高みプロジェクト

シッダールタ

第1話 脱棒宣言

 ここ数日、俺は棒になっていた。布団の上で、ただ真っ直ぐに。今日は朝の7時頃に起きたが、そこから何をしたか全く思い出せない。いや、きっと何もしなかったのだ。思い出せるのは棒だったことだけである。

 別に俺はカフカ的な物語を書きたいわけではない。棒から脱却しようと奮い立ち、筆を執ることにしたのだ。

 

 そもそも何故俺は棒になってしまったのか。きっかけはPCの故障である。半年ほど前にメインPCを失い、つい先日サブPCを失った(と言っても、完全に使えなくなったわけではないが省略)。これにより、インターネットに依存していた俺はとうとう「暇だ」と自覚したのだ。

 無職をやっていると、よく「普段何してるの? 暇じゃない?」と聞かれる。まあ「普段何してるの?」は働いていても会話のとっかかりとしてよく聞かれる質問だが、無職だとそこに「暇じゃない?」が追加されるのだ。で、その際俺は「人生について考えるのに忙しい」とか「無限の時間でも消化しきれないほど面白いモノがたくさんある」とか言って、ウケを狙いつつ、同時に事実でもある回答をしている。ということにして今までやってきたが、やっぱりこれは俺の人生にとって事実ではない。確かに俺は人生について考えることもあるが、そんなの1日の内精々30分かそこら、長くても1時間程度なわけで、1日のほとんどはネットサーフィンなりビデオゲームなり、今であれば棒になって過ごしているのだ。消化に関しても、俺は1週間前に享受したであろう何かを全く覚えてないし、もっと遡っても、自分の血肉となっているモノは、全くとは言わないが、ほとんど無い。結局、得ているのは刹那的な快楽ばかりだ。(もちろんそれ自体は悪いことではない。俺の人生にとって、俺がそれを望んでいないことが問題なのだ)

 俺がこう答えるのは、もちろん「ちょっと面白いこと言ってやろう」という気持ちもあるのだが“無職であっても暇ではない、俺は自らの意思で無職を選択している”という見栄が多分に含まれている。俺はお前らより下というわけではないんだぞという俺のプライドなのだ。

 2年間この主張を通してきたが、いい加減認めなければならない。俺は暇だ。社会人が労働により金を得ている間、俺は時間を持て余した。その時間を使って、金に勝るとも劣らない何かを得ることはできなかったのだ。


 一応言っておくが、俺は無職を下げたい訳ではない。俺も全く何も得なかったわけではなく、例えば心の余裕なんかは無職だからこそ身につけられたモノだと思っている。また、俺にとっての労働の認識は、時間をドブに捨てて金を得る行為であり、金があるならば無職の方が良いに決まっているのだ。俺の失敗と後悔は、無職になったことではなく、無職を上手くできなかった事である。無職は難しいのだ。


 まあそんなこんなで俺は暇だと自覚して、何もやる気が起きずに棒になっていたわけだが、いやいや、棒になるな! という話をする。


 これは俺が無職としての時間を生かして得た財産だが、フロイトの解説書の生の欲動と死の欲動の話を読んだときに、死というものを強く思ったのだ(本ぐらい働いてても読めるとか言わないで下さい。僕はできないんです)。俺は今も死へと向かっているのである。もし科学のなんやらかんやらで死ななくなったとしたら考える時間はいっぱいあるわけだから、とりあえず死ぬ場合のことを考えておくべきで、俺は死ぬのだ! それも、そう遠くない未来に!

 何を隠そう俺は現在24歳なわけで、それってつまり人生の3分の1ほどをすでに終えているわけだ。歳を取れば取るほど1年が短くなるという通説もあるし、なんとなく俺もそんな気がしてるので、その辺まで考慮すれば、もう人生の半分を終えているかもしれない。いつの間にか、もう若くないのだ。でも、だからこそ、俺は動き出さなくてはならない。

 と思ったことを今日ようやく引っ張り出してきた。


 TAKUYA無限大は何かを始めるのに遅すぎるなんて事はないと言ってくれる。俺たちはその言葉を正しく受け取らなければならない。当たり前だが、この言葉は行動を先送りにすることを肯定する言葉ではない。何かと理由をつけて行動できない俺たちの背中を押す言葉なのだ。TAKUYA無限大が20歳を越えてから始めたピアノでTAKUYA無限大が作曲した歌を聴いた後でTAKUYA無限大が言った言葉だからこそ価値があるのだ。その背景があってこその言葉なのだ。字面だけを追って、「でも俺はもうポスト寺田心にはなれないし」などという話ではない。


 俺は何故か禁欲的な生活をしており、修道僧に似てるなと思うのだが、彼らと決定的に違うのは、俺は死後の世界やら魂やらをあまり信じていないのだ。これは俺の想像だが、彼らはそれを信じているからこそ、今の人生を謂わば捨てているわけだ。実際罪を犯さないためには何もしないのが一番な気はするし、彼らの目的と行動は一致しているように思う。では、俺の目的は何なのだ? 俺は何のために今の人生を捨て、真っ直ぐ死へと向かっているのだろうか? 何も無いのだ。何の考えも無く、俺はただ死へと向かっているのだ。それが楽であるから。

 人は死に向かっている。なら何もしなければ、そのまま流れて行けて楽だろう。でも、俺は生を受けたのだ。グリフィスみたいに、生まれてしまったから仕方なく生きるなんて俺にはできないィィィって感じの気概も持っているのだ。ならば、生きねば!

 棒とは死そのものである。生きる意思があるのなら、棒になっていてはいけないのだ。

 

 俺は生きることを決めたので、目標と手段を設定する。

 まず俺の大目標は、面白い小説を書くことだ。これは人生を賭けるに値する目標だと現時点での俺は思っている。

 そのための小目標として、とにかく文字を書く、アイデアのアンテナを張る、努力を覚える、この三つに取り組もうと思う。

 俺はついつい「アイデアが浮かばないよ~ん」などと思ってしまうが、アイデアが浮かばないなんて事は本来あってはならないはずだ。アイデアが無いとはこの世界に不満が無いということだが、そんなことあり得るだろうか。この世界では美少女は空から降ってこないし、魔法も使えない。なのにもかかわらず満足できるなんてあり得ないだろう。きっっとアイデアはぼんやりと持っているが、それをアウトプットする能力が無いのだ。それは文章力が無かったり、アイデアの質が悪かったり、そもそも努力ができなかったり。これらの問題を乗り越えれば、少なくとも小説を書くことはできるはずだ。小説が書けるようになれば、大目標へと近づくことができる。

 面白い小説を書くための三つの小目標に取り組む事が、俺の高みプロジェクトである。


 高みプロジェクトに挑む際、必ずやってはいけないことがある。それは、消すことだ。俺は一度書いてしまった文章を消してはならない。非人道的な文言や、ヘイトスピーチであっても消してはならない。そもそも書くべきじゃないという前提を俺は持っているし、その上で書くというのなら、きっとそのときの俺には意味のあるメッセージなのだ。俺は年末にTwitterを整理してしまい、非常に後悔している。「うんちぶりぶりw」みたいな下らないツイートを全て削除してしまったのだ。確かに下らないし、恥ずかしいが、そのときの俺にはきっと何かしらの意味があったのだ。意味が無いことを書きたいという意味すら。

 今書いているこの文章も絶対に消してはならない。俺の今までの経験上、この文章を最後に失踪する可能性は極めて高いが、消してはならないのだ。確かに恥ずかしい。3000字も使ってやる気を表明しておいて、ああ恥ずかしい! でも、それはそれで一つの笑いなのだ。書き続けることができれば、少なくとも努力を覚えるという目標は達成できるし、達成出来なくても、恥と引き替えに一つの笑いを得られる(達成しろたわけ!)。行動することは長い目で見ると大抵プラスになると現時点での俺は信じている。くそつまらんYoutuber達も、行動でき、何かを発信できるというただその点に置いてだけは尊敬に値するのだ。おっと、削除します。


 俺は今、考えるための頭を得て、動き出すための手足を得た。後は貪欲に、肥えるのみ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る