十
十
太郎がカウンターに座っている瑞香の前に小さくて薄いピンク色のノートを差し出した。
二度瞬きをし首を傾げる瑞香に、
「このノートはあなたの人生の記録だよ」
小さく頷き目を伏せた。
「私の人生の記録?」
太郎に向けていた視線をノートに移し、確かめるように眺めてから軽く撫でてみる。
柔らかくて冷たかった。
「その感触が、あなたの人生を表してる」
「私の人生は柔らかくて冷たいの?」
「へえ、そうなのかい。瑞香さんの人生ってのは柔らかくて冷たい感触だったんだね。いいねえ、初めての感想だよそれは。ねえ、侍、前にこんなこと言うのはいなかったよね?」
「いなかった」
太郎は瑞香に渡したノートの意味を言い、瑞香が自分がノートに触った感触をポツリと言うと、待ってましたとばかりに昭子と侍が話に割り込んできた。
ノートを持ち上げて中を適当に開くと一ページ一ページに絵が描いてある。
ぱらぱら漫画のように自分が生まれてからの様子が絵で表されていた。
もちろんそこには殺されるところも描かれている。
「ああ、そうなんですね。私はこうやって殺されたんですね。今となってみれば、なんで抵抗できなかったのかが分かりました。首に手を回された時点で怖くて気絶していたからなんですね」
くすっと可笑しそうに笑った瑞香に、「そりゃあんたこれから殺されるんだ。怖いだろう、でも気絶したおかげで苦しまずにすんだんだから良かったじゃないか」
昭子が空気を読まぬ一言を言い、自分で納得するように「そうだよねえ」と自らに言いながら酒の入ったグラスを口へ運んだ。
「瑞香さんの今回の人生は柔らかく冷たいものだった。つまり、柔らかいというのは何不自由なく育ち、人にも恵まれお金にも不自由しなかった。世間の荒波に揉まれることもなく、ひとしきりの幸せを手に入れることができた。結婚もして、幸せだった。ここまでが柔らかいという部分です」
結局当たり障りない生き方だったのよねと昭子が結論づけ、侍が頷く。
太郎は苦笑し、眉を困った風に下げている瑞香に「悪気はないんですよ」とフォローを入れた。
「冷たいという部分は言うまでもなく、」
「殺されて土の中にいるからですね。なんだったんでしょうね。私の人生って」
瑞香が太郎の言葉を引き取って自ら結論づけた。
もう一度自分の人生を振り返るようにノートを最初からゆっくり絵を眺めながら思い出に浸る。
太郎はしばらく瑞香をそのままにして、昭子と侍の元へ行き、真面目な顔をして瑞香に聞こえないように小さい声で口を開いた。
涙目になっている瑞香は時折すすり泣いたり、かと思えばおかしそうに、また、恥ずかしそうに笑ったりしてながら自分の人生を振り返っていた。
終わりのページを見て目を見開いた。
そのページは、今こうしてここにいる絵が描かれていたのだ。
こたつに入り、太郎と話している。その隣に昭子と侍が悪い笑みを浮かべてまっすぐこっちを見ていたのだった。顔を上げる。その絵が目の前に重なった。
「あなた方は一体」
「で、少しは気分は晴れたかしら?」
昭子が酒を飲みながら聞き、侍がメロンソーダを飲みながら、「これからまだあの野郎を痛めつけることもできるぜい」試すように聞く。
瑞香はゆっくりと首を振り、ノートを閉じようとしたとき、更に後ろに一枚ページがあるのに気づいた。
一旦顔をあげ、三人と一人一人目を合わせる。
捲れと言われている風だった。
そろりとページをめくると、息を飲んで顔を上げた。
「それじゃあ、この辺でそろそろ夜が明けちまう。もうしばらく無になっててもらうぜ。それで、そのときが来たら迷うことなく逝くんだぜ」
太郎のことばを聞いたあとすぐに瑞香が三人じゃない方に目をむける。そこには以前見た靄がうごめいてた。
急いで口を開いたのを無視して太郎が蝋燭を吹き消した。
蝋燭の煙と共に瑞香もノートもふうっと煙に巻かれて明けてきた紫色の夜に吸い込まれていった。
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