第43話  純愛で作られた地獄船

 





 籠城はさらに続いた。

 奇襲攻撃から、既に十日も経っていた。


 アベルが城の尖塔から辺りを見回してみると、東の方角に陣幕が見える。

 ガイアケロン王子とハーディア王女の軍団だった。

 律儀にも約束を依然として守っている。

 一兵も参戦させないで不気味なほど動きがない。


 それに対してリキメル軍団の本陣はどこにあるか不明だ。

 それほどポルトから離れた所に布陣しているとは考えられない。

 しかし、アベルが尖塔から望遠鏡で探した範囲に、それらしき姿はなかった。


 リキメル軍団は伏兵戦術によって数百人に及ぶ死者を出してしまったらしく、以後は慎重な行動に徹していた。

 まず市街地に伏兵が潜んでいないか、徹底的に調べだした。

 それから城壁を厳重に包囲して、以後は大きな行動はない。


 こうなると城壁の上から矢を射るぐらいのことしかできない。

 ただ弓矢も無限にあるわけではないので、近ごろは確実に命中する場合でないと射なくなった。


 ハイワンドの存亡にとって最も重要な皇帝国の援軍は来ない。

 まったく一兵の姿もない。

 さらに連絡一つなかった。


 その代り、ガイアケロン王子の密使が城内に矢文を射こんできた。

 そこにはコンラート皇子は少数の近習と帝都まで逃げ戻ったという内容が書いてある。

 皇帝国はハイワンドを見捨てて、西のリモン公爵領で防衛線を作っているから、もう援軍は来ない。抵抗しても無駄だから日時を合わせて降服してくれと認めてあった。

 リキメルには手を出させないとまで記されている。


 アベルはその親切な手紙を読んで、変な気持ちになった。

 どうにもガイアケロンの方がよほどこちらのことを考えてくれている錯覚に陥った。

 いや、これは錯覚なのだろうか……。

 心理戦の一環なのか疑ったが、本当に援軍は来ない。


 もはや城内の誰しもが感じている。

 次の大攻勢と落城の日だ。


「糞皇子め。顔も見たことないから恨みがあんまり湧かないけれど部下を見捨てるような奴、長持ちしねぇよ。自滅しろ。狂い死ね」


 アベルが独り言で不満を漏らしていると階段を登ってカザルスがやってきた。

 彼の表情は、ますます変化していた。

 穏やかな表情は消え失せて今はふてぶてしいだけでなく、どこか陰の差した険のようなものが渦巻いている。


「アベル君。ここが好きだねぇ。高い所が好きな人って異常者らしいぞぉ」

「先生がそれを言いますか。カザルス先生だって城の屋上でいつも作業しているじゃないですか。あれ何やっているの?」

「飛行魔道具さ、例の。君と一緒に魔石をアルドバ鉱山へ採りに行っただろぉ」

「ああ。そんなこともあったよね。化け物に食われそうになって……大変だったな」

「そうかい? ボクは楽しかったよ。良い思い出さぁ」

「そりゃあ先生はしたいことやっているからでしょう。僕は任務で付き合っただけ。そうでなけりゃ、あんな臭くて汚い場所には行かないよ」


 カザルスは何が面白いのか小さく笑っていた。


「せっかく飛行魔道具が……。ところでさ、今日は頼みがあるんだ。アベル君に」

「頼み?」

「そう。もう本当にカチェ様には逃げて欲しいんだ。今日にでも。秘密の地下通路というのがあるんだろう」

「僕もそう思います」

「あらためて君から頼んでくれないか。たぶん……カチェ君はアベル君に好意があるよ。その君がもう一度、頼んで無理なら僕に考えがあるんだ」

「え? ちょっと待って……カチェ様が僕に好意ある? それはあれでしょ、戦友としてでしょ」


 カザルスは、やけにきっぱりと一言で言った。


「違うね」

「……」

「僕はずっとカチェ君を見てきているんだ……。カチェ君が八歳の時に初めて会った。それから、ずっと見てきたんだ。分かるよ。君が来てからカチェ君は変わったね。前にも増して生き生きとしてきた。雑談もアベル君のことばかりだし、僕にだって気持ちが伝わってくるさ」

「カザルス先生……」


 アベルにはカザルスの言っていることが本当なのか思い違いなのか、よく分からなかった。


――俺のことが好き? 

  そりゃ幼馴染としてじゃないか。

  勘違いだ……。


 カザルスは重い熱病にでも罹った者のように、ぼ~ぅとした眼つきで宙を見詰めていた。

 虚空に美しい幻を見ているようだ。


「カチェ君は綺麗になったな。まるで宝石のような蛹が……煌びやかな蝶に変じたようだ。姿だけじゃないぞ。お心だって立派なものだ」


 カザルスの顔は恍惚として、目には熱狂が浮いてきた。


「ボクは美しい蝶が空を自由に飛んでいるのを眺めるだけで……満足なんだ。絶対に傭兵や兵士どもに指一本、触らせないぞ!」


 カザルスは怒りで拳を握り締めている。

 アベルはカザルスを馬鹿にすることはできなかった。

 何だか痛々しいほど純粋な男だった……。


 アベルは尖塔を降りていく。

 城の螺旋階段はどこも狭く作られていて、しかも、昇る者は右に螺旋の中央が位置する構造になっている。

 これは昇ってくる者、つまり攻め手の右利きの者に剣を自由に振らせないがため、あえてこうした構造にしてある。

 城と言うものは全てにおいて、敵を排除するという強い意味があって造られていた。

 だが、そうした工夫が実際に役立つときは絶体絶命の状況だ。

 今のように……。


 考えを凝らしたアベルがカチェの部屋を訪ねると、ちょうど本人がいた。

 ここ数日間は常に甲冑を着込み、前線で兵士や従者にも声をかけて献身的に行動をしていた。

 今日は、久しぶりの休息のはずだった。

 カチェは絹で作られた小奇麗な長袖とスカート姿で荷物の整理をしているようだ。

 一部は暖炉に放り込まれているから、どうやら敵に渡しなくない物を燃やすつもりらしい。


「アベル。どうしたの」

「いや、ちょっと。遊びに来たんだ」

「あら。珍しいわね」


 カチェは普段と変わらず爽やかに笑うのだった。

 その笑顔だけみていると、ここが敵に囲まれて籠城中の場所だと信じられない気持ちになる。


――なんていうか……シュールっていうのか? 

  よく分かんないけれど……。


 カチェは棚から何かを引っ張り出してきた。

 それはスゴロクだった。盤スゴロクではなくて、駒に旅をさせる絵スゴロク……人生ゲームみたいなやつだった。


「わたくし、子供の頃からどうも女の子の遊びは好まなかったの。でもね、これは好きなのよ」


 アベルは自分の駒を始点に置き、二個のサイコロを振る。

 ゾロ目が出ると別に用意されているカードを伏せた状態で引く。

 そこにはボーナス的なものがあったり、逆に悪いことがあったりもする。


 しばらく、ゲームを進めているとアベルはゾロ目が出た。

 引いてみると、文言が書いてある。


「人生は何かを得れば、何かを失う。金貨百枚を得た。しかし、サイコロを振る権利を二回失う……か。金が手に入るだけいいのか?」

「ふふ。そうかしらね?」

「えぇ? なにか企んでますね……」


 その後も、イベントがあって……たとえば老人の手助けをしたら実は金持ちで、大金を貰っただとか、そういう内容だ。

 アベルはスゴロクの終盤。災難に遭って、全財産を失った。

 そして、アベルは終点の一歩手前、つまりどの目が出ても最後に行き着くサイコロを振る。


 駒を進めると……墓場の絵柄に辿り着いた。もうそれ以上の先は無い。

 ゴールに着くと所持金の金額によって数種類の中から一枚だけカードを引くルールだ。

 無一文のアベルは貧者のカードを引いて読んでみると、墓はもっとも安上がりな宿屋、と書いてあった。


「ふん。皮肉が効いているね」

「ふふ。わたくしは、金貨百枚を持っていたから富者のカードを引いたでしょ。でも、こう書いてあるの。葬式業者と僧侶が立派な墓を用意した。魂が天国にいける呪文を三日間も唱えた。だから金貨五十枚もかかった。残された家族は遺産を巡って争い、裁判をした。そうしたら弁護人にお金を払って、残ったのは銅貨一枚だった」

「なんだよ、そりゃ……。はは。そうか。そうやって人生を茶化しているのか。でも、まぁ、確かに金なんか持って死んでも意味ないよな」

「深読みするとこれは格言ね。葬式や僧侶にお金なんか掛けるなとか。アベルの場合は、お金は無くても心配いらない……とか」

「ふふ……。あっははは!」


 アベルは妙なツボに嵌ってしまいバカ笑いしてしまった。

 この城も巨大な墓場みたいなものだ。

 金があっても使うことすら出来やしない。


「なかなか面白いや。金は生きている内に使えって意味じゃないですか」

「そうね。そうかもしれないわね」

「……カチェ様、考えは変わっていませんか? 一緒に逃げようよ」


 カチェは少し考えたが首を振った。

 それからスゴロクや私物を暖炉に放り込むと火をつける。

 大切にしていたであろう品物が燃えていく。


「ロペス兄様は最後には地下通路から騎士も兵士も逃走させるつもりよ」

「伯爵家は?」

「ロペス兄様はポルトを死守するって。自分が死ねば名目も立つと。わたくしは好きにしろって言われたけれど、残ると伝えたわ」


 アベルは考え込む。

 もう、ありとあらゆる説得は試みてきた。

 もはや口でどうにかなるものではない。


――やっぱり、ぶん殴ってでも連れ去るしかないのか?


 答えの出ないままアベルが部屋を出るとカザルスが待ち構えていた。

 真剣な表情をしている。


「アベル君。どうでしたか?」

「いいや。やっぱりダメですよ。頑固だ! 貴族の義務に憑りつかれている」

「そうかぁ……。カチェ君、キミの説得でもお考えを変えてくれないのか。では、ボクなんかが頼んでもムダだねぇ……。ところで脱出路というのは確実に安全なのかい。たとえ強引に連れ出したとしてだ、その先でもカチェ君が無事でないと意味がないんだよ」

「いや。正直に言ってそこも心配なんです。出口から安全地帯まで無事に移動できるか……微妙ですね。ポルトの周りは敵だらけだし、西のリモン公爵領へ脱出する間に何があるか。カチェ様が協力的ならば逃げられるとも思えますけれど、そうじゃないとすると、さらにまずいです」

「カチェ様の性格は良く知っているさ。ボクは教師なんだから……。騙したり卑怯な方法でここから連れ出したら激怒して戻るだろう」


 アベルは返事ができずに沈黙してしまった。

 それからカザルスは聞こえないぐらいの小声で、ブツブツと何か独り言を呟いた。

 意を決したようにアベルへ語り掛ける。


「ボクはこれからロペス様に進言することがある。最後の手段だ。すまないけれど、アベル君。カチェ様や主だった人たちを集めてくれないか」

「え……? それはいいけれど、最後の手って何ですか」

「後で教えるから」


 アベルは首を傾げつつ、人を集める。

 それから庭の陣幕のところまで行く。

 ロペスは奇襲戦以来いつも、そこにいる。

 騎士や兵士が探せばすぐに姿の見える位置で、どっしりと指揮をする姿は若年にして将らしさがあった。


 ロペスの隣にはモーンケもいた。

 モーンケは誰の目にも明らかなほど痩せていた。

 顔つきはもともと陰湿な性格が現れて悪かったが、今は加えて暗くなっていた。

 態度も怒りっぽくなったり怒鳴り散らしたかと思えば、急におとなしくなって黙りこくる。そんな様子を繰り返していた。


 アベル、イース、カチェ、ガトゥ、スタルフォンが集まる。

 皆、ほとんど発言などしないカザルスが人を呼び集めて何を語るのか疑問に思っている。


「みなさん。お集まり、ありがとうございます。さっそくですが前口上など省きましてボクが説明したいのは……飛行魔道具と爆発装置についてです」


 アベルも皆も、噂には聞いていた魔道具の事情に聞き入る。


「ボクの作戦は簡単です。城が攻め落とされそうになったらカチェ様やロペス様には飛行魔道具へ乗っていただきたいのです。そして、爆発装置を時限作動させる。そうすれば……本城の大方は吹き飛びます。本当は城どころかポルトの街を全て吹き飛ばすような爆発装置を作りたかったのですが、それはボクの知識では不可能でした。それでも、本城ぐらいは粉々に破壊できるものを作ってあります」


 あまりの話にアベルは呆気にとられた。

 不機嫌そうなロペスが聞く。


「その爆発装置は今から敵陣で使えないのか」

「移動に耐えません。精細な作りで尚且つ大きいのです。据え置きの罠としてしか成立しないのです。しかも、作るのに複雑な工程を経て一年以上は掛かってしまう……本来、兵器としては使い物にならない代物です」

「ふん。なるほど。大金を注ぎ込んでおきながら落城の時にしか使えないか。ろくでもないものを作りおって……。それで、飛行魔道具でどうしろと? 伯爵家はここで死ななければ名誉を失い、取り潰しだ……」

「飛行魔道具でやることなど空を飛ぶことだけですよ」

「空……。んんむ? 待てよ。それで空を移動できるなら奇襲に使えるな。リキメルの本陣も空から襲えるぞ!」


 アベルも同じことを思いついた。というか飛行魔道具が完成しているのなら、まず俺に教えろよと驚く。

 カザルスは淡々と説明を進める。


「それで飛行魔道具ですけれど操作者が必要です。それは当然ボク。で、乗って欲しい人はカチェ様、ロペス様。あとは誰ですかね? そんなたくさん乗れないですよ……」

「手練れだな。イース、アベル、ガトゥ……モーンケも連れて行くぞ。それから騎士団でも選りすぐりで……イベール、タレイラン、ユーゴ、テナルディ」

「ああ、ロペス様。待ってください。そんなに乗れません。まぁ、ボクも入れて八人で一杯ですねぇ。なるべく人は少なくしたいです」


 アベルはどうしても戦力に欲しい者がいる。


「あの。僕の奴隷ワルトを乗せて貰えませんか。みんな知っての通り狼人は追跡に有用ですから。それに、かなり強いし」

「ああ。それでいいぞ! リキメルの本陣に飛び込んで、王子を生け捕りにすれば死守命令など関係なくなるぞ。武勲だ。仮に……もし討ち死にしたとしても、やはり誉れだろう」


 血相を変えたモーンケが慌てて発言をする。


「けれどリキメルってのは用心深いと聞いたことがあるぞ。かなりの警護がいるだろうし……影武者にでも騙されたら、お終いだ。成功か失敗か……賭けだ。いや、ほとんど捨て鉢の決死作戦だ……。やっぱりギリギリまで籠城戦をしよう! もしかしたら援軍があるかもしれない」


 ロペスは気弱になっている弟を一瞥した。

 少しだけ考える素振りをしたが小さく頷いた。


「モーンケはこう言っておる……。生きるか死ぬかの作戦は最後まで籠城してからだな。だが、俺の予想では城壁はあまり持たない。戦術の一つに城崩しというものがある。城壁の下に穴を掘るのだ。そのまま内側まで穴を掘ることもあるが、城壁を崩壊させるために掘るのが普通だ。リキメルには鉱物魔術を使う魔法使いが複数いるだろう。ここの手勢では守り切れるものではない」

「僕は籠城戦にはそれほど詳しくないんですが、防ぐ方法はないのですか」

「壁の内側で魔力の動静を探らせているが、地下から掘り進めて来るだろう……よほど接近してないと分かるものではない。魔力を受け付けない特別な岩があるというが、そういうものは高価ゆえに皇帝陛下がお使いになられるような物だ。ここには使われていない」


 それまで黙っていたイースがカザルスに聞いた。


「その飛行魔道具とやら。細かい移動が効くのか? リキメル本陣を見つけ出して、そのすぐ傍に降りて……そして、リキメルを掻っ攫って、再び乗って逃げる。言うほど簡単か」

「そう言われたところで予行演習なんか、もうできないけれどねぇ」


 カザルスは、やはり変わらない落ち着いた態度でそう言った。

 イースは端然として再び黙った。


「どうしますか、皆さん。不満なら止めるかい? アベル君から聞いた地下通路というのも安全とは限らない。考えてみれば途中で敵に捕捉される可能性の方が高いよね。なにしろ向こうは合算して四万人。

 城で最後まで戦ったあと、爆発装置で伯爵家もまとめて粉々にするというのも考えたけれどね……。まだそれよりか、いいと思ったのだよ。空をゆくなんて素敵だろう?」


 カザルスはうっすらと笑っている。

 その言葉をロペスが肯定した。


「土壇場にしては、まあまあの案だ。お前の発明道楽に金貨を注ぎ込んだ甲斐があったというもの」


 色々と考えていたアベルは皆に聞いた。


「監督官のカイトル男爵ですけれど、あいつにはこの作戦のことを伝えないほうがいいと思います。下手したら飛行魔道具に乗って逃げるかもと勘繰るかもしれません。だから男爵には、伯爵家が最後は敵に突撃すると説明しておけば、いいですよね?」


 ロペス以下、全員がアベルに賛同した。

 話し合いはそれで終わった。


 アベルは、何だが凄いことになって来たなと思う。

 どう転ぶか全く分からない。

 もう考えても仕方ない……。

 やれるところまで、やるだけだ。


 ロペスは壁崩しの可能性を守備隊に伝え、敵が攻めてきたときはなるべく死なずに本城へ撤退する命令を出した。


 アベルはイースの部屋に戻って、いつ何が起きてもいいように必要な物を雑嚢に入れて身につけた。

 それから仲間となるべく離れないように行動することとする。


 翌朝、夜明けの前に目覚める。

 空が僅かに明るい。

 食事の支度をしようかと思っていたときだった。


 ロペスの武人としての予測は当たってしまった。

 西側の壁が突如、轟音と共に雪崩のように崩れた。

 幅は二十メートルほどであろうか。


 濛々と土煙が上がる。

 壁が崩れた後は煉瓦が山のようになっている。

 そこから登攀、壁内に侵入するべく早くもリキメル軍団が押し寄せた。


 さらに城の全方向から攻撃がある。

 長梯子が無数に用意してあって、数千人が壁を越えようと押し寄せた。

 鬨の声が響き渡り、心理的な圧迫感が凄い。

 恐れを知らないイースが崩された壁に向かって駆け出す。

 アベルは付いていくしかない。


 煉瓦の山を歩いてやって来たリキメル軍団の騎士や歩兵と交戦するが、敵は際限なく増えていく。

 リキメル軍団の総勢三万人以上が押し寄せてくる。

 やがてハイワンド騎士団撤退の合図。

 普段なら時間を知らせる鐘が、狂ったように連続で打ち鳴らされる。


 騎士や従者、兵士たちがポルトの本城へ駆け込む。

 総勢、約五百人。

 アベルはずいぶん減ってしまったなと、悲しくなるというより無常さを味わった。


 逃げたいなら逃げろと言ったロペスのもとで、ここに至るまで戦ったのだから、みんな死ぬまで戦う覚悟のある者たちなのだろう。

 アベルには理解できるようで、しかし理解しきれない戦士たちだ。


――戦う理由なんか人それぞれだもんな……。

  戦闘が好きとか仲間がいるからとか。

  名誉のため、皇帝国への忠誠、家のため。

  人が何を感じて何を想うのか。

  それは結局のところ他人には謎だ。


 本城の門扉を固く閉ざす。

 矢狭間に弓兵が付き、押し寄せてきた傭兵や兵士たちへ反撃を始めていた。

 これで少しは時間稼ぎができる。

 ロペスが中庭に集めた騎士団の生き残りに宣言した。


「ハイワンド家、当主代行として最後の命令を申し渡す。惜しくもここに至った。みな良く働いた。諸君らには生き延びることを命令する。地下道から脱出したのちはリモン公爵領に後退せよ。ご健在であられるバース伯爵様に引き続き仕えてほしい」


 地下道の存在を知らない騎士たちは驚き騒めいた。

 死を覚悟していた少数の騎士からは、ここで最後まで戦うという抗議もあったがロペスは頑として受け付けない。

 おまけに、ぶっきらぼうで説得の技能もないロペスは言い募る騎士をぶん殴って、倒してしまった。

 

 そうして五人一組で、次々に地下道へ脱出させていく。

 ロペスは手配の良いことにスタルフォンへ命じて地下道の出口周辺を探らせていた。

 リキメル軍団は兵力のほとんど全てを市街地と城攻めに投入していて、出口付近は無人だったという。

 もっとも、その先はどうなっているか分からないので賭けであることには違いなかった……。


 ロペスとアベルは監督官ラーン・カイトル男爵を個室に案内する。

 アベルはケイファードに渡してもらった金貨十枚を儀礼用の立派な盆に乗せ、押し付けるように差し出して言う。


「どうか、ハイワンドの勇戦をコンラート皇子とウェルス皇帝陛下にお伝えください。皇帝の忠臣は死ぬまで戦いました……と。この金貨は奏上の足しにしていただければ。さて、僕たちは、これから死ぬまで戦います」


 カイトル男爵は額に汗を浮かべている。

 恐怖しつつ喜んでいるような、複雑な表情をしていた。


「お聞きのように、もはや敵の破城槌の音も高らか。本城に攻め込まれるまで戦ったのですから死守命令は達成されました。それに騎士や兵士たちは本来バース伯爵様のものです。いたずらに全員死守の命令は代行ロペス様にも出せないことをご理解ください。とにかく、これより僕らはリキメルの本陣へ突撃を仕掛けます。カイトル監督官殿はこれにて立派に任務を遂げたと誰しも讃えることでしょう」


 カイトルは浴びるように飲んだ最上等の葡萄酒で赤くなった顔を頷かせた。

 酒焼けで嗄れた声を響かせる。


「このカイトル男爵。さすが武門名高いハイワンドと感服致すばかり……。吾輩とて最後まで貴方たちと戦いたいと……決意しておったのであるが、華々しい武勲を帝室にお伝えする大役、果たさねばなるまい」


 見え透いた演技だったがアベルは乗ってやる。

 同意の頷きを与えてさらに促した。


「さぁ、急ぎ退去してください。敵が来る前に地下道は塞いでしまいますから」


 カイトル男爵は金貨を懐にねじ込み、慌てて部屋を出て行く。

 部屋の外には彼の従者二名が直立不動で待っていた。

 男爵本人はすでに廊下の先まで移動していた。よっぽど早く逃げたいらしい。

 アベルは従者ミルゼの耳元で礼を言った。

 金貨を一枚、ミルゼの手に握らせる。


「ありがとうございます。男爵の背中を押してくれたんですよね。助かりました。あいつがここで死守命令を見届けると言い張ったら厄介なところでした」

「いいえ。わたしこそ助けられたわ。アベル殿には感謝しています。あのね、わたしが男爵の子を妊娠したみたいだって伝えたら、あいつ顔色を変えたわ。跡継ぎがいないのよ。何としてでも生き延びたいって思ったみたい」

「嘘までつかせて、ごめんなさい」

「いいえ、妊娠自体は嘘じゃないのよ……。ただ、誰の子かまでは言っていないんだけれどね。男爵が自分の子だと思ったのなら、それでいいじゃない」


 ミルゼは隣の精悍な顔をした男の従者に、ちらっと視線を送る。

 アベルはミルゼが浮かべた意味深な笑みを見送った。

 ミルゼと名も知らぬ男の従者も逃げていった……。


 時期と見たロペスは矢狭間で奮闘していた弓兵、弩兵たちも逃がした。

 最後の脱出者は家令のケイファードと儀典長騎士スタルフォンだった。


 いい歳をした壮年の男が二人、男泣きをしている。

 特に謹厳実直、常に家を預かる家令として背筋を伸ばし仕えていたケイファードが、ぼろぼろと涙を溢れさせている姿は異様な迫力があった。

 スタルフォンが激情のあまり顔面を朱に染めて、絞り出すように言う。


「こんなに苦しいことが人生にあるとは思わなかった。死ぬより辛いぞ……! 作戦、きっと上手くいくと信じておるからな! カチェ様を頼む」

「カイトル男爵がちゃんと報告するか二人で見張ってください。まぁ、リキメルを生け捕りにするなり首を獲るなりすれば、死守命令なんか意味がなくなると思いますけれど」

「死なないでくれ、アベル」

「はい。死ぬと決まったわけじゃないです。イース様がいるんだから、きっと勝てます。明日には祝勝会かもしれないですよ。ケイファード様。出陣式のときみたいに仕切り人になってください」

「ふふ。そうしたら、またアベル様には料理人をやってもらいましょうか」


 アベルは手を振り、二人と別れる。

 それから煉瓦を積んで、土石変形硬化で継ぎ目を完全になくして、そこに通路があったとは分からないようにした。


 アベルは城の階段を急いで登る。

 門扉の方から、派手な槌音がしていた。

 ぶち破ろうとしているようだ。

 城の壁にリキメルの兵士が取りついている気配がある。

 屋上に昇るとイースたちがいた。

 すでに飛行魔道具は覆いを外され、設置されていた。

 長方形をした黒い大きな石板。


――あれが飛行魔道具か。モノリスみたいだな……。


 黒板の中央に操作盤のようなものがあって魔石がいくつか輝いている。

 方角の計測にでも使うのか天球儀のようなものも設置されていた。

 そのモノリスが金属で作られた筐体に嵌っていた。

 筐体の方も何らかの装置らくして、複雑な機構が見て取れた。

 魔法陣や集積回路とも類似した文様が、びっしりと描きこまれている。

 まるで発光ダイオードのように筐体のいたる所で魔石が光を放っていた。

 カザルスが一度、城に戻り、すぐに帰ってくる。


「自爆装置を作動させた。しばらくしたら爆発するから……じゃあ行こうか」


 アベル、イース、カチェ、ガトゥ、ワルト、ロペス、モーンケ、そしてカザルスが飛行魔道具に乗った。

 体の大きな男ばかり、しかも完全武装して八人も搭乗すれば、隅の方に少しの余裕がある程度となる。

 座席とかはないので、各々、適当なところに胡坐をかく。


 カザルスが操作盤の上に手を翳すとモノリスが無音のまま、ふわりと浮かぶ。

 見る見るうちに直上へ、エレベーターのように上昇した。

 もう既に数百メートル上空だ。

 景色が遠い。

 皇帝国と亜人界を隔てる北部山脈の峰々が、くっきりと見えた。

 眼下ではリキメルの軍勢が本城に取りつき、蟻のように蠢いている。


 するすると滑らかに無音飛行していく。

 アベルが東に視線を移すと、ポルトの郊外で布陣しているガイアケロンの陣営が見えた。

 アベルはカザルスの望遠鏡を使って、ガイアケロンの陣とは逆方向を調べる。

 すると軍旗や幟が乱立した集団が見えた。

 本城の尖塔からは見えない高地の裏手だった。

 用心深いというより臆病というべきリキメル王子の態度が布陣にも表れていた。


 柵が設けられていて、数百人ほどで形成された軍列が複数ある。

 およそ三千人の集団だろうか。

 陣幕が張られていて、その脇には中央平原で見た輿があった。


――たぶん、あれだな……。


 あっさりとリキメルの軍陣が見つかって、少しほっとした。

 もっとも、あそこにリキメル王子本人がいるとは限らないのだが……。

 アベルはカザルスに聞いた。


「これ、風が入ってこないですね。風を遮る装置があるのですか?」

「ああ。そうだよ。こいつはかなりの高速で飛行するはずだ。乗っている人が吹き飛ばされないように力場を作って風や障害物から搭乗者を守るようにできているのさ。だから転落はしないから怖がらなくていいよ」

「爆発は、いつ」

「もう、そろそろだ……」


 城でフラッシュのような閃光が放たれた。

 次の瞬間、赤い炎の塊が発生、膨張してハイワンド城を飲み込んだ。

 紅蓮の塊は、大爆裂した。


 衝撃波が波紋のように広がる。

 本城の半分ほどが、まさに粉々に吹き飛び、残った部分も粗方が崩壊する。

 城に取りついていた大勢のリキメルの将兵や傭兵たちは塵芥さながら、一瞬で姿を消した。

 城壁内に侵入していた兵士たちもまた、激しい衝撃波や豪速で飛び散る岩、煉瓦の破片を食らうことになった。

 もしかしたら数千人が死んだり再起不能の大怪我を負ったのではないかとアベルは恐ろしくなる。


 後には廃墟、瓦礫、火災と黒煙だけが残った。

 カザルスの口ぶりでは目標とした爆発規模とは程遠い、というような説明だったのだが、十分に強烈すぎる破壊力だった。

 良い出来事、嫌な思い出、様々な記憶があるハイワンド伯爵家の城や騎士団本部、イースの部屋……、ひとつ残らず呆気なく消失した。




 飛行魔道具は、すでに物凄い勢いで飛翔をしていた。

 ぐんぐんと空中を進み、ポルトの街が見えなくなっていく。

 カザルスが完全武装で身を固めたカチェに語り掛けている。


「さぁ、カチェ君。これが空の世界だよ……。素晴らしいだろう」

「まるで鳥になったようです」

「ふふふ。鳥より、ずっと速いよ。千年も前、大帝国の人たちはこんな物に乗っていたんだ。凄いねぇ」


 場違いなほどのんびりとした会話。

 アベルは聞いた。


「あの、カザルス先生……これはどちらへ向かっているのですか。リキメルの本陣はポルトの西側……」

「ああ。この飛行魔道具はね、赤道へ向かっている。まず東南に移動して、その後は赤道を東方向へ進む」


 アベルは首を傾げた。


「え。東? いや、ポルトに戻ってくださいよ……。っていうか、これ凄い速度ですけれど……どんだけ速いの」

 

 アベルは流れていく速度に圧倒されそうだ。

 前世の航空機どころではない。もっともっと速い。


 カザルスは両眼から流水のような涙を零していた。

 様子がおかしい。

 明らかに異常だった。

 決死の突撃を前に精神状態が均衡を失ったのだろうか。

 そんな様子のカザルスが、口を開く。


「みんな……すまない。ボクは嘘をついた」


 こいつ何を言い出すのだと、みんな黙り、注視するほかなかった。


「ふふっ。空を飛行して攻撃? そんな便利な物を簡単に作れるのなら皇帝国も王道国も、もっと何百年前から製造して戦争に使っているさ。誰も作れなかったから、今まで無かったんだよ……そんなことにも気づかないとはねぇ……。この飛行魔道具は、地上の着陸誘導装置を失った今、操作制御はできない。ただ、理球体の赤道付近を東へ進むだけのものと化している」

「え……」


 アベルは我が耳を疑う。

 なに言っているんだ……。


「ボクはカチェ君に大空を贈ってあげたかった……。考えてもみてくれよ、傭兵や怒り狂った兵士どもにカチェ様が捕まったら……、どんな目に遭う? 殴られて、蹴られて、手足を斬り落とされるかも……そして、強姦される。十人か? 五十人か? そんなこと、させやしない……させやしないぞ! ボクの命を賭けてもね」


 カザルスは固く唇を噛んでいる。

 アベルは恐る恐る聞く。


「この魔道具は、どうやってどこに着陸するの?」


 カザルスは首を振る。


「さっき言ったろう。地上に着陸装置がないと、この魔道具はただ飛ぶだけの構造だ。魔石の魔力が失われたら、放物線を描いて地上に投げ出される。そういう風にしかならないんだ」

「ど、どれぐらい飛んでいられるのですか」

「ボクの計算では理球体の半分を少し進んだあたりで推進力を失う。おそらく、大陸を過ぎて大海原の真ん中だろう。カチェ君。許してくれとは言いません。しかし、貴方には血と暴力に塗れた最後は相応しくありません。穢れなき大空にいていただきたい」


 カザルスは号泣しているが、それでいて恍惚とした、一つの大仕事をやり遂げた者の顔をしていた。

 カチェは僅かに憐れみの目線を湛えていた。

 首を小さく振る。


「カザルス先生の言っていること。わたくしには、ほとんど理解できません。わたくしを想ってのことらしいと、それだけは分かりますが……海にせよ山にせよ、こんな速度で投げ落とされれば、きっと死ぬことでしょう」

「忌々しい城で戦わされて、あげく死ぬまで輪姦されるのだけは見たくなかった……!」


 アベルはカザルスを非難する気にならなかった。

 カザルスは追い詰められて暴発したわけだが、彼の頭の中で連想されていた地獄が見えてくるようだった。

 あり得ると思った。


 アベルはイースを見る。

 イースにしても、百人ぐらいは道ずれにできるだろう。

 状況次第では数百人は倒せるかもしれない。

 しかし、いずれは最後が来る。

 イースがずたぼろにされて、そのうえ男どもに犯されるところなど、死んでも見たくなかった。

 もちろんカチェのこともだ。

 モーンケが取り乱して叫んだ。


「ふ、ふざけるな! 始めっから騙していたってことかっ! リキメルの本陣に突撃するってのは、まるきりの嘘だったのかぁ!」


 カザルスは頷いた。

 モーンケがカザルスに掴みかかる。


「なんとかしろっ。この魔道具を地面に降ろせ!」

「できないんです。着陸装置が爆破されたのは見たでしょう」

「だ、だいたい理由がなんだ! カチェが男どもに犯されたくなかったからだ?! お前みたいな雇いの教師風情が伯爵家の息女に懸想して、あげくに無理心中! しかも、おれたちを巻き込んで!?」


 激高したモーンケがカザルスの頬をぶん殴った。

 仰向けに倒れたところを、さらに足蹴にする。


「こ、このバカ野郎っ!」


 カザルスを蹴り飛ばすモーンケを見ていると、アベルは激しい怒りが込み上げてきた。

 アベルは立ち上がりモーンケの顔面を拳で殴りつけた。

 堪らずモーンケが足元に倒れ込む。

 アベルは怒鳴りつける。


「お前、本当に最低だな。なにもできないくせに批判はする。行動もしないのに非難するのだけは熱心……! だったらおめぇで、この状況を解決しろよ」


 目には殺意が宿っていた。

 モーンケはそれを察して、小さい悲鳴を上げた……。


 沈黙。

 誰も喋らない。

 アベルは景色を見た。


 風景は猛烈に変化を続ける。

 経験したことのない速度で東へと飛行している。

 地上を見ると、中央平原らしき緑の平野はすでに姿を消していた。


 代わりに広がる地形はもっと緑が繁茂した、深い森と言うか、ジャングルのような状態だった。

 イースが静かに言う。


「亜人界と魔獣界の境界は曖昧だ。だが、ここはすでに魔獣界だろう。聞いた話しだと、この密林を過ぎると平野となり、次は砂漠となり、大山脈が現れる」


 モーンケがおかしなことを言い出した。


「森の上に落ちたら助かるんじゃないか。体が枝に引っかかるだろう! 衝撃は無くなる……なぁ、そう思うだろう?」


 誰も賛同しない。

 アベルも答える気にならなかった。

 可能性としてゼロとまでは言わないが、溺れる者は藁をも掴むという類の戯言と思われた。

 そういえば高層ビルで火災などが起きると、追い詰められた者の中には落下すれば助かると決断して、身を投げ出す場合があるという……。

 アベルは、ぼんやりとそんなことを考える。


 アベルは大空を見た。

 眼下に雲がある。

 雲上にいるから、空の景色は一点の曇りもない青空だった。

 この景色をカザルスはカチェに見せてやりたかったのだ。

 どうしても、何が何でも。

 濁世を抜けた天上の世界。


「僕たち……死ぬのか」


 カザルスの行為は偏ってはいても、愛情からのものだった。

 愛と呼ばれるものは、そもそも酷く偏っている。


 誰かを愛し、だが、誰かを愛さない。

 ならば愛とは単に選ぶだけの行為なのか。

 美辞麗句に彩られているだけで、愛こそ最大の差別ではないのか。


 そうではないとしても、汎愛とも呼ばれる、誰をも全て愛するという考えはアベルの核にいる男には受け入れられなかった。


 アベルは想う。

 愛とは何だろうと。

 その正体は単なる欲望なのか。

 そうではないはずだ。

 そうではないと信じたい……。


 では欲望ではない愛とは、どのようなものなのか。

 愛というのは、分かりそうで分からないものだった。

 生きていれば、いつか理解できるものだったのだろうか。


 どこか愛というものに深い怯みを持っている自分。

 そして、おのれ自身に眼をよく向けてみれば何と愛を持っていない男だろうか。

 あるとすれば胸の中に渦巻くのは憎悪と欲望。

 本当は爆発しそうな衝動に任せて、獣そのものになりたい欲求が心に憑りついていた。


 イースは考えに耽るアベルの耳元で、そっと囁いた。


「アベルよ、聞け。私は今、カザルスとこの状況に少し感謝をしている」

「え……。どうしてですか」

「この中でアベルだけは助かるからだ」


 不意に齎された断言、アベルは驚きで目を見張る。

 イースは冗談を言っている様子ではない。

 いつもの通り、冷静な顔つきだ。


「アベルだけは助かる。なぜならお前には強力な魔法があるからだ。私が、これからこの飛行魔道具を破壊する。体は空中へ投げ飛ばされるだろう。極めて素早い速度で地上へ落下していく。だが、体が地面にぶつかる手前で、突風か極暴風で自分の体を舞い上げろ。次には威力を弱めて、また魔法で体を吹き飛ばすのだ……。

 これを繰り返せば、かなり衝撃を抑えて地面に落下できるはずだ。よしんば怪我をしても、お前なら自らを治すことができる」


 イースは滅多に喜怒哀楽を表わさない。

 美しいが冷然とした顔貌。

 不動不壊ふどうふえの心。

 しかし、今こそイースはこの上もないほど、優しく微笑んでいる。

 その眼差しは静かで、生死への執着がない。


 アベルはイースのこうした姿に、ある種の救済的な清らかさを感じずにはいられなかった。

 どこか自分の追い求めているものの片鱗を感じるのである。


「お前だけは確実に助かる。生き延びろ、アベル」


 イースは立ち上がった。

 剣を足元に叩きつけるつもりらしい。


「イース様。死ぬの、怖くないんですか」

「私とて死ぬと決めているわけではない。これから死ぬかどうか、分からないではないか。分からないことを恐れても仕方ないだろう」


 虚勢ではなかった。

 全く穏やかな顔つきでそう言う。


――やっぱり俺とは魂の強さが違うな。

  俺といえば怖くて仕方ないのにさ……。



「ま、待ってください。イース様。みんなに説明して、それからです。黙ってやるのは卑怯です。それから僕はイース様とカチェ様は絶対に諦めません。二人なら抱きかかえられます。やってみせるっ!」


 アベルは立ち上がり全員に言った。


「聞いてください。このままだと、この飛行魔道具は海に落下します。そうなれば誰も助からない。ならば……わずかでも生存に賭けたい。僕はカチェ様とイース様を抱きかかえて、この魔道具を破壊します。ワルト、ガトゥ様、カザルス先生には悪いけれど……」


 カザルスは一時、放心したようにアベルを見詰めるが、それから頭を下げた。


「頼む! アベル君。カチェ様をお守りしてくれ……! ボクにできなかったことをやってくれ」


 モーンケが絶叫した。


「ま、まてぇ! 狙いは読めたぞ! 魔法だな! 空を飛ぶ魔法をお前だけは知っているのだな!」

「そんな魔法は知らないですよ。いちかばちかの破れかぶれになった賭けです」

「うぞだぁ! 隠している! 助けるならっ、俺と兄貴だぞっ! 次期当主と、お前からすれば兄も同然のこの俺を助けんで何とするか! それでも武門ハイワンドの者か!」


 アベルは、むしろ納得した。

 なんと醜いのだろう。

 人間の本性。

 汚さの露出。

 けれど、こうした人間こそ前世で掃いて捨てるほど見てきた。

 学校で、刑務所で、会社で、家で……。


 うんざりして、消えてくれと願って、それでも絶対に失せることの無かった醜い奴ら。

 これが普通だ。

 他人を犠牲にしてでも自分が助かりたいと思うのは、当然だ。


 そうでない者が圧倒的少数者。

 異常者と言ってもいい。

 アベルは、くすりと笑った。


「……あれ。僕ってハイワンドの人間だったの?」


 モーンケは血相を変えて、歯を剥き出し叫ぶ。


「そうでなくては何なのだ! だったら何者と言うつもりだ!」

「そうだな……。何者でもない。何も持てず、何も創らず、誰も愛さず、破れて残った敗残者……それが俺だ。それでも、今は二人を助けたい。邪魔しないでくれ」


 モーンケが絶句している。

 ロペスは口をへの字に曲げて目を閉じていた。

 カチェは顔を赤くさせ、紫水晶のような瞳は恍惚とした光を湛えアベルを見つめていた。

 ガトゥは低く笑い始めたが、やがて大声で笑った。


「ははははっ。こりゃおかしいぞ! この武人ガトゥ。無理心中に巻き込まれて死すか。まぁ、悪くねえ。因業の奇縁だな。仕方ねえな」


 ガトゥは腰から瓢箪を外すと、中の火酒を呷った。

 それからカザルスの横顔を、バシンと一発、張る。

 音は大きかったが、手加減したのがアベルには分かった。


「これで許してやるよ」


 ガトゥが、にかりと笑う。

 そして、雑嚢をアベルの足元に放り投げた。


「中にいくらか食い物がある。降りた後に食糧がないと困るだろう。とっておけ」

「ガトゥ様……。すみません。貴方には僕の足にしがみ付いてもらおうか考えたのですが、あまり重量が増したり均衡を取るのが難しくなるとどうなるか……」

「気にするな。体に図体のでかい男が食らい付いていたら助かるものも助からなくなるだろう。だいたい、おめぇの足にしがみ付いて、言葉通り足を引っ張れだと。このガトゥ男爵。落ちぶれ切ってもそんな見苦しいことはしねぇぞ……。アベル。死ぬなよ」


 ガトゥはさらに瓢箪の中の、喉を熱く燃やすような液体を口に注ぎ込んだ。

 それから口ずさむ。


「大空を飛びも飛んだり地獄船……」


 ガトゥが、げははは、と哄笑する。

 アベルもつられて笑ってしまった。


「ワルト。ごめんね。それかダメもとで足にしがみ付いてみるか」

「くうううぅん。やめておくっち。……ご主人様が無事なら、それでいいっちよ」


 毛むくじゃらの忠実な狼男は、つぶらな瞳をアベルに向けるのみであった。

 そこへモーンケが這い蹲ったまま犬のように擦り寄ってきた。


「なぁ。アベル。俺がお前の足首に掴まるからよ……ひへへっ」

「貧弱なあんたじゃ無理ですよ。猛速度で落下するのを強制的に暴風で跳ね上げるのだから凄い衝撃で何回も回転するに決まっている。どんだけ強い力が掛かると思っているのかな。遠心力って言うのだけれど。振り落とされるだけさ」

 

 モーンケが情けない泣きそうな顔で見つめてきたが無視した。

 アベルは地形を読み取ろうと眼下に目を凝らす。


 景色は劇的な変化を続ける。

 眼下、雲間に巨大な山脈がある。

 絶景だ。


 麓は緑に覆われ、標高が高くなるにつれて岩肌が露出している。

 そして頂の付近は白い雪で覆われていて、どこか気品すらある青い峰を成していた。

 歩けば踏破するのが不可能とも思える、どこかに神や仙人でも住んでいそうな山塊ですら飛行魔道具は軽々と跳躍していった。


 アベルはカチェを立ち上がらせて、左腕に巻き込んだ。

 それから右腕にイースを抱き寄せる。

 鎧越しだから抱き心地もなにもあったものではない。


 まだ、アベルより二人のほうが背は高かった。

 顔がくっつくほど近寄せた。

 滝のような輝く黒髪と、艶やかな紫紺をした髪が絡みつく。


――両手に花なら、こんな今際の際じゃないほうがよかったな。


 アベルは嬉しいのだが、滲み出るように苦笑した。

 二人からは香しい女の匂いがした。

 やけに生々しく、華やかで、欲情が湧き出すような甘い匂い。

 アベルは陶酔感にも似た感覚を得る。


 イースの顔が少し上気したように、ほんのりと桜色になっていた。

 恥ずかしいのか、照れているのか……。

 こんな様子を見るのは初めてでアベルは面白いなと思った。


 それから助かる場面を強くイメージした。

 どれほど落下速度が猛烈でも、魔力を振り絞って乗り切る。


 山脈を越えた先は、地平線の先まで緑で覆い尽くされていた。

 密林地帯らしい。

 アベルは眼下で規則的に整然と並んだ石の列らしきものを見つけた。


「カザルス先生。あれは!」

「たぶん、遺跡だねぇ。大帝国時代のものではないかと思う。それにしても巨大な施設だったな……」

「人がいるかな」

「命知らずの冒険者や考古学者が魔獣界の遺跡探索をやるのは有名な話だから……いるだろう。噂では村も点在しているらしいけれどね」

「あそこを目指そうか」


 密林の遥か先に海が見える。

 海に達してしまうと、お終いだ。

 アベルが、そろそろイースに合図をしようと思ったとき。

 ある変化が起こった。

 飛行魔道具の高度が落ちている。

 これまでは上昇を続けていただけなのに……。

 飛び降りるなら、高度は低いほうが良い気がする。


「カザルス先生。なんでこいつ下に向かっているのですか」

「変だな。着陸装置の誘導がないと高度は下がらないはずだが……。いや、これは!」


 操作盤に嵌め込まれた魔石の一つが、点滅を始める。


「着陸装置の誘導波動だ……でも何故?」

「え……どういうことですか」

「どこかに着陸装置があるってことだ。飛行魔道具を破壊するのを待つんだ」


 事態のあまりの急変に、消化が追い付かない……。

 アベルはイースとカチェを抱き締めたまま、じっと待つ。

 もう海岸線が目前に迫ってきた。


「しまった! 海を越えたか?」


 アベルがそう叫んだ時、飛行魔道具はピタリと静止した。

 そのまま、動かない。

 みんなの荒い息遣いの他は、聞こえる音もない。


 カザルスが操作をすると、飛行魔道具は音もなく降下していく。

 やがて、地上に巨大なヘリポートのような平らかな場所があるのをアベルは見た。

 それは自然ではありえないような、完全な真四角の人工物。

 どう見ても、飛行物体を迎え入れるような構造になっていた。


 着地の振動も轟音もない。

 ごく当たり前のように飛行魔道具は地面に降りた。

 アベルは降りるべきか迷う。

 色々なことが頭をよぎる。

 これ自体、なんらかの罠ではないのか?

 あるいは幻でも見ているのではないか、とも思う。


「ひっ! ひぎいぃいぃ!」


 野獣のような声を上げてモーンケが大慌てで、まるで飛び降りるように身を投げ出した。

 外が安全とは限らないのに迂闊な男だとアベルは思うが、モーンケに異常はない。

 異常はないといっても精神的にはかなり追い詰められているが……。


 アベルが恐る恐る、地上に降り立つと、なんらの問題もない。

 母なる大地だ。

 風に懐かしい匂いを感じる。

 潮風のものだった。

 ハイワンドは内陸だったから、転生してから一度も嗅がなかった。


 呆然としてため息をつくと着陸構造体の脇にある、まるで管制塔のような建物から二人の人物が現れた。

 のんびり歩いてくる。

 時間をかけてゆっくり近づいて来た。

 そして、アベルの前に立つ。

 二人は年齢五、六十歳とおぼしき男性。


 老人は二人ともそっくりの顔をしている。実際、双子かもしれない。

 白髪を伸ばして、同じく白髭を蓄えている。

 眉毛まで白くなっていて、その下の眼は柔和な感じ。

 二人のじいさんの片割れが口を開いた。

 笑っていた。


「ようこそ。終わりにして始まりの島へ」


 隣の老人が言う。


「終わりにして始まりなんて……格好よく言ってもだめだよ、クアン兄ちゃん。ここは最も愚かな賢者の行き着くところ。まぁ、簡単に言って飛行魔道具の実験に失敗した奴の行き着く場所じゃよ」

「ここ、どこですか」

「大帝国の遺跡、大陸極東の地じゃな。あんたらの中の指導者はどなたかな? それと、その大帝国末期に作られた飛行魔道具によく似たやつを再現した技術者はおられるのかのう」

「ロペス様。それとカザルス先生。こっちに来てください。このご老人らがお話があるみたいです」


 ロペスとカザルスが装置を降りて歩いてくる。

 他の者も吊られて降りてきた。


「わしは、クアン」

「わしは、リアン」

「我ら、見てのとおり双子の兄弟じゃ」


 二人の老人は名乗るが、入れ替わっても分からないなとアベルは瓜二つの容姿を見て思う。


「さて、隠しても仕方ないから、始めにはっきりと言っておく。あんたらがどこから来なすったか、それは知らない。しかし、ここはパンゲア大陸の極東。しかも、陸地から離れた島じゃ。亜人界にせよ王道国にせよ、生きて戻ることも覚束ない地の果てじゃ」


 ロペスが言葉短く、端的に聞いた。


「俺は皇帝国、ハイワンド領に戻りたいのだが、どうやって帰ればいい。そして、どれぐらいかかる」

「魔獣界と亜人界を横断しなくてはならぬゆえ」

「我ら兄弟、それが無理と諦めたほどじゃ」

「さてさて……幸運が味方したら十数年かのう。下手したらもっとかかるかもしれぬ。そして、運が悪ければ魔獣に食われてしまうの」


 十年……と誰しもが呟くのであった。

 ロペスが重ねて聞いた。


「この飛行魔道具で帰ることはできないのか」

「世界に現存している着陸施設は、恐らくここのみ。無理じゃのう」

「まぁ、なんにせよ死ななくて良かったのう」

「ここは、もはや皆の島。お主らが出ていくか住むかは自由じゃが、掟は守っておくれよ。誰しも快適さを味わいたいもの」


 カチェが小刻みに震えていた。

 瞳からは輝くような涙の滴を流していた。

 そして、誰に語るでもなく言う。


「わたくし、悪い人間です……。いま、安心してしまった。これで死なずに済むって、嬉しくなってしまった! なんて、あさましい……あぁ……」


 そして、カチェは吐息のような嘆きを絞り出し、嗚咽する。

 強気なカチェが泣いているところなど、アベルは初めて見た。


「カチェ様。それでいいんですよ。人間、生きていられるってことは、それだけで有難いことです」


 イースは自分が助かったと知ったとき、激しい恥を感じた。

 助かったことではなく、アベルに抱き締められたとき、これは助けてもらえるのではないかと期待してしまった。

 今まで自分の心から厳重に排除してきた他者への依存心。

 あるいは自力で解決できない状況を他人に解決してもらうという、その甘さ。

 ところがアベルに助けられるということに、実は深い深い喜びを感じてはいなかったか……。


「アベル。私は自分を恥じている」

「えっ、なぜですか?」

「お前に抱き寄せられたとき、助けると言われたとき、私はアベルに依存してしまった」


 イースが顔に悔しさを滲ませていた。


「いや、別に。頼ってくれてもいいんですけど。むしろ嬉しいっていうか……」

「アベル。私にとってお前は遥かに年下の者だ。弟子と思うこともあった。そうした者に一瞬でも依存するのは許されぬこと」

「イース様。自分に厳しすぎ……」

「ガイアケロンらと戦った時、私はかつてないほどの喜びを感じた。アベルと二人でどこまで行けるかと心は燃えるようだった。ところが、たった今は奴隷以下の自分がいた。私の探しているものは心だが、こんな弱い心が見つかるとは思わなかった」


――それはそれで面白いのになぁ。

  イースは感性が清廉すぎるかも。

  もうちょっと柔らかくても良いと思うけれどな……。


 アベルはそんな風に感じたが、黙っていることにした。

 一行は、リアンとクアンという双子の老人に招かれ、建物の方へ歩いていく。

 赤道直下だけあって、かなり暑い。

 アベルは呟いた。


「純愛で作られた地獄船。南海の島に辿り着くか……これからどんな生活が始まるのかな」







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る