな刀傷もあれば、石礫をぶつけられたような跡もあった。

 表情などというものは僅かもなく毛ほどの喜怒哀楽も感じ取れないが、ガイアケロンはこちらを値踏みしていると察した。


「ズラフ・ズマ殿であったかな。我がガイアケロンだ」

「これはこれは。このような一介の老人が英雄と謳われる王子様にお会いできるとは光栄です」

「ズラフ。お前のことは聞いたことがある。今は隠居して、荘園の経営をしているそうだな。後方から息子を支えるというわけか」

「もはや戦働きには耐えられぬ老骨にて」

「そうかな。五十年は戦塵を浴びてきたのだろう。まだまだ戦えるのではないか」

「足手まといになるだけでございます。それにしても、ガイアケロン王子の体つき。素晴らしいの一言でございます。これほど鍛え抜かれた体は剣闘士ですら滅多におりませぬ」

「なに。上には上がいる。我は一介の戦士ではないゆえ、武芸は自慢できるほどのものではない」

「御謙遜なさいますな。このズラフは数万人の戦士を見てきましたのですぞ。ガイアケロン様は決して敵に回したくないお人だと心得ましてございます」


 油断ならない老人かもしれないとガイアケロンは考える。

 いざというとき、最後に頼りになるのは己の肉体だけだ。

 だから子供の頃から武技は学び続けている。

 しかし、いつしかそれは護身術というよりも殺人術の様相を帯びていた。


 常に寡兵で皇帝国と戦ってきた。

 最前線で剣を振るったことは数えきれない。

 暗殺者とも血塗れの戦いを演じた。

 個人戦においても、達人でなければ生き残れなかった……。


 ガイアケロンは別の話題に転じることにした。


「お前たち親子が支配している亜人界の領地についてだが……。最近、邪竜が暴れていないか? 黒鱗火炎ノ蛮竜という」


 ズラフ・ズマが頷いた。


「わしらの領地と魔獣界、中央平原に接した山岳地にかの邪竜は棲んでおります。近頃、村がいくつか襲われていますな」

「被害が増えているらしいと聞いた。このまま行くと中央平原にある我の領地まで襲われるのではないかと心配している」

「戦って勝てる相手ではありませぬ」

「つまり、討伐隊を送るつもりはないのだな」


 ディド・ズマが答えた。


「竜なんか放っておくしかありません。村を襲い尽くしたら、勝手に魔獣界に戻るでしょう」

「村人たちは退去させてやれるのか」

「耕作放棄はさせませんぜ。農民なんざ、畑を耕すしか能がねぇ。最低の仕事すらきっちり出来ない奴を生かすつもりはありません」

「そうは言っても耕す者がいなくては、元も子もあるまい」

「奴隷なんざ、いくらでも攫ってこれますからなあ。竜が暴れているあたりは土地が肥えていて収穫が見込める地域なんです。寝かしておくわけにはいきません」


 ガイアケロンは沈黙した。

 根本的に考え方の異なる者を理解することはできない。

 説得することも無理だ。

 できるとすれば力で正すことだけ。

 しかし、ディド・ズマは配下ではなかった。


 ディド・ズマは父親を紹介できたことで益々上機嫌となった。

 さらに何事か手配しようとしていたが、そこへ早馬がやってきた。

 急いだ様子の使者がやってきてズマに何事か耳打ちする。

 普通ではなかった。

 ハーディアは注視する。

 

 ズマの顔が、どうしようもなく憎悪に歪んだ。

 こめかみに血管が浮かぶ。

 眼に冷たい殺気が宿った。

 この辺り、ただの下卑た男ではなかった。

 数え切れないほどの殺し合いを掻き分けて、あらゆる敵を敗北に追い込んだ戦士の巨魁たる凄味があった。


 何かあったのだなと兄妹は気が付く。

 心当たりがある。

 アベルとスターシャだ。


 その後、ズマによる皇帝国攻略の説明は精彩を欠いていた。

 額の青筋は消えず、実際は極度の怒りを抑えている状態なのが見て取れた。

 それに対してズラフ・ズマは出しゃばらずに存在感を消している。

 置物のように静かな老人だった。


 もはや長居は無用とガイアケロンは判断する。

 早々に用事があるという理由を告げて、立ち去る旨を伝えた。

 別に嘘ではなかった。

 明日、これまで一度も会ったことが無い異母弟のシラーズ王子が軍勢を引き連れて来訪するはずであった。

 しかも、剣聖と名高い斬流第九階梯の剣士ヒエラルク・ヘイカトンが同行しているという。


 年齢二十八歳になるヒエラルクは剣技絶妙。

 幼少から天才と呼ばれ、王道国の王宮に招かれてからは軍使、目付け役を任ぜられてきた。

 イズファヤート王からは重用されていて、莫大な報酬といずれ王道国の剣士を束ねる地位を約束されていた。

 よってヒエラルクはイズファヤート王を大王様と呼び忠誠を誓っている。


 彼はイズファヤート王の身辺警護も務めとしているが、しばしば各地に派遣されては方々の戦いに参じて、華々しい活躍をしてきた。

 ガイアケロンにとっては、いずれ倒さなくてはならない恐るべき敵だった。


 退去を告げてもディド・ズマは引き止めなかった。

 あっさりと頷く。


「このズマが王道国、そしてハーディア様のためにいかに骨身を削っているかお分かりいただけましたかな」


 ハーディアは問いかけを無視した。

 ディド・ズマの醜い面相に浮かぶのは憎しみの兆しだった。

 ガイアケロンが代わりに答える。


「ああ。この目でしかと見たぞ。これからも常に最前線で働くと良い」

「もちろんでさ。ガイ様」


 隠しようもなく不機嫌なディド・ズマから発せられた、不遜な態度だった。

 よほど親しくなければ王子に対して許されない呼びかけである。

 家臣風情にそんな口の利き方などあってはならない。

 注意しようとしたハーディアを兄は止める。


 どこか冷笑の雰囲気を帯びてガイアケロンはズマに別れを告げた。

 足早に天幕を出て騎乗。

 オーツェルら側近と共にポルトへと戻る。

 道すがら、濃緑の瞳をした参謀が不満を口にした。


「ガイアケロン様。私がハーディア様の結婚相手になりうるなどと冗談にすぎますぞ」

「はっはっはっ! オーツェルも金貨五十万枚を集めてみろよ。奴より早く揃えば父王も認めるじゃないのか」

「ディド・ズマめ。私を睨み付けてきましたぞ。あれは本気で殺すつもりでしたな」

「賢いお前でも金は集められないか?」

「頭の出来以前に恥知らずにでもならなければ無理ですよ。高利貸しか宗教団体の運営でもやらなければそんな大金……」

「ははっ。わりと具体的になってきたではないか。両方ともやればいい」

「光神教団じゃあるまいし。ガイアケロン様。この話題はこれで終いです。金貨五十万枚をハーディア様が二十五歳にお成りになられる日までに集めるなど誰にも不可能ですよ。失礼ながら王様の方が上手です。ディド・ズマを発奮させるつもりで仰ったのでしょう」

「それにしては犠牲が多すぎるではないか……。形振り構わないズマの金集めのせいで、どれだけの人間が苦しみ、死んでいった……。そして、これからも」


 物の道理や人の気持ちを考えられるのならば、娘が欲しければ金を積めなどという言説は出来るわけがない。

 冷酷で他人を操ることに慣れた父だからこその遣り口だった。

 オーツェルは主の憂いを感じ取り、沈黙するしかない。


 やがて兄妹は側近たちとも少し距離を取り、馬上で密談を始める。

 実際のところ、これは最も盗み聞きをされにくい方法だった。

 常に移動しているので、そもそも近寄れない。


「お兄様……。ズマの様子がおかしかった」

「ああ。調べさせる。すぐに分かるさ」

「それにしてもあの男。増長しますこと……下賤め」

「魂まで汚れきった者は誰にも救えないさ。ズラフという名の親父。初対面だがむしろ奴の方が気になった。老練とはああした者のことを言う。これまでズマが大きく間違えなかったのは父親の助言があったからかもしれんな」

「お兄様。ディド・ズマめをわざと焚き付けましたか?」

「まぁな。どうせ誰とも彼とも決着をつけねばならぬ時が来る。そう遠くない日にだ。せいぜい奴には父王の掌の上で踊ってもらおう。疲れて倒れるまでな」


 ハーディアは隣を歩む兄を見上げる。

 凛々しくも雄々しい相貌に闘争心が宿っていた。

 ディド・ズマを焦らせて軽挙に走らせようという狙い。


 あの手の自尊心に狂った者は、異常なまでの顕示欲を満たすために愚かな冒険をするものだ。

 そこで破滅させてやることができれば上々……。


 数年以内に権力争いの決着はつく。

 後継者はイエルリングと決まってしまえば、他の王族たちの立場は極めて低くなる。

 英邁な弟を許すほど寛大な兄ではない。

 ガイアケロンは謀殺されるかもしれない。

 そうなるぐらいならば、賭けなくてはならない。

 

 ハーディアは兄と共に死ぬ未来を想像する。

 数百の刃によって肉体を切り刻まれて、血という血を流し、無残に命を失うだろう。

 それでも誇りを守ったまま最後まで生き抜いてみたいものだった。

 ディド・ズマの愛玩物になるぐらいなら、死んだ方がマシというものだ……。


 軍陣に戻り、ガイアケロンは情報を集めさせる。

 すぐに間者として機能している商人から連絡があった。

 ディド・ズマの会計を勤めていたマゴーチという男が殺されたという。

 そればかりでなく同行していた十傑将のレンブラートとその部下五十人あまりが殺害されて、大金が奪われたという噂らしい。


 ガイアケロンはハーディアと顔を見合わせる。

 憂鬱げだった妹の表情に明るい興奮が感じられた。

 今日、始めて見る美しい笑顔だった。




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