第27話 拳、女の相談、男の悩み
シャーレを送り届けたアベルはイースと合流して、騎士団に戻った。
夕方前だったので本城にいるカチェに挨拶だけはしておくことにする。
しておかないと後で機嫌が酷く悪くなるので……それは怖いので……。
アベルのご機嫌伺いにイースを付き合わせるわけにはいかない。
そもそも、イースは相手が誰だろうとお世辞など一言一句たりとも口にするはずもなく、同行する意味が全くない。
しかも、伯爵一族の私邸であり重要施設でもある本城には、たとえ騎士身分だろうと呼ばれてもいないのに立ち入る自由はない。
それなら装備の手入れ、騎士団への報告を優先するというものだった。
遠縁の者という立場によって立ち入り自由のアベルは本城の中へと入る。
中庭を見ると、目的のカチェがいた。
横には儀典長騎士スタルフォンもいる。
何か作業をやっている……。
どうやらカチェは刀の訓練をしているようだ。
巻藁斬りの準備を指示していた。
庭にはアベルの知らない人も数名いるが、どうやらそれは客人のようだった。
藁を束にして水を含ませたものは、重さや強度で人体に近いという。
巻藁を用意するだけでも一苦労だから、きっと誰かにやらせたのだろう。
カチェは抜き身の刀を手にしている。
この世界の刀は、前世の日本刀に似た構造になっている。
斬るのにも突くのにも適した武器だ。
カチェが刀を使うようになったのは自分の影響だろうとアベルは感じる。
なにしろカチェに剣術を教えているのは自分しかいないからだ。
城にも腕自慢の騎士はいるし剣の指南役もいる。ところが父親のベルルによってカチェに教えるのは禁止されているみたいだった。
アベルが様子を見ていると準備が終わったらしく、待ち構えていたカチェが大上段に刀を掲げた。
袖の無い服だから、綺麗なわきの下が丸見えだった。
場違いだが、やたらに艶めかしい……。
「でやああぁぁぁ!」
カチェの鮮烈な気合の声。
全身を使い短距離走の出だしのように駆け寄り、斜め上段斬り。
刀が閃く。
巻藁が真っ二つになった。
返す刀で下段から上方斬り。
難しい連続技であるが見事に決まる。
それから水平線とほぼ平行に斬る、中段薙ぎ払い。
これもまた鮮やかに巻藁を切断した。
思わずアベルは唸る。
驚くほど冴えた手並みだ。
刃筋が通っていないと巻き藁に刀身が入り込まず、酷いことになる。
斬れないで弾かれたり、刀の方が耐えられず折れたり曲がったりしてしまう。
中途半端な遊びで身に付くような技術ではない。
「カチェ様。上手です」
「あっ。アベル! 戻ってきたのですね」
「はい。ついさっき」
「なるほど。早速、わたくしの元へ出向いたのは殊勝なことです」
カチェが傲慢ながらも嬉しそうに踏ん反り返ってそう言うと、不思議な可愛さがあった。
だから別に嫌な気分にもならない。
それに不自由な環境が原因でストレスが溜まり過ぎているのも知っている。
そこへ唐突に拍手がある。
誰かと思ってアベルが見ると、客人らしき四十歳ぐらいの太った男性だ。
刺繍や房飾りで贅沢に凝った軍服を着ているうえに、やたらと金色に輝く首飾りもしている。
それは太い金の鎖だった。
指に輝くアクセサリーも凄い。
大きな赤や緑の宝石が嵌った指輪をいくつもしていた。
顔の肉がブヨブヨと緩んだ、言ってしまえば好色そうな顔だった。
鼻も潰れたように広がっていて、唇が厚い。
舌なめずりなんかしている。
「いやあ、お見事お見事!」
「……どちら様かしら」
「私はブールマルト子爵と申します。今日はロペス・ハイワンド様にお金をご融資するために来ました」
その後、ブールマルト子爵はぺらぺらと聞いてもいないのに、財政の苦しいハイワンド家を支えるために、金貨二千枚の融資が纏まりそうだとか、そういうことを一方的に話していった。
カチェを見るその視線は粘性を含んでいて、下品な男が女を品定めする、あの類そのものだった。
カチェは顔を表向き用に、僅かに微笑させて固まらせている。
長い話の最中、必要最低限だけ頷きをくれて、しかし、自分の意見はほとんど何も喋りはしない。
貴族の子女の嗜みというやつだ。
これが場を取り仕切る女主人ともなれば機転の利いた会話が必要とされるのだが、カチェは未婚の息女なのでむしろ出過ぎたことが許されない。
アベルにはカチェの気持ちが伝わってきた。
うるさいなぁ、早く終わらないかなぁ、そう思っているはずだった……。
~~~~~~~~
カチェは十五歳になった。
その容姿の優れたことはハイワンド騎士団ばかりか城下町でも噂になるほどだった。
澄んだ瞳、溌剌とした態度、全身から才気と意思の力を感じさせる。
そうとなれば人々は、ハイワンドの姫様はいったいどこの誰と婚姻なさるのだろうかと頻りに話題にするのであった。
貴族の世界では、そろそろ婚約をしてもおかしくない年齢である。
秋の深まる晴れた日。
カチェは珍しく兄のロペスに呼ばれた。
執務室に行くと、家令のケイファードにモーンケもいる。
それから以前、見たことのある男性がいたのだが自分とは関係の無いことと考えた。
カチェは、はっきり言って二人の兄と上手く行っていない。
母親が違う上に年齢も離れているので子供の頃から相手にされていない。
考え方や行動など、どこにも一致するところが無く、兄妹で意気投合したことなど皆無であった。
だから家令のケイファードの方がよほど信頼できるというものだった。
カチェは異変に気付く。
そのケイファードの顔を見ると、どうした訳か表情が苦痛に歪んでいた。
いつでも落ち着いていて、どんな難事も謹厳実直に対応する家令にしては普段ないことである。
「ロペス兄様。用事とはどうした事でしょうか?」
「良い話だ。縁談だ」
「お兄様の?」
「お前だ!」
「わたくしのっ?!」
思いもよらない答えであった。
心臓が太鼓のようにバクバクと音を立てているようだ。
相手は誰だろう?
なぜかアベルの顔が浮かんだ。
いい顔立ちなのにどことなく暗鬱な視線をしている、あいつ……。
「お相手は、こちらにおわすブールマルト子爵殿だ。ハイワンド家は随分と世話になっている。此度、縁戚を結べば、さらに家のためになるだろう」
兄の声は、どこか遠いところから響いて来た悪霊の声のようであった。
ブールマルトは厚い脂肪に覆われた顔を崩し、爽やかとは程遠い様子で笑っている。
本人は会心の笑顔のつもりなのかもしれないが、カチェには得体の知れない怪物の蠢きに見えた。
カチェは眩暈を感じる。
足元が砂のように柔らかく崩れて、宙に浮いている気分だ。
「お、お兄様……父様と母様は、なんと?」
「ブールマルト子爵殿は、もともとケープ商業都市の大商人であられた御家。先代のブールマルト様は皇帝国に金銭で尽くされて爵位を得られたお方である。ブールマルト子爵殿は各地の荘園経営と商いで、年に金貨一万枚以上の収入がある……」
「そんな話しは聞いておりません! 父様と母様は!」
「父上は戦で忙しい。帰還できぬとのことだ。俺が決めて良いそうだ。それからお前の母とは連絡が取れない」
「嘘よっ!」
思わずカチェは嘘であると叫んだが、実際そうではないと思った。
母ティファニアからは半年に一通でも手紙があればいい方。
父ベルルの愛妾である母親はハイワンド家と確執があり、現在のところ距離をとる態度に徹していた。
そして、肝心の父は娘に無関心……。
カチェは自分の味方など、どこにもいないということを知ってしまった。
こんなことになるとは想像もしなかった。
何だか急に世界が変貌して、恐ろしい力を加えてくる。
身一つで放り出されるとはこうしたことか……。
あまりのことで頭が上手く働かなかった。
ブールマルト子爵は動揺するカチェを楽しそうに見ていた。
なんと美しい少女だろうと激しい情欲を感じる。
それに我の強さが現れた視線も堪らない。
この溌溂とした、何も知らない気品ある体を好きにできるなら金貨の数千枚も惜しくなかった。
それに金はやるのではなく貸すものだ。担保を取っておけば、損はない。
こんな素晴らしい肉体が手に入り、いずれは金も回収できる。
美味しい話しだ。
笑いが止まらない。
今から、このカチェという娘をどういう風に躾けるか、そう考えるだけで背筋がぞくぞくした。
魔力による身体強化が出来るそうだが足枷、手錠をしておけば身動きも取れないだろう。四肢を全開にして、壁にはりつけて……。
それから立ち上がるのを禁ずるのも面白そうだ。
四つん這いの姿勢でいることしか許さない……。
駄目だ。
大声で笑いそうになる。
さすがにそれはマズい……。
カチェが返事も出来ないで固まっているとモーンケが陰湿な、にやけた顔をしながら言った。
「なに、歳の差なんかむしろ好ましくなるさ。同い年の付き合いなんか
そうしてロペスが有無を言わせず続ける。
「庭を二人で散歩してきなさい。語り合えば分かることだろう。いいな。カチェ。絶対に無礼のないようにな」
カチェはブールマルト子爵にエスコートされて、執務室を出る。
ふらふらと意識も定かでないまま本城から出た後は広大な城壁内の庭を歩く。
隣のブールマルト子爵は油でも塗ってあるのかと思うほど良く回る舌を全開にさせている。
物とか金の話しが多かった。
美術品は何を持っているとか、本貫地のケープ商業都市はどれだけ発展しているとか、邸宅はこの城と同じぐらいだとか、使用人は二百人からいるなどなど……。
そうした会話のどれもがカチェの心に響かない。
カチェの心に燃え盛るのは、剣と魔法への探求心だった。
自分を鍛えぬいて強くなり、危険な魔獣や賊から領民を守るのだ。
思い描いていたその未来は消え失せてしまうのだろうか?
馬を駆けさせ草原を旅して、星空を天幕に寝る生活は愚かな妄想だったのだろうか。
もしかするとそれは身分に見合わない目標だったとしても、せめて小さな夢ぐらいは実現してもいいはずだ。
立派で厳めしいようでいて、実際は狭く小さな城から飛び出し、広い外の世界へ出る。
道行く人々を見たり、思いつくまま変な物を買ってみたり……。
アベルと遊んだり……。
カチェは虚ろな目でブールマルト子爵を見る。
年齢は知らないが、四十歳ぐらいに見える。
父親と変わらない年代だ……。
政略結婚。
貴族の世界では常識と耳にしてはいたが、こうして現実になると悪い夢のようだった。
ブールマルト子爵は手を握ってきた。
普段なら触れさせもしないところだが気力が尽きていた。
汗ばんだ、にちゃにちゃした感触だった。
この脂肪の塊のような男に包まれて、どこぞの屋敷で体だけを求められる日々が十年は続くのだろうか……。
風景が色を失ってきたとき、前から近づいてくる人物に気が付く。
それはアベルとイースだった。
アベルは目がいい。
カチェが誰かと歩いてくるのを逸早く見つけていた。
驚いた。
なんと男と手を繋いでいる。
いつか見た、太った中年だ。
中年にもウォルターのように渋くて飛び切りイイ男はいるけれど、あれは違った。
脂肪と欲の混合物みたいな男。
――カチェ、なんであんなのと手を繋いでいるんだ……。
普段なら生き生きと輝き、絶えず好奇心を湛えたカチェの美しい紫の瞳が、ありとあらゆる屈辱によって力を奪われたようになっている。
ところがアベルの姿を確認するや、見る見るうちに生気を取り戻して、やがて瞳が爛々と光を宿してきた。
アベルはカチェの体内で魔力というべきか、得体の知れないパワーが猛烈な火山のように噴き出したのを感じた。
「アベル!」
カチェは叫んだ。
理由も分からない。
ただ声が出る。
カチェは油の塊みたいなブールマルト子爵の手を振り払った。
アベルは驚いた顔でこちらを見ていた。
一瞬で悟った。
隣にいて欲しいのは、やっぱりあいつだ。
「がああぁぁぁあ!」
カチェは絶叫と共にブールマルト子爵の顔面に拳を叩き込んだ。
魔力による身体強化が極まった一撃で、しかも不意打ち。
拳が頬に、めりこんだ。
なすすべもなくブールマルト子爵は仰向けにぶっ倒れる。
倒れた子爵の口から黄色い歯が折れてバラバラと砕け落ちた。
「誰の手を握っているのですか?! 子爵風情がっ! 無礼者めっ! このブタッ!」
蹴り、踏みつけ、馬乗りになってさらに拳を叩きつける。
一撃一撃が鼻をへし折り、顔面を変形させた。
ブシャ! ベシャ! という湿った重たい打撃音が響く。
「豚と言えば豚に失礼でしたわっ! ケモノ以下の油虫めがっ!」
ブールマルト子爵は泣きながら呻いている。
アベルは事情も分からずにカチェを羽交い絞めにするしかない。
「カチェ! 落ち着け! 殿中でござるぞっ!」
「で、殿中? ふざけないでよっ! アベル! 助けて! わたくしを助けてっ!」
「いや、落ち着けよ……。殺しそうになっているのはお前だよ」
「わたくし、この男と結婚させられそうになっているのです!」
「えっ……」
これにはさすがにアベルも絶句するしかなかった。
あまりにも突飛な出来事なので何と言えば分からない。
どうやら本当のことらしくカチェは縋るような顔をしていた。
こんな表情、初めて見た。
アベルはとにかくまずは熟練の拳闘士がやるようなマウントポジションを止めさせる。
カチェの拳は返り血で真っ赤に染まっていた。
アベルは背筋を凍らせる。
アベルが改めて見るとブールマルト子爵は……酷い有様だ。
すぐに死にはしないだろうけれど、やっぱり放ってはおけない。
急いで強力な魔力を込めて、傷を癒してやる。
折れた鼻や、砕けた頬骨は修復できた。
ただし、折れて抜け落ちた永久歯を治す魔術は、まだ習得していないから歯はどうにもならなかった。
ブールマルト子爵は精神的なショックが大きいらしく、怪我は治ったけれど腰を抜かしている。
暇を与えずアベルは優しく説得する。
確かに品の無い男ではあるが顔面を潰されるほどのことでもない。
何とか丸め込み、隠蔽しなくてはならない。
「なぁ、子爵様だっけ? あんたさぁ、こんなの嫁にしたら殺されるか逆に奴隷にされるよ。ちょっと綺麗な顔や体をしているから欲しくなったかもしれんけれど、お嫁にするなら性格重視だよ。あんたなら、なんとでもなるだろ? わざわざ、これにすることないから! ねっ!」
ブールマルト子爵は、がくがくと首を振った。
心に余裕が出来たのか走り去っていく。
カチェが、はぁはぁと肩で荒く息をしていた。
流麗な眉目がいつも以上に吊り上がっている。
「よ、よかったですね。もう諦めたに決まってますよ、あれは。特殊な趣味をお持ちの変態紳士さんでなければ……」
カチェが思いつめた表情で言う。
「もう、これでもだめなら……やるしかない」
アベルは呟きの真意を察する。
やるっていうのは「殺る」っていう意味でしかない。純粋に。
「貴族も大変だ、ほんとに。僕、貴族じゃなくて良かった。平民も悪いもんじゃない」
「アベル! 正気なの!? 他人ごとじゃないでしょう! あんただってハイワンドの人間でしょう! わたくしと一緒に戦うのですよっ!」
カチェは歯を食い縛り、額に青筋を立てている。
まさに決戦に臨む若大将の気迫だ。
もっとも、アベルとしてはかなり付き合いたくない戦だが。
「ま、まあ。ありゃ、あんまりですよね……。酷すぎる。確かに」
とりあえずアベルは血で汚れたカチェの拳を洗ってやるとした。
水魔法の清水生成を唱えて、己の掌から水を出しカチェの手に掛けて擦る。
「もっと良く洗って!」
鋭い声が飛ぶ。
「は、はいっ!」
長くて、しなやかなカチェの指を丁寧に一本一本洗う。
返り血がベッタリと付いているから、なかなか落ちない。
アベルがカチェの顔を見たら、なんか頬を赤くさせていた。
激しい闘争後の興奮が冷めていないのだろうか……。
カチェはアベルが丹念に自分の手を洗ってくれているのを見ていると、妙な心地よさがあった。
顔というか体全体がちょっと熱くなってきた。
こういうのもいいかもしれない……。
結構、長い時間に渡りアベルが洗って、やっとカチェは納得した。
そうしたら今度はこんなことを言い出した。
「お城に帰りたくない……アベル。何とかして」
アベルは眉根を寄せる。
「え~。困るなぁ。どうしようもないですよ」
「できるでしょ! アベルならできるでしょ‼」
天まで響くような絶叫である。
紫の瞳が刺してくるようだ。
アベルは首を振りながら溜め息。
一連の騒ぎを静かに見ていたイースに聞いた。
「イース様……とりあえず部屋に案内していいですか?」
「好きにしろ」
イースは平然としていていつもの態度だった。
こういうところは全く頼もしい。
気の小さい上司だったら警戒して責任から逃げ出してしまうことだろう。
住処の襤褸屋まで行くと入り口のところでワルトが大の字になって寝ている。気が付いて立ち上がる。
「ご主人様。おかえりなさいだっち! ご主人様のご主人様も、こんにちはだっち」
「あなたはアベルの奴隷。獣人のワルトだっけ? あなたはいいわね、気が楽で」
「毎日楽しいずら!」
カチェは本当に羨ましそうな顔をしていた。
「ねぇ。ワルトってなんでそんなに楽しいの?」
「さぁ~、なんでっちかねぇ。人間族みたいにあれこれ考えないからかも、だっちねぇ」
「え? どうして。考えないほうが不安でしょ」
「考えると昼が夜になったりするんだっちか? 考えると日照りは来ないんだっちか? ほっとくだけで勝手に変わっていくだっちよ」
「…………」
アベルがカチェの表情を見ると何かを発見したような顔をしていた……。
椅子がないから挟み箱の上に布を敷いて、その上にカチェを座らせる。
取り合えず落ち着かせる必要があると考えてアベルは器に魔法で水を注ぎ、加熱して、薬草の葉を入れる。
漉しとって、お茶の出来上がりだ。
カチェに出してやる。
「これは飲むと気分が和らぐ茶です」
それは本当の話で、アイラから教わった精神安定の効能がある薬草の一種だった。
アベルもたまに飲むのだ。
たとえば戦闘が終わって気が高ぶっている時などに……。
カチェはおとなしくお茶を飲み切った。
「これからどうしましょう。ロペス兄様や父様に叱られるわ」
ついぞない事だがカチェは疲れ切っていて元気がない。
こういう姿を見てしまえばアベルは何か力になってやりたくなる。
「とりあえず、バース伯爵様に手紙を書いたらどうでしょう。あんまりにも性格も合わないし、ちょっとムリって。それに金貨欲しさに私を売るのかとか……書きようがありますよ。子爵の件だけでも無かったことにしてもらうのです。あの伯爵様。怖い顔していますけれど、カチェ様の頼みは聞いてくれる気がします。だいたい伯爵様の推薦もなしにロペス様が勝手に決めるのはいけないことのはずです」
アベルは確信があるわけではなかったが、思いつくのはそれぐらいだった。
だが、その案を聞いたカチェの顔が、ぱっと晴れたように明るくなった。
「お爺様! 名案です。あんまりにも急ですもの! きっとわたくしの立場を分かってくださるわ。さすがアベルねっ。相談してよかった!」
――相談だと? これはトラブル解決の算段だろうがよ。
相談ってのは拳を使う前にやることなのに……。
まぁ、ブラック企業でムチャ振りは普通だしな。
「とにかく、お手紙はカチェ様が書いてください。理屈で書くのですよ。感情論だけではいけませんよ」
「分かっているわよ! あの子爵がどれだけゲスで武門の誉れ高きハイワンドに不釣り合いか筆を尽くして説明します。筆記用具と紙を貸して!」
「え? ここで書くのですか?」
「何度言わせるの! 今日はお城に帰りたくないっ」
「っていうか、夜はどこで寝るのですか」
「ここでしょ!」
「いや、あのさ……」
「主が騎士の部屋にいて、何か悪いの」
「イース様」
「確かに主家の方が騎士の住処を来訪するのは常識に適っているな」
アベルは黙った。
もうなるようになればいい。
知ったことではない。
そうしていると夕方ぐらいに儀典長騎士スタルフォンと家令のケイファードが訪ねて来た。
アベルはさすがに驚く。
「よくここが分かりましたね」
「カチェ様が行くところなど他にないであろう」
そう言うあくまで冷静なケイファード。
どうやら、彼もこの悲惨な状況を穏便に収拾しようと考えているらしい。
「あ、あの。カチェ様のこと今回だけは許してあげませんか」
堅物のはずのスタルフォンが頷いた。
「わしもケイファード殿から事情は聞いておる。あまりに酷な縁談。わしらは共にロペス様には反対を進言しているところだ。もっともロペス様も頑固な性格をなされている。なかなか直ぐには理解がいただけぬ」
「ケイファード様。ところで……あの何とか子爵さん、どうされました?」
「慌ててお帰りになりました。融資の話は流れますかな。何があったのでしょう?」
「いやぁ……僕にも何が何やら」
アベルは馬乗り殴打事件のことは黙っていることにした。
何もかも表に出せばいいというものではない……。
その後、ロペスが怒っているから今日はイースの部屋に居てよいという許可がスタルフォンから出たので、本当にお泊りになってしまった。
色々あったが腹が減ってきたのでアベルたちは食堂に行く。
イースの指定席、壁際のテーブルに椅子を一つ持ってきて、三人で座る。
ちょっと狭い。
居合わせた騎士団員たちは異様な組み合わせなので興味津々で見てきた。
今日の夕食メニューは黒パンに、チーズ入り雑穀の粥、塩漬け豚肉を焼いたものと野菜。塩味の玉葱スープ。
黒パンは顎が疲れるほど硬くて酸味がある。
よってスープに漬けて、ふやかしてから食べるのが習慣になっている。
伯爵家のような上流貴族は普通、柔らかくて口当たりの良い白パンを食べるものだ。
だが、カチェは美味そうに黒パンに齧りついていた。
「けっこう美味しいわ!」
「それ、硬いでしょう。スープに入れて食べると良いですよ」
「知っているわ。人がやっているのを見たことがあります」
カチェは楽しそうにパンをスープに漬けて食べ出した。
この前の屋台のときもそうだが、食べ物には好き嫌いがないみたいだ。
どうした訳かカチェは何か、やたらと機嫌がいい。
さっきまでは荒れに荒れていたのに。
ご飯を食べ終わったら部屋に戻る。
歯を磨いて、体を拭いて、あとは寝るだけだ。
当然なのだが、カチェが体を拭いている間はアベルは部屋の外に出ているしかない。
「イース。背中を拭いてください」
「はい。カチェ様」
「今日は、いつもの何倍も体が汚れた気分です……よく拭いてください」
「はい」
そんな声が中から聞こえた。
声だけでも、どうにも興奮してしまう。
ピンク色の妄想がアベルの脳内に生まれるしかない。
――イースのおっぱいは見たことがある。
本当に綺麗だったな。
アイラのもある。
アイラのは滅茶苦茶に大きいうえに形も素晴らしい。
シャーレも混浴のときにあった。将来性……。
カチェのは、まだない。
何色だろう……?
アベルは頭を振った。
いけないことを考えてしまった。
――あれでも一応、従姉だし。
しかも、主だし。
万が一にでも触ったりしたら顔の骨を折られる程度では済まない。
死罪も、ありうるか……?
寒気のしたアベルは、そっと扉から離れた。
ワルトの隣に座って、シッポをいじくったりする。
「ご主人さま!」
ワルトが仰向けになって、服従の証としてお腹を見せる。
でも狼人だから鋼のような筋肉がみっしりついた毛だらけの胸が見えて、あんまり可愛くない。
触ってみると、物凄く硬かった。
「こいつので我慢しておかないと殺されるかもわからんね……」
体を洗ったカチェは寝るまでの間、アベルと色々な会話する。
苦痛な授業とかカザルス先生の発明のこととか。
彼が開発を進めている飛行魔道具はいよいよ実現に近づいているらしい。
模型を飛行させることには成功したと聞く。
「ねぇ。アベルの魔光の色って綺麗だわ」
夜だからアベルが発現させていた。
そういえば、カチェの前で使うのは初めてだった。
魔光の発色は時として本人の魔力の質が出ると言われている。
魔光は多くの場合、青白い光が出る。
だが、アベルの魔光は紫だった。しかも、ときどき色が変わる。
どこか気品のある光だった。
「なんとなくカチェ様の瞳と色が似ているかもしれないですね」
アベルは別に深い意味があって言ったわけではなかった。
だが、カチェは何故か顔を赤くさせた。
他愛もない会話で夜が更けていく。
「ねぇ。手を貸して」
「はい?」
アベルは手を差し出すとカチェが握ってきた。
「あんなのが最初の相手じゃ……嫌だから。これで無かったことに……するわ」
――そういえば俺も女の子の手を握るのは初めてかな……。
イースの手なんか握ったことないし。
抱き付かれていたことはあったけれどな。
主と騎士が寝台へ横になった。
アベルは床の上の藁袋で眠りにつく。
古びた部屋なのに二人も女の子がいると大輪の花が咲いたような気分になって、よく寝られた。
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