第52話 霧の谷へ
アベルたちが村に戻ると賊は一人もいなかった。
伏兵を警戒して一軒一軒と調べて回ったが、もぬけのからである。
そうしているうちに雨が降ってくる。
かなり激しい土砂降りだった。
村の酋長のナジジという老人が一人で小屋に閉じ込められていたが、見張りもいない有様だった。
モーンケは兄のロペスを促して元酋長の家へ足を運ぶ。
「金塊があるはずだ! どこにある!?」
家に入るなりモーンケが血相を変えてそう聞くものだから、中にいた村の娘が驚いてしまった。
みな、ザラたちから酷い虐待を受けていたから怯えている。
代わりにライカナが近づいて、優しい口調でザラを殺したことを教えた。
賊たちは粗方、殺したのでもう帰ってこないと説明すると、気が抜けたのかその場で座り込んでしまう娘もいた。
「ザラの手下が大きな金の塊を持って逃げたよ」
そう答えてくれたのは二十歳ぐらいの褐色の髪をした、グラマーな猫耳の女性。
娘たちの中で一番お姉さんという雰囲気だ。
ビキニのような恰好をしているから肉感的な太腿が丸見えだった。
足の長さと、しなやかさにアベルは思わず見惚れる。
名前を聞くと、エルクと名乗った。
その時、家の中にラッチという少年が入ってくる。
エルクはラッチの姉だった。
「アベル様は凄かったんだよ! たった一人で村人のために戦ってくれたんだ! 勇者様だっ」
ラッチが興奮しながら戦いの様子を伝える。
エルクは円らな瞳をさらに大きくさせて、驚いていた。
アベルは逃げた賊が気になり、さらに質問する。
「もしかして逃げてきたのは幹部の一人、コステロって男だった?」
「そうよ。物凄く慌てていた。十人ぐらいですぐに出て行ったわ」
「逃げ延びた奴らが、とりあえずここにある金塊だけ持っていったのか……」
それを聞いたモーンケが目を剥き出して叫ぶ。
「アベル! いますぐ追い駆けるぞ! 今なら追い付く!」
「いや~。僕は今日、ちょっと疲れていて……勘弁してください。ほら、雨まで降って来たし」
モーンケが歯軋りをして悔しがる。
それから顔を赤くさせながらハイワンドの男のくせに情けないとか、大金が手に入るのにみすみす逃すのかとか、そんなことを言い募った。
だが、体力が限界に近づいていたのは本当のことだったので、もはや相手をするのも面倒になりアベルはその場で座り込む。
胸甲や籠手を外し始める。
装備には無数の返り血や刀傷がついていた。
人肉の欠片みたいなものが、へばり付いていたのでアベルは顔を顰めて拭った。
激しい戦闘を物語る汚れだった。
勝ったにも関わらず気分も落ち込んで来た。
魔力の使い過ぎだ。
何もかも怠くて眠い。
体内の魔力が枯渇すると精神が鬱状態になる。
食事をして睡眠をとれば消える感覚なのでアベルは早く眠りたかった。
そうした過酷に消耗した様子のアベルを放って賊を追跡する者は当然誰もいない。
ロペスですら戦いに勝って上機嫌であり、このうえ土砂降りのなかを追跡する気はなかった。
モーンケのみ小声で金塊がとかブツクサと口にしていた。
アベルは酋長の家の隅で横になると、すぐに深い睡眠に引き摺りこまれた。
イースとカチェはアベルの傍に座ると、そのまま守るような態勢に入る。
ガトゥやライカナは血や泥で汚れた装備の手入れを始めた。
モーンケは誰も追跡をしないが、かといって一人で追い駆けるつもりもないので苦渋の顔で座り込んだ。
アベルは夜中に一度、目が覚める。
雨音が、まだ続いている。
うっすら目蓋を開けるとイースが直ぐ傍で寝ていた。
繊細な彫刻よりも美しい顔が目の前にある。
ほんの僅かなアベルの覚醒をそれでも感じ取ったのか、まつ毛が揺れてイースの瞳が現れる。
焔のような虹彩だ。
「イース様……」
「どうした」
「賊と戦う前にイース様の姿と声が現れました。やってみろと」
「……命は大事にし過ぎると、濁って腐る。野生の動物や植物は何の保証もなく、助けもなく生きているが、しかし、美しい」
「はい。そうですね」
「ところが、私はアベルを守りたいと感じている。これは保護欲というものだ。すぐに過保護となるに違いない。……となれば私はお前を腐らせてしまう」
「僕はイース様から多くのものを貰いました。勇気もその一つです。そんなことにはならないですよ」
アベルは再び激しい睡魔に身を委ねた。
イースは自問する。
真の勇気と愚かさの違いは何であろうと。
実は違いなど無いのではないか。
幸運にも結果が伴った行為だけが勇気と褒め称えられるだけ……。
自分はアベルに何を教えてやれただろうか。
実際のところ、大したことは伝えられていないのではないか。
アベルは結局、自分の力で成長している。
それなら、下手をすれば自分が教えていることはかえってアベルの成長を邪魔してしまうのではないか……。
アベルはこれからもっと強くなる。
体は成長して、魔力も増すことだろう。
攻刀流、防迅流、暗奇術、夢幻流、竜殺流などの諸流派を体得していく。
数年後には、真に恐るべき戦士へと変貌しているはずだ。
すでにその片鱗はある。
自分は何をしてやれるのか。
逆に何をしてはならないのか。
そして、始まりがあれば、終わりがあるものだ。
そう遠くない将来、アベルは自分自身の道を進む。
イースは深く考える。
それは懊悩とも似ていた。
思考と妄想は紙一重だ。
悩むぐらいなら行動した方がいい。
いつもそうして来たのに、アベルのこととなると考えが粘つく。
答えは出ないまま朝になる。
朝も雨だった。
猫耳の娘たちが食事を用意してくれるというのでアベルは何もしないで、ぼ~っとしていた。
ザラと賊達を駆逐したアベルらへの待遇は最上等のものだった。
略奪で村には食料も乏しいに違いないのだが、それでも村人たちは手に入る中で最良のものを持ち寄ってくれた。
アベルたちの前に茹で卵や肉の蒸し焼き、果実などが並ぶ。
アベルの両隣に村の娘が付いて、あれこれと世話をしてくれる。
料理を取り分けたり、朝っぱらから酒を供してくれたり……。
アベルだけでなく男性陣は同じような待遇をしてもらい、たいそう上機嫌だ。
「アベル様。こちらをお食べになってください」
蒸した豚肉を渡してくれたのは、エルクという娘である。
彼女は、それはそれは立派な胸をしていた。
柔らかそうな谷間が良く見える。
アベルの視線が誘導されてしまう。
この谷間に顔を埋めたいとか、男なら誰でも考えるというものだ。
しかし、何か怖気を感じて視線を転じれば、向かいに座ったカチェが般若みたいな顔をしていた。
――こ、怖い……。
慌ててアベルは食事に専念することにした。
豪勢な朝食が終わり、すぐにでも今後の事を相談しようかとアベルは思っていたが、そうならなかった。
ロペスが村の娘と何事か話し合い、二人でどこかに行ってしまった。
それは誘うというよりも、お互いが一瞬で同意していた。
――あれ……?
もしかして……いや、いや、もしかしなくてもアレだよな。
ロペスだけでなくガトゥとモーンケも同じことをした。
席を立っていく。
ポルトから落ち延びて、早くも一年近く。
溜まりに溜まった男の欲求を解放しに行ってしまったわけだ。
もっとも娘の方も喜んでいる様子で、となれば止める理由など何もない。
カザルスだけは娘に声を掛ける事も無く、食べることに集中していたが。
カチェが敏感に状況を悟ったらしい。
頬を赤くさせていた。
アベルは初心な変化が面白いなぁと思ってしまう。
そこをいくとイースは顔色ひとつ変えず冷然としていた。
ライカナも同じくだ。
アベルには、まだエルクという娘が付いてくれている。
その表情を見れば、はっきりとアベルへの好意があり、またさらにはアベルから同様の誘いがあるのを期待しているように見えた。
ごく自然にボディタッチまでしてきた。
ただ肩を触られているだけなのに、たまらなく心地よい。
ちょっと気持ちが傾いた。
いや、大いにそそられる……。
その時、バキッという木が折れた音がした。
慌ててアベルが見ればカチェが木製の匙を、指の力だけで圧し折っていた……。
視線が刺すように鋭い。
やっぱり怖すぎる。
男どもの用事が済み、ザラの隠した砂金を探してみたが大雨のせいで臭いも足跡も消え失せていた。
ワルトが無理と首を振るので、そちらは諦めるしかなかった。
しかし、どうしても金銭が必要なので、次に賊の死体から金目の物を頂戴しようという話しになった。
アベルたちは採掘場に行く。
昨日は死体の埋葬までする余裕がなかった。
すっかり死体などそのまま残っていると思っていたのだが、驚いたことに賊の死体は半分以上が無くなっている。
採掘場には何かの獣と思われる足跡が無数に残されていた。
魔獣か野獣か分からないが、そうした類のものが遺体を食っていったらしい。
アベルたちは、どうせ臭いを嗅ぎつけられて掘り起こされると知りつつも死体を穴に放り棄てて土を被せる。
武器は集めて、使い物になりそうなものは村人にあげてしまった。
改造すれば農具としても使える。
遺体から貴金属や財布類をいくらか回収できた。
幸運にも残されていたザラの死体からは金の腕輪やネックレスを奪う。
死体の持ち物を自分のものにするという行為をカチェなどは非常に嫌がったけれど世の中には仕方のないこともあるとアベルは説得する。
戦利品は全員のものということにしたので全て並べてみる。
手のひらに一杯ほどの砂金が入った小袋が一つ。
王政金貨十枚。
王政銀貨が約五百枚。
銅貨はかなりあったが重たいわりに価値は低く、持ち運ぶのが面倒なので、それは村人にあげてしまうことにした。
その他に亜人である鉱人氏族が鋳造したアベルが見たことの無い銀貨が百枚ほど見つかった。
馴染みのない銀貨には精巧なレリーフが施されていて、加工技術の高さを感じさせた。
あとは貴金属で作られた護符や指輪、宝石など……。
それで全部だ。
少ないのか多いのか良く分からない成果だった。
ロペスは死体の処理が終わった採掘場を見回して言う。
「明日、ここを発つぞ。長居は無用の場だ」
反対する理由は何もないので、アベルたちは同意する。
村人たちはアベルたちが去ると聞いて、ずいぶんと残念がってくれたものだ。
娘たちは別れの前に惜しまず体を与えてくれたらしい。
なにしろ若い男はほとんど殺されて深刻な種不足でもあった。
それは燃え上るというものだ。
ところがアベルはカチェの視線が怖くて、ほとんど行動の自由がなかった。
なにしろ一挙手一投足に至るまで穿つような注目があるのだ……。
そのような状態で日が暮れていく。
もしかしたらハイワンドの子種が、こんな密林の奥にバラまかれたのかもしれない。
何十年かして、ロペスそっくりの男が酋長になっていたりして……。
アベルはそんなことを考えて苦笑いを浮かべた。
それから男たちが、行きずりの娘とそうした関係になって気にならないかとライカナに聞いてみた。
「ならないわ。わたしだって、これはという素晴らしい殿方がいたら抱かれたいもの。他人の恋を邪魔するなんて不粋ねぇ」
大人の態度である。
カチェも学んでほしいものだとアベルは心底、感じ入る。
その後、ふらりと姿を現したモーンケが聞きもしないのにアベルへ昨夜の自慢というか報告をしてきた。
「俺もいろいろと女は抱いてきたつもりだけれどよぉ。耳が動物みたいなのとは初めてだぜ。まぁ、悪いもんじゃねえな。ちっと体が獣臭い気もしたが、それも慣れれば乙なもんだぜ! ヒェッヘッヘッヘッ……」
こんな話を緩み切った顔でするあたりがロペスと違う。
ロペスなどやりはするが一々、詳細に話したりはしない……。
アベルはカチェが顔を冷たく固まらせたのを見逃さなかった。
きっと心底、兄を軽蔑しているものと思われた。
これは妹にぶった斬られる日も遠くない予感が強くする。
「ふひっひっ! そいでよ。あの女はよぉ。上になって動くのが好きらしいんだわ。もうスゲ~のなんの。まるで猪が暴れているみてぇでよぉ!
終いにはブシュッーッってよお。危うく殺されるところだぜぇ」
大口開けて嬉しそうに笑っているモーンケ。
カチェが刀の柄を震える手で握り締めていた。
アベルの背中に冷や汗が流れる。
早くこのバカの口を塞がないと、とんでもないことになる。
大慌てのアベルはモーンケの肩を掴んで小屋の外に連れ出した。
カチェの舌打ちが背中から聞こえてきた……。
~~~~~~~~
マラガ村の人々と別れて、旅は再開される。
途中、コステロら、逃げたザラ一味とは出会わなかった。
奴らの行方は分からず、もしかすると密林の中で魔獣にでも襲われて全滅しているかもしれない……。
気になるのはザラが頻りに脅迫の材料としていたディド・ズマという男だった。
数万人もの傭兵を率いて王道国の戦争に協力しているのだという。
ズマの影響力は強大かつ広範囲で魔獣界にも手下がいる。
傘下のザラを殺してしまった以上、下手をすれば襲われる可能性があった。
そこで点在する村や町にも、なるべく立ち寄らないことにした。
冒険者や遺跡探索を生業にしている者は、たとえ態度は悪くとも最低限の倫理観や矜持を持っている。
むろん野盗に限りなく近い輩もいるにはいるが、それは少数派であって、やはり冒険者たちの掟はそれなりに強固だ。
なにより、公然と強盗行為を繰り返せば
しかし、ザラのようなはっきりとした極悪人、賊の集団も世の中には存在していた。
そういう人間たちと遭遇するのを避けるためであった。
密林は進むほどに濃くなっていった。
ひたすら深奥な森を移動する日々が続く。
身を包む植物や菌類の重なりはあまりにも膨大で、まるで洞窟の中を歩んでいるような錯覚をもたらす。
足元には苔が堆く積もり、頭上は数万の葉が覆い尽くす。
森の奥では日光を浴びることもない。
太陽は巨大な樹木と葉で隠され、鬱蒼とした暗がりを歩み続けるのみ。
毎日毎日、そんな日々を過ごしていると、この緑の世界から永遠に抜け出せないのではという妄念とも疑いとも言えない気持ちが湧き出てきた。
少し奥に入りすぎたのではないか。
もう元に戻れないのではないか。
アベルはそんな不安を感じるたび、賢いライカナの指揮、イースの冷静さやカチェの変わらぬ溌溂さに助けられる。
そんな密林の中で、しかし突然と信じることが難しいほど巨大な遺跡と出会うことがある。
滴るような緑の連なりしかない世界に忽然と、壮大な白日夢を思わせる建築物が出現するのだ。
森を無理矢理に切り開き、一メル四方に渡って石畳を敷き詰め、正方形の石を積み重ねてピラミッド様式のものが造られているのだが、あまりの非現実さに空恐ろしさを覚えた。
こんなものを密林深くに建築する事業には数万人の労力を必要としたはずだ。
いったいどれほどの苦難だっただろうとアベルは想像してみるが規模が大きすぎるので良く分からない。
カチェがライカナに質問した。
「いったい誰がどうしてこれほどの大事業を興したのですか」
「全て大帝国の創始者、始皇帝の命令で造られたのです。ここには飛行魔道具の着陸装置もありましたが遺物狙いの探索者によってバラバラにされて持ち去られていました。
こうした拠点がどうして造られたのか。理由の一つは魔獣界に棲み、ときおり人界を犯しては捕食を繰り返す
「つまり民のためにやったこと……? それにしても夢を強引に現実にしようとして、どれほどの犠牲を払ったのか怖い気がします」
「始皇帝は世界を統一した、ただ唯一の人物です。しかし、壮大な大帝国は滅亡して、今はこうした遺跡が残っているのみ。始皇帝は大帝国を建国するまでに抵抗する夥しい数の諸種族を滅ぼしました。しかし、その代わりに数千万人の者を飢えから救い幸福にしたのです。とても残酷なことですが、それでも全員が不幸なままでいるよりは正しいのではないですか」
「わたくしには分かり兼ねます。ですが、大帝国が分裂したあと数百年も大戦乱が続いたと書物で読みました」
「戦争は今でも終わっていませんよ。皇帝国と王道国の勢力争いはますます激しくなる一方で、亜人界も極めて不安定です。
私は世界の争いを治めるには、大きな力と智慧が必要だと確信しています。
その鍵は隠されていますが、どこかに必ずある……」
やがてアベルは植生が変化してきたことに気が付いた。
熱帯雨林から針葉樹林に変化しつつある。
村を経って実に二百日が経過していた。
標高が高くなってきたせいか、気温が低くなってきた。
視界を遮るほど大きな植物は姿を消し、久しぶりに開けた景色を眺める。
アベルたち一行は、行く手に雄大な山脈が広がるのを見た。
連なる峰々の頂には雪が白く輝いている。
おそらく世界有数の大山脈であろうが、皇帝国ではほとんど知られていない場所だった。
「あれがレザリア山脈か……」
アベルは呆然と呟く。
あそこを徒歩で越えるのは、どれほどの苦労であろうか。
想像するだけで気が遠くなる。
カチェが同じことを思ったらしく、ライカナに質問した。
「もしかして、あの山脈を踏破するのですか」
「安心してください。当たり前ですけれど、山頂など目指しませんよ。いくつかある通過が可能な谷や高原を移動するのです。ただ、その前に立ち寄る場所があります」
「はい。ライカナさんが探している魔女アスの住処……ですね?」
「そうです。最果ての島で手に入れた記銘に具体的な場所が書いてありました。霧の谷の奥をさらに進めと……」
「霧の谷?」
「冒険者から恐れられている場所の一つです。常に濃霧が発生している谷ですが、入り込むと方向感覚を失い、どちらに進むべきか分からなくなるそうです」
「面白そうね! でも、そんなところ先に歩めるのかしら」
「わたしは方位磁石を持っていますし、ここにいる者たちはいずれも方向感覚に優れています。全員で力を合わせれば、きっと上手くいくことでしょう」
「でも、なんでそんな辺鄙な所に住んでいるのかしら」
「想像ですけれども、人と会うのを避けているのではないかしら。いわゆる隠棲ね」
山脈の麓は巨大な岩石地帯と森が入り組んだような地形になっていた。
村など細々と伸びている行路に点在する程度で、食料のほとんどは依然として狩りで手に入れる。
付近には非常に大きな角が特徴の山羊や狐が豊富に生息していて、それを狩って肉を手に入れた。
野草やクランベリーの類も採るのに苦労しない程度には生えている。
遺跡も、また点在していた。
アベルから見て、前世の古代ギリシア的な石造りの遺跡が、もはや住む人もおらず朽ち果てていた。
夜間、そういう廃墟で寝泊まりをする。
焚火があって、さらに屋根があると、それだけで野ざらしの野営より楽に感じるものであった。
旅の最中のある夜、イースが廃墟の屋上に座っているのをアベルは見つける。
蒼い月明かりが、その姿を照らしていた。
イースは長命属だが、それでもゆっくりとは成長していく。
今で人間族の十六歳位に感じるだろうか。
廃墟のなか、月光に照らされた黒髪や白い肌が清らかでありながらどこか妖しい魅力を醸している。
どのような画家の絵画よりも美しく感じる光景。
アベルは何か得した気分だった。
~~~~~~~
アベルとカチェは旅の間、ライカナから戦闘方法を教わるようになっていた。
ライカナは自らを学者であって戦士ではないと語る。
だが、その実力たるや達人の域だ。
最上級の魔法剣士とはこうした人物のことを指すのではないかとアベルは感じる。
ライカナが持つ戦闘技術の特徴は剣と魔法の組み合わせにある。
剣においては力押しなど使わず、技巧によって相手の攻撃を寄せ付けない。
魔法は、ここぞという最高の時機を見抜いて行使するのだった。
彼女の両手剣を用いた剣術は我流であるという説明だったが、幅広く様々の流派から吸収したのではと想像させる部分もある。
いずれにせよアベルにとっては得難い師になってくれた。
そのライカナは言う。
「アベル君。貴方には天稟を感じます。既にかなりのものですけれど……。もっともっと強くなるでしょう。将来が楽しみです」
「僕、別に戦士になりたいわけじゃないかも。よく分からないんです」
胸の奥底には、いつでも煮え滾る欲望が溶岩のように燃えている気がする。
何か欲しい……、だがそれは途方もなく大きいだけで形を取らない。
「一軍の将とかは? 一声で数万人を動かす男。アベル君なら夢ではないでしょう」
「う~ん……」
「戦に勝てば大きな栄光を掴めるわよ」
「あまり興味ないかな……」
「いまだ己の道を知らずね」
「そういう人生の目的を見つけられずに死ぬことも、ありますよ……」
「そうね。そういう人の方が多いかもしれない。けれど目的なんか気にせず生きるのも、悪いことではないでしょう。とりあえずアベル君は皇帝国に戻らないとね」
「ライカナさんは、どうして歴史学者になったのですか」
「運命は変えられないという人がいるでしょう? でも、歴史を見ると物事は複雑な事象の絡み合いで形をなしている。全体を丸ごと変えることは出来なくても、一部を変えて進む方向に変化を与えることはできるわ。
諸種族の世が良い方向へ進む決断の支えになればと願って本を書いています」
「理知的で健全な考えですね……」
ライカナはグリーンサファイアのような透明感のある緑色の瞳に、柔和な感情を湛えて微笑んだ。
だが、柔らかいようで強固な意志のもとに行動している者の気配を感じる……。
旅は続く。
密林は消え失せ、風景は完全に変化する。
木の高さは低くなり、視界は高原の地形が大部分を占めるようになった。
冒険者たちの移動ルートと一致しているので、一日に一組ぐらいの旅隊を見かけることがあった。
声をかけることもあれば、距離を置いてすれ違うこともある。
互いに警戒しているから、いつでも仲良くなれるわけではない。
冒険者たちは薬の材料になる魔獣を狩ったり、遺跡を探索するのが目的の者が多かった。
あるいはザラたちのように砂金や、宝石の採掘目当てという者もいた。
地権者のいない土地で鉱物を採っても誰も文句を言わないので、一攫千金を狙ってこんな所まで来る者が絶えないのだった。
アベルたちは、レザリア山脈の麓を移動し続ける。
山脈越えの道筋から外れて歩むこと二十日間。
ついに霧の谷に辿り着いた。
巨大な渓谷には、ミルクのように濃密な霧が満ち満ちていた。
時間は昼前。
このまま突っ込むことになった。
こんな所に入るのかと思うとアベルは少し緊張してきた。
だが、心配などしたところで無駄なので、なるようになると心を決める。
カチェは好奇心で軽く興奮している。
ところがモーンケが今更、こんなところに入って何の得があるのかと渋り出した。
あまりの奇景に怖気づいたらしい。
そんな男へライカナが微笑と共に答えた。
「魔女アスは伝説的な魔法使いです。気に入られたら価値のある物を貰えるかもしれません。売れば金貨何百枚にもなる魔道具とか」
「そ、そうかっ! せっかく魔獣界まで来たんだもんな。見聞を広めねぇとな」
一転、モーンケが物欲で顔を、にやつかせた……。
何が起こるか分からない危険地帯に突入するにあたってライカナが先頭になる。
次がワルト。
イース、カザルス、ガトゥ、ロペス、カチェ、モーンケ、アベルと一列に並んだ。
霧中で逸れないように、全員が一本の縄を掴む。
「地形を読み取った印象では、真っ直ぐ北に進めば渓谷の奥へ行けるでしょう。魔光を出せる者は出してください。霧の中は案外と暗いものです」
「魔獣はどうですかね」
「ほとんど人が立ち入らない場所ですから情報がありません。ですが、ああした湿っぽい地形を好む生き物がいるものです。注意しましょう……」
一行は霧の谷へ進入していく。
視界はかなり悪く、アベルからは縄を掴むモーンケの背中しか見えない。
足音と、遠くから滝の流れる響きだけが耳に届く。
前を進むモーンケは魔光を出していたが、やがて消したというか消えた。
魔力が尽きたらしい。
対してアベルは全然、消耗していなかった。
まぁ、あれが普通なのかなと思う。
太陽は頭上、分厚い霧の向こうに、ほんの僅か感じられた。
谷だから日光はすぐに岩陰に隠れてしまうはずだ。
暗くなったら、ますます移動は危険になる。
これは人も入り込まないはずだとアベルは納得する。この先に確たる目的地がなければ、まずこんな場所に来る理由がない……。
時間の感覚が狂う。
大した時間は経っていないような気もするし、逆に夜も近づくほど経過したかもしれないと不安になる。
ふいにアベルは妙な気配を感じる。
ずるずると何かが引き摺られるような音。
音の方角に視線を向ける。
前方からワルトの声。
「変な臭いがするだ!」
音が、どんどん近づいてくる。
アベルは何か悪いものだと直感。
気象魔法「極暴風」を短く詠唱、発動させた。
轟き、巻き上がる風。
激しい風圧で小石や拳ぐらいある石が転がっていく。
一瞬、掻き消えた霧の奥に異様な黒い巨体が蠢く。
まるで岩壁と見える肌。
大きな赤い粘膜が筋になって見えた。
人間ぐらい簡単に一飲みしてしまう大口。
そこにいたのは巨大な山椒魚だった。
馬車を三台ほど連結させたサイズ。
醜悪にして、恐怖に値する姿。
アベルは慌てて警告。
「魔獣だ! でっかい山椒魚みたいな!」
アベルは気象魔法「旋風招来」で広範囲に渡って霧を飛ばす。
姿を確認しないと不利すぎる。
ライカナが氷槍、カチェが炎弾を巨大山椒魚に放つ。
ところが、山椒魚は魔力を行使。
水魔法「水壁」にそっくりな水の壁を正面に創り出す。
炎弾は水の壁に命中して水蒸気を上げた。
氷槍は水壁を突破。
その向こう側にいる山椒魚の頭部とも顔面とも見分けのつかないあたりに命中。
だが、威力はだいぶ減衰させられたらしく、あまりダメージになっていないようだ。
「なんだ、あいつ! 魔法を使う魔獣か!」
アベルは初めて出会った、そうした魔獣に衝撃を受ける。
山椒魚は氷の槍が刺さった痛みで驚いたのか、体を仰け反らす。
それから悶えるように身をくねらせた。
弾丸のようにイースが突撃。
そのイースに向かって魔獣が魔法のようなものを行使した。
水流が縄か鞭のように伸びていく。
しかし、これを身軽に回避。
接近するや迷わず大剣を魔獣の頭部に叩きつけた。
岩石のような皮膚を切り裂き、深々と肉を断った。
アベルから見て致命傷にしか見えない。
たちまち巨大な山椒魚が、ぐったりと身を沈める。
素早くイースが戻ってきた。
アベルは「旋風招来」を解除する。
霧は魔法で起こした風が無くなると、再び辺りを濃密に満たしていく。
ライカナの元気のいい叱咤が飛ぶ。
「さぁ! ここからが勝負ですよ。一気に奥まで行きます。逸れないでくださいね!」
アベルたちは縄を掴み、ほとんど駆け足で先を急ぐ。
太陽は岩陰に隠れ、霧に包まれた谷底は非常に暗くなっていく。
装備や髪が、じっとりと露で濡れてきた。
こらえて進み続けると、ついに目の前に巨大な岩壁が現れる。
ライカナは風の動きを感じ、読み取る。
どこか一点から谷に向かって風が吹いていた。
迷わずその方角へ進み続ける。
しばらく進むと、岩壁に裂けたような切り通しが空いていた。
人が一人通るのがやっとの狭い隙間。
しかし、風はそこから拭いていた。
つまり、確実に先があるということだ。
さらに、重要な発見がある。
地下水が岩壁から湧き出しているのだが、その水を霧へと変換させる魔法装置を見つけた。
設置されてから数百年は経過していると思われる。
そんな仕掛けが、ざっと見たところ十か所ほどもある。
霧は人為的に作られていたのだ。
ライカナは、ますます確信する。
この奥に目的地がある。
長い長い旅。
己の知識と勇気を有らん限り絞ってきた。
ついに探し求めていたものが見つかるかもしれない。
ライカナの血が興奮で騒めく。
一行は高さ数百メートルほどあろうかという岩壁の隙間へと進んでいった。
この先には何があり、どんなことが起こるのか。
誰にも分からないが進むしかなかった……。
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