岬登(みさきのぼる)は自分の体を真上から見下ろしていた。


横たわっている自分の体は、茶色く汚れている。顔も土色に変わり、やせ細っていた。

腕がだらしなく檻から伸びていて指先は鍵爪のように曲がり、床を引っ掻いたような跡がある。指先は血まみれだったのだろう。今では指先は赤黒く血が固まっている。


檻の中は汚物で汚れ、水の入れ物の中に水は一滴も入っていない。ドッグフードを入れていた入れ物にも何一つ残ってはいなかった。

身につけている衣服も薄汚れ、ズボンは半分ずり下がっていて恥ずかしい状態になっている。


下に見える自分は檻の中に閉じ込められていたのだ。

そうか、俺は死んだのか。

両掌を目の前に向けてみる。血色もよく元気そうに見える。

「そうか、俺はついに死んだんだ」

信じられない出来事が自分の身に起こった。

登は眼下の己の肉体をじいっと眺め、なぜこんな事態に陥ったのかを考えた。


死ぬ数日か、数週間前か、はたまた数ヶ月前からか、己の思考力は働かなくなり、幻覚幻聴が聞こえ始めるようになったのだ。

何が現実で何が夢の内なのか区別がつかなくなっていった。なので、どうして死ななければならなかったのか、理解できない状態だった。


確か、俺は大型犬の子犬を一匹、殺す目的で施設から引き取ってきた。子犬から愛情を持って育てて、これ以上大きくならないところまで育ててからいたぶり殺す予定だった。

今まで愛情いっぱいに育てられた犬は、急に掌を返されたらどんな顔をするか。それが見たかったんだ。だから長い年月、手間暇かけて育ててきた。

そしてついにその日が来た。


最初はいつも通りに散歩に行った。しかし、リードを離すことはなく、近所を一周して戻るだけにした。

犬も不思議そうに俺を見ていたが、もちろん無視した。

エサも一日置きに与えることにして、ストレスがたまってきた頃、散歩もやめた。

次第によく吠えるようになったので蹴り飛ばし、檻に閉じ込めた。そのまま数日放置しておいた。


そんなことを繰り返しやっているうちに犬は順調に元気を失っていった。

檻の鍵を開け、たまにやる少ないエサと水にがっついているところを脅かして虐めた。

ビビる様子が楽しかった。


数ヶ月後、犬は骨と皮ほどに痩せ細り、檻の隅で丸くなってあまり動かなくなった。

エサをやってもにおいを嗅ぐだけで食べない。

随分と時間をかけてきたのにこれかよ。とつまらなく感じていた。


そんなときだった。

更に数日あけて犬の様子を見に行ったときのことだ。この前やったエサは残されたまま、水も飲んでいない。

犬は相変わらず檻の奥で背を向け丸くなって動かなかった。声をかけても何の反応もない。驚かしてもびくともしない。だから俺は檻の鍵を開け、背をかがめて中に入った

犬に触ったとき、まだ温かかった。生きているなら最期の仕上げに入ろうと引きずり出そうとして首を掴んだところで、犬が動いたのだ。


真っ赤になった目で牙を剥き、俺の腕に噛み付いたのだ。食いちぎられると思って悲鳴をあげて制したが無駄だった。犬は俺の足にも噛み付いた。犬の牙から逃げようと蹴ったが犬には届かず、犬が落ち着くのを待っていると、がちゃりと音がした。

犬が飛び出した瞬間に檻のドアが壁に激しくぶつかった。その反動でドアが閉まった拍子に鍵ががちゃりと閉まってしまった。


その鍵は外からしか開けられないように自分で改良したものだった。

手と足からは出血がひどく、血は止めどなく溢れてくる。犬は部屋から飛び出していったままどこへ行ったのかわからない。逃げたに違いない。

家の中に何かがいる気配はまったくなかった。

所詮犬一匹が入れる檻だ。なんとか自力で腕を出せば動かせる。こんな状態を見られるのは恥ずかしい。

スマホを持ってくるべきだった。後悔がつのる。

最悪居間まで行けば電話もあるし、叫べば外を通る人に声が届くだろう。そう簡単に考えていた。

檻に犬を入れたときに犬が嫌がり、檻を力任せに倒して脱出しようとしたことがあった。それをすっかり忘れていたのだ。

だから俺は動かせないように床に檻を固定するべく鉄を打ったのだ。

血の気が引いた。出られない。鍵は玄関に置いてある棚の上だ。

ここから一歩も動けないとなったら誰かが来るまで、助けが来るまでこの中から出られないということだ。


しかもこの部屋は、一番奥。窓も黒く塗りつぶしているしシャッターも閉めてあるから声は完全に聞こえない。

一人暮らしで友達もいない。ここに遊びに来るやつはだれもいないのだ。

家族もとうの昔に死んだ。兄弟もいない。


心臓が張り裂けそうだった。このまま俺はここで朽ち果てるのかもしれない。前に殺した動物たちのように同じ末路を辿るのかもしれない。

そう思えば思うほどに不安は募る。何か鍵をあけられるものがないか探すが、鍵の代わりになりそうなものなど見当たらない。

檻を思い切り揺らして助けを呼んだ。もちろん聞こえはしないが、もしかしたらという期待をこめた。


叫びすぎて喉が渇いたが、水はこの臭い水しかない。飲むのを憚った。

このときはまだなんとかなると思っていた。

しかし、それも何日も持たなかった。


飲まず食わずも三日目になり、さすがに死の恐怖を感じたとき、水を口にした。吐きそうになったが吐くものなど胃の中にはない。

少量のドッグフードを食い、小便を部屋にした。


くそ。あの犬。

無性にイラついてきたのを覚えている。そんなとき、くうんと鳴き声が聞こえた。犬の息遣いも聞こえた。

俺は助かったと思って犬を呼んだ。

嬉しそうに家の中を走り回る足音が聞こえる。

もう一度犬を呼んだ。

犬はドアのすぐそこまで来ていた。

恐る恐る中を覗いた。

尻尾を申し訳なさげに振っている。


「助けてくれ。頼む。鍵を持ってこい」

猫撫で声につられて犬は頭を下げながら辺りの匂いを嗅ぎつつ一歩部屋に入った。

そのとき、犬に恐怖の記憶が蘇ったのだろう。

弾けるように体をビクつかせると悲鳴に近い鳴き声をあげ、後ろ向きに下がり部屋を出て扉を鼻で器用に閉めたのだ。


まさか、嘘だろ。真っ暗になった部屋の中で俺は恐怖に支配された。

そこから地獄が始まった。部屋は暑い。水も食べ物もない。インターホンが鳴ったときには大声を出したが音漏れ防止をつけたこの部屋から声がもれることはない。己を悔やんだ。

気が狂いそうだった。


真っ直ぐに伸ばせない体。窮屈で死にそうだった。立ち上がりたい。両手を思い切り伸ばしたい。しかし、それは叶わない。檻から腕を伸ばし、頭が出ないかと無理やり檻の間に頭を突っ込んでみたりもした。檻はまったくびくともしなかった。己が建てつけた檻を呪った。


そのうちに幻覚をみるようになり、幻聴も聞こえ始め、朦朧とする意識の中、今までに殺した動物たちが土から這い出てきて俺に食らいついてきた。

体から払いのけようと手足をばたつかせたがその力は強すぎる。


ついぞ俺は……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る