秋水三尺露を払う

大月クマ

その名は……〝秋水〟

 1945年1月8日――


 この日、海軍312航空隊の犬塚大尉の手によって、ある機体が初飛行に成功した。

 真紅に塗装されたその機体は、のちに〝秋水〟と呼ばれる事となる。

 まだエンジンや武装はない『重滑空機』と呼ばれる実験機だ。

 水平尾翼のない独特な形状の機体は、陸軍、海軍、民間共に初めての試みだった。

 共通の敵。空高く、高度1万メートル以上を飛来する、銀色のシロナガスクジラ……米軍のB-29の邀撃のために、共同で開発することになった機体だ。


「やりましたね。犬塚さん」


 もう一人のテストパイロットである、結城大尉が駆け寄ってきた。


「ありがとう。でも、これからです」


 そう言って彼は機体を撫でた。

 ロケットモーターで機体を一気に押し上げ、空高く飛来するB-29に強烈な一撃を食らわす。

 そのための〝秋水〟だ。

 元々は、ドイツ人が考え出した。それを我々日本人が取り入れることとなったが、ドイツから届いた設計図は一部しか無かった。

 ほぼ手探りで作り上げた機体……だが、まだ肝心な所が欠けている。


 エンジンだ。


 高度1万メートル以上へ駆け上がるための、ロケットエンジンが完成していない。

 正直言って遅れている。

 B-29の爆撃による影響ではない。先月起きた地震のためだ。

 エンジンは名古屋で開発していたのだが、地震のために壊滅してしまった。しかし、開発チームは震災を生き延び、何とか横須賀市追浜のくうしようで開発続けるめどがついた。


(早くこの機体を完成させねばならない)


 犬塚大尉は空を見上げた。雲ひとつ無い青空だった。



 1945年4月11日――


 空技廠会議で、海軍312空司令柴田大佐の発言で、一同が茫然としてしまった。


「神のお告げにより〝秋水〟の初飛行を4月22日に横須賀地区で行う」


 この司令にはある噂があった。


 とある新興宗教にはまっていると……。


 ついに私情を持ち込み始めた。

 そして〝秋水〟試験飛行を、厚木基地から追浜基地へ移動すると言い始めた。


「追浜基地は狭いです。何かあったときは損害を周辺に被る場合があります」

「ならば、〝秋水〟を小さくすればいい」

「今から設計変更は……」

「お告げは絶対だ!」


 そう言って一方的に決めてしまった。

 だが、誰かがこっそり上層部にそのことを伝えたようだ。

 陸軍に先を越されます、と添えて……。


 数日後、柴田大佐は栄転と言うなのもとに別の部署に回された。

 後任は、立花大佐が着任した。


「私には、まだよく分からないので、皆さんにお任せします」


 人が良さそうな立花大佐は、技術陣……特に、三菱側の要求は無条件に許可した。

 ただ、エンジンの7分間の全力運転を可能にすること、と目標が定められた。

 7分あれば、B-29の頭上を取れる、と思われたからだ。



 1945年7月7日――


 試作初号機が出来上がった。

 事前に試験飛行が計画ができており、それに合わせる形になってしまった。しかし、問題を抱えたままだ。

 これはどうしようもない事だった。

 今の日本の冶金技術では、どうしても高温に耐える金属が出来なかったのだ。そして、目標の7分間の全力運転が、不可能と分かった。

 そのために出された結論が、ロケットエンジンを二基搭載する、というモノだ。

 一基の全力運転時間は、最大で3分強。それを二基積めばいいのでは、と場当たり的な対応となってしまった。

 今日の試験飛行では、一番〝秋水〟を知っている犬塚大尉が選ばれた。


 まだ問題があるので、延期してほしい。


 技術班から今日の試験飛行は、中止を提案された。

 だが、前任の柴田大佐が、上級将校が列席するように手はずを整えてしまっていたらしい。

 立花大佐では止めることが出来ずに、予定通りこの日、試験飛行を実施することとなった。


「では、行って参ります」


 犬塚大尉は皆に敬礼をする。まるで最後の別れのような言い方だ。

 返礼を受けて、敬礼を解くと笑顔を見せた。


 第一エンジンが轟音を上げて、機体を走らせる。

 車輪は飛び上がると、軽量化のために落下するようになっていた。着陸は舗装されていない滑走路横の、原っぱへの胴体着陸を予定している。

 機首を上げ、〝秋水〟は飛び上がった。

 エンジンは快調に火を噴き、機体は雲に向かって突き進んだ。

 皆が双眼鏡を手にして、突き上がる〝秋水〟を見つめている。

 まもなく、限界時間の3分だ。

 第一エンジンの火が、小さくなっていくのが見える。

 そろそろ第二エンジンに点火しなければ……。


「燃料の切り替えがうまくいっていないのか!」


 誰かがそう叫んだ。

 第二エンジンが点火してない。


(犬塚さんが、そんな初歩的なミスをするのか!)


 結城大尉は、双眼鏡を握りしめるしか無かった。


 〝秋水〟の試作初号機は、そのまま失速してしまった。

 クルクルと機体が回り始める。だが、元々ロケットモーターの燃料が切れたら、グライダーのように滑空するようになっていたはずだ。


「ダメだ! 酸化剤が漏れている」


 ロケットエンジンは、過酸化水素を酸化剤にしてメタノールなどを混ぜて燃焼させている。

 見ると、機体を回転させているのは、その過酸化水素が噴射しているためだ。

 機体の回転は止まらず、そのまま墜落してしまった。


「救助急げ!」


 機体は白煙を上げている。残留した過酸化水素が吹き出しているのだろう。

 消防車による放水と同時に、整備分隊士たちが犬塚大尉を操縦席から救出した。だが、彼はすでに亡くなっていた。恐らく劇物である燃料を吸い込んだ事が原因だろう。


 この事故により〝秋水〟の飛行は……いや、開発自体の中止が命令された。

 試作2号機が完成間近であったが、出席していた上級将校が、疑問を抱いたらしい。

 この〝秋水〟開発のために設立された海軍312航空隊も、事実上の活動停止命令が下された。



 1945年8月9日――


 海軍312航空隊の解体は正式に決定された。

 とはいっても、航空隊の解体はそんなにすぐに終わるモノではない。

 それに次の転属先が決まっていない者が多かった。


「大変だ! 今度は長崎がやられた!」


 そう言って、宿舎に通信士官が飛び込んできた。

 長崎、と聞いて結城大尉はいても立ってもいられなくなった。


「また新型爆弾か!?」


 まだ前日、広島が新型爆弾でやられたと聞かされたばかりだ。

 情報が錯綜していて、広島がどうなったか聞かされていない。


「分からない。恐らくそうだ」

「なんで! 長崎なんだ……」


 長崎には結城大尉の兄夫婦がいる。彼等は唯一の肉親と言っていい。

 一刻も早く、長崎へ行って兄たちを探したい。

 陸軍も海軍も救助隊が出されているそうだ。

 自分もそれに参加したい。だが、それを立花大佐が止めた。

 その日は、それで終わった。



 1945年8月12日――


 ある命令が、各地に下りていた。

 単独、または少数のB-29の編隊を発見次第、報告をあげること。

 それが『新型爆弾』を搭載している可能性があるのだと……。

 そんな時、三宅島の基地が、少数の編隊が北上していることを発見した。


 ひょっとしたら、新型爆弾を積んだ奴らかも知れない。


 首都圏を守る基地に命令が下る。

 とはいっても、奴らに手が届くまで登れる機体が、何機いるのか……。


「こんな時に〝秋水〟があれば……」


 結城大尉は、自分たちが何も出来ないことを悔やんだ。

 あったとしても〝秋水〟には、武装はまだ積んでいない。


「大尉、ちょっとよろしいですか?」


 整備分隊士が声をかけてきた。

 その彼に連れられて、格納庫の奥に連れられた。


「何でこんなモノがある!」

「重滑空機にエンジンを取り付けました」


 試作2号機は、陸軍に接収されている。

 ここにあるはずの無い〝秋水〟がそこにはあったのだ。


「貴様達、何をやっている!」


 立花大佐がそこに現れていた。


「行かせてください!」

「駄目だ。私情での出撃は認めない。ましてや帰還の望めないモノはなおさらだ」

「自分にはもう親類はいません」

「では、なおさら生きろ!」

「もし新型爆弾を搭載しているのであれば、これしか追いつけません」

「……」

「また自分のような者を出さないためにも、行かせてください!」

「武装が無いのにどうする気だ」

「体当たりします!」

「馬鹿者! 命を粗末にする奴があるか!」

「――長崎で兄が死にました」

「――わたしも、妻子が広島にいた」


 ボソリと立花大佐は、話し出した。


「――試験飛行中に接触したと。偵察だけだ」


 そう言うと、振り返ることも無く格納庫から出て行ってしまった。


 ――


 立花大佐が了解したとはいえ、この飛行は非公式だ。

 滑走路に出るまでが勝負だ。手間取ってはいられない。

 この厚木基地には他の航空隊もいる。それらに止められるかもしれない。


「お世話になりました!」


 結城大尉は操縦席に座ったまま、滑走路に押し出された。

 案の定、滑走路横に数名の兵士が顔を出してきた。

 止められるのでは?

 そう思ったが、帽子を振ってくれている。


「第一エンジン点火!」


 点火と共に、猛烈な加速度で身体がシートに押しつけられる。

 機体は雲に向かって突き進んだ。

 身体が重い。腕を動かすだけでも一苦労だ。


(あと3分で……)


 機体の激しい振動で視界がぶれる。だが、その視界の中でもを認識できた。

 銀色のシロナガスクジラ。


B-29ビーこうだ! ここまで来たぞ! アメリカ野郎!)


 そろそろ第二エンジンに、切り替えねばならない。


 最後の3分間。


 この第二エンジンの燃焼が成功すれば、奴らの頭の上が取れるはずだ。

 もうまもなく、第一エンジンの限界だ。

 続けて第二エンジンの点火作業に取りかかる。


 だが……。


「なぜだ!? なぜ点火しない!」


 手順は間違っていないはずだ。だが、点火してくれない。


「後、もうちょっとで! 後、3分あれば、奴らに届いたものを!」


 操縦席から手を伸ばせば、握りつぶせるほどまで近づいている。

 しかし、〝秋水〟の上昇する力はそこで尽きてしまった。



 1945年8月15日――


 海軍、元312航空隊の面々は終戦を迎えた。

 補充要員が数名訓練中に事故死したが、結成当初の16名は全員生存している。

 彼も含めて……。

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秋水三尺露を払う 大月クマ @smurakam1978

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