三
三
あれはあたしがあの男に拾われてすぐの頃から起こりました。
冬の夜の寒空の中、あたしは公園の植木の下で寒さに震えて丸くなっていたんです。
空気も冷たく気温も低かった。夜の声を聞くとしんしんと雪も降りはじめ、体力気力もすっかり消え失せていました。なんせ何日も飲まず食わずでしたから、子猫のあたしにはもう限界でございました。
ああああ、もうダメだ。ここで死ぬんだ。こんなことならば毛繕いは大変だけど長毛の猫に生まれたかったと己の短毛を恨めしく思って、嘆きながら死を迎えようとしていたときのことでした。
急に、気分を害すほどの生臭さが鼻についたんです。強烈な臭さに飛び跳ねると、そこに犬飼がいたんです。
ちらと犬飼のほうを向くと、当の犬飼は嬉しそうに、でも心配そうにあたしを見下ろしていました。
イラッときました。無駄に体力を使ってしまったんですから。死ぬとわかっていても、一秒でも長く空気を、土のにおいを感じていたかったんです。ですから、犬飼の鼻にパンチをくらわせました。あたしの力強いパンチに犬飼は怯み、逃げ出しました。
あたしは今一度体制を整えて丸くなったのでございます。
太郎と侍は楽しそうに肩を揺らし、昭子は何食わぬ顔で酒を飲み干し、おかわりと太郎にグラスを向ける。太郎はルーティーンワークのように酒を注ぐ。猫夜は話を続けた。
犬飼は飼い犬でした。散歩は決まって夜でした。夜の公園は人がいないのでリードを離され、思い切り走り回れたんです。つかの間自由に走り回って無駄にありあまる体力を消費にかかっていたところでした。あたしは寒さに凍えどこかへ移動する体力も元気もありませんでした。雪が降っている中、降ってくる雪を食おうと口をパクパクさせていたバカ犬を、心の中でただひたすら、さっさと去ればいいのにと思っていました。気づかれないように石のように身体を硬くして目を閉じていました。
ええ、石になったと思い込むことにしたんです。え? なんでかって? そりゃあ犬が石を咥えてどこかへ持っていくなんて今までに聞いたことがありませんでしたから。
無を決め込んでいたんですが、ひょいと首に温かいものを感じて思わず目をあけたら、なんと犬飼があたしを咥えていたんですよ。
まったく困りましたよ。あたしはそのとき石になりきってたんですからねえ。
でも、犬は巨体でしたから、か弱き子猫のあたしは成す術なくただただ成り行きに任せるしかなかったのでございます。
ふと、人の声が聞こえまして、上目遣いに見上げたのが間違いでした。
あたしら猫が上目遣いに見上げたら、可愛いというほかに言葉がないというのを忘れていましてね。ええ、ええ、犬も上目遣いに見ますけどそれはただ媚びてるだけで、張っ倒したくなりますでしょ、ええ、同感です。
それでですね、その人っていうのは男でございました。男の人が目の前にいたんですよ。
それが犬飼の飼い主でした。
後にあたしの飼い主にもなるんですがね、優しそうな顔をした男がそこにいたんです。
あたしら猫というものは魔性ですからして、とりあえず寒さと空腹を凌ぐためにこの男の家に入り込む算段を思いつきました。すんなりいきましたよ。難なく入り込むことに成功したんです。温かいミルクとごはんを貰って、温かい部屋に置いてくれました。
そこで欲が出ましてね、もう二、三日、いや、暖かくなるまでいてやろうと思い始めたんですよ。だって外は雪ですよ。春になるまでいてやってもいいかなとそんな気持ちになっていたんですが、雪が降ったのはその日一日だけで翌朝には綺麗な青空が出てました。
早朝のことでした。
犬があたしを咥えて犬専用の扉の前にポンと置いて、「出て行きなさい」と言ったんです。あたしのかわいさに飼い主が心変わりをするとでも思ったのでしょう。単細胞生物の犬ならではの思考能力にげんなりしましたが、あたしも負けません。
おもいきり鳴いてやりましたよ。
そしたら犬が慌てて「やばい、静かにして」なんて言うもんですからね、更に悲しげに鳴き叫んでやりました。
まるで虐められている感を演出しました。そのくらい簡単なもんでございますよ。
「もうお腹もいっぱいになったでしょう。ご飯も外に置いて置いたから、それを持ってどこかへ行きなさい。家の軒下なら寒さもしのげるし風もない。そういうところへ行きなさい。この家はダメです」なんて悟すように言うんですよ。だから、あたしは犬に、ここを取られるのが嫌なら嫌とそう言えばいい。あたしはここが気に入った。温かいミルクもくれるし温かい家もある。おまえばかりいい思いをするなんてそんなのずるいじゃないか。独り占めしなくてもいいじゃないかって言ってやりました。
あたしたちが騒いでいるのを聞きつけた飼い主が二階から降りてきたんです。足音でわかりました。
犬を懲らしめてやろうと一際悲しげに鳴いてやったんです。
しかし、視界の片隅に捉えた飼い主の顔は昨日のとは打って変わって安らげるものではなかったんです。あたしはあの目に恐怖を感じました。怖くて動けなくなりました。
そうしたら犬があたしを咄嗟に咥えて走って犬用のドアから外へ放り投げたんです。
飼い主が犬を怒鳴る声が聞こえました。
あたしは怖くて一目散に駆け出し、となりの家の庭に潜り込み、なんとか屋根の上へ逃げました。
直後、犬の悲鳴が聞こえたんです。
ふうっとため息をついた猫夜は耳を下げ、目尻も下げ、尻尾もだらんと下げ、何か思いつめるように物思いに静まり、大きなお目目をパチリパチリと二回瞬いた。
昭子が眉を下げて下唇を噛む。両の手をグーパーしながら触りたい気持ちを耐える。
犬飼が心配そうに猫夜を覗き込む。
犬飼の濡れた鼻が自分の近くに寄ってきたのを嗅ぎわけると、ちっと舌打ちをして手で犬飼の顔を押し返して遠ざけた。話を続ける。
あたしを探しに外に出て来た飼い主の手には鎖が握られていて、犬に外に出ろと怒鳴っていました。犬は恐々外へ出ると飼い主の足元に顔をこすりつけました。蹴られないようにする手段でした。
それなのにあの男は犬を蹴り飛ばしたんです。
どんなに巨体でも人の力には敵いません。きゃんきゃん鳴く無抵抗な犬を蹴り飛ばし引きずり回したんです。
気がすむと犬を外に置き去りにして家の中に入って行きました。
あたしは犬が心配になり、屋根から飛び下りようとしたんです。でも犬はあたしがいるのをわかっていて、「ダメだ」と言いました。家の中から飼い主が外を見ている。あたしが来るのをじっと待ってるから来ちゃダメだとそう言ったんです。
あたしはそのときに気づきました。
死にそうになっているあたしを助けてエサを与えてくれた。元気になった。そして死なずにすんだ。でも目的がほかにあるんだと、頭のいいあたしにはピンときました。
だから犬は朝早くにあたしをこの家から追い出そうとしたんです。
そうしないと自分のように虐められる。
あたしのようなか弱き子猫は一瞬で殺されてしまう。
だから、残りのエサを外に置いてくれて、どこかへ行けと言ったんだってわかって、そうなったら今度は犬が心配でどうにもこうにも離れられなくなりました。
「待ってよ猫ちゃん」
昭子が話を遮った。猫夜は昭子を見上げる。その無条件でかわいらしい顔に昭子は「はう」と声を漏らし、両の頬を餅のように膨らました。しかし、咳払いを一つ。気持ちを切り替える。
「さっきからワンちゃんのことを軽くディスってるじゃない。だったらワンちゃんのことには構わずにさっさとどこかへいなくなるのが普通じゃない? だって、その家十分に危ないじゃない。危険だわ。でも猫ちゃんはなんでどこへも行かなかったの? 太郎、お酒」
「はいはい。酒ですね。で、それにちょっと考えりゃ犬だって十分逃げられる時間も体力もあったただろうに」
昭子に酒を注ぎながら太郎も持論を挟んだ。
「そこなんです。あたしたち猫は可愛い生き物なので、ちょっと猫なで声を出せばすぐにエサにありつけます。人間なんてチョロいもんです。でもね、生死を彷徨ったときに助けてくれた恩は絶対に忘れない生き物なんでございますよ。自分の命を助けてくれたということは、この命は一回死んだも同然、我が身を滅ぼしてでも助けてくれた主を助け返すのが猫の恩義ってもんなんです」
犬飼も初めて聞いたようで、これには目をまん丸にして口をあんぐりと開けている。
三人も、これはこれはと唸った。
ただディスっているだけではなかったのだ。猫なりのやり方があったのだ。
「猫夜がそんなことを考えていたなんて今の今まで思わな、」
「頭が回らないからわからなかったんでしょう」
犬飼のことばを猫夜が被せ気味に遮った。
猫なりの照れなのかもしれないと昭子はひっそりと胸の内に思い、猫夜に一度ゆっくりめの瞬きを送る。もちろん軽く無視された。
「しかし」
猫夜はこたつの上に置いた手をもじもじさせた。そして続ける。
猫には好奇心という名の魔物を体の中に閉じ込めている生き物なんです。
一度それが目覚めるともう止められません。手がつけられなくなるんです。
あたしはその魔物に乗っとられ、犬飼の忠告を無視し、好奇心いっぱいに庭に降り立ったんです。もちろん辺りをようく注意してでの上でした。でも、
一瞬で捉えられてしまいました。それはもう慣れた様子であたしの首をひっ掴み、そのまま家の中へ連れこまれました。鳴く暇もありゃしませんでした。
家の中の匂いに、やばいと感じましたがもう遅かったんです。
後から追って来た犬共々あの部屋へ押し込まれました。部屋の中は動物の血の匂いが充満していました。犬も猫も鳥もいたのだと記憶しています。
殺されていった動物たちの最期の声が、悲鳴が、部屋の中に染み付いていました。
怖かったです。
部屋中の空気が殺気立っていました。
あたしと犬飼は檻の中に閉じ込められました。
エサも水もほとんど与えてもらえませんでした。
檻から出ようにも頑丈な造りでビクともしない。
もがいてもがいて必死に逃げ道を探しましたが、体力だけがなくなっていくだけでした。
それから何日もしないうちにあたしと犬飼は死にました。
死因ですか? 虐待ですよ。
殴られたり、蹴られたりするあたしを犬飼が庇い続け、あたしももちろん反撃しましたがね、そこは生まれて数ヶ月の子猫です。なんの攻撃にもなりませんでした。
犬飼は、最後まであたしを庇い、自分が盾になって守ってくれました。
あの男の最期の一撃にあたしはこれで終わると確信しました。
あたしが死んだ後、犬飼は残った力を振り絞り、あの男に喰らいついたんです。右の人差し指と中指と薬指を食いちぎりました。
あの男は痛さに悲鳴を上げ、発狂し、あたしの亡骸を庇いながら吠え続ける犬飼に向けて鈍器を振り下ろしたんです。
猫夜と犬飼がなで肩を更に落とした。
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