(7)少女が灼熱を詠う。

 ずるり、と嫌な音がする。


 私は指を一つ鳴らして、魔術で馬の意識を落とした。混乱して逃げられたら王都が遠のいてしまう。

 ずるり、とまた音がした。一体、どこから。

「トリア、川だ!」

 音の発生源を探して視線を巡らせる私に、引き攣ったウィリアムの叫びが届く。はっとして川に向けて剣を構える。

 ゆらゆらと揺らめく川の中に、何かが見えた。

 眼をこらす。何かが

 川から、何かが這い上がって来ようとしている。

 ずるり、と、ぬらりとした何かが蠢く。全容は――見えない。いや、見えた。

 私は絶叫した。


「タコ―――!」


 こんな神話あったよね!

「タコだ……」

 なんだか一周まわってしまったみたいな声で呟いたのはウィリアムだった。

「……服を脱ぐ前で、良かったね」

「本当にな!」


 危うく十八禁展開になるところだったじゃねーか!




 僕はそろりと、ヴィクトリアとタコがどちらも視界に入る位置に移動した。

 巨大なタコが、ずるりと川から姿を現す。頭の部分が馬ほどもある、ちょっと見ない大きさのタコだった。

 てらてらと皮膚が光って、ひどく嫌悪感を煽る。汗で湿った手で剣を握り直す。

 ――それにしても。

「あの腕、たこ焼き何人前かな……」

「来るわよ、リアム!」

 ほんの一瞬だけ現実逃避をした僕に、ヴィクトリアの鋭い声が飛んだ。何本もの腕が僕たちに襲いかかってくる。

「こんっ――」

 闇雲に剣を振るおうとして、直前で冷静になって堪えた。多数相手では、無駄打ちはできない。

 僕の攻撃は、三回に一回は絶対に外れるのだ。

「何よこれ、八本以上あるんじゃないの!? 気持ち悪いわねっ」

 毒づきながら、ヴィクトリアが剣を一閃する。太ももほどもありそうなタコの腕が、ざっくりと断ち切られた。

 出会ったときと同じく、ぞっとするほど鋭い剣筋だった。ひどく、眩しい。

 そんな場合ではないことを承知で、刹那、見とれた。

 ヴィクトリアに意識を取られた隙をつくように、タコが腕を伸ばしてくる。

 僕の古びた剣と、達人にはほど遠い腕前では、切り落とすことはできない。剣を振るって叩き落とした。

(一回目、)

 右から迫る触手に刃を向ける。ぬるりとした体液に守られて、傷の一つもつけられない。

(二回目、)

 ヴィクトリアの背後から腕が伸びる。

 彼女は気づいていない。また剣を振るった。三度目の攻撃。

(三回目!)

 

 呪いが発動する。真っ直ぐに振り下ろしたはずの剣が、理不尽な何かの影響を受けてぐにゃりと曲がる。

 攻撃が当たらないのは承知済みだ。

 不自然に逸れた軌道を気にせず、勢いのままヴィクトリアに体当たりした。

「ぐっ、」

 僕に押しのけられた少女の代わりに、彼女を狙っていた腕に吹き飛ばされて、思わず悲鳴を上げる。なすすべもなく地面に倒れ込んだ。

 驚いて少女が駆け寄ってくる。

「ちょっと、何してるのよ、ばか!」

 心配じゃなくて怒りの感情を向けてくるのが彼女らしかった。

 どうにか体を起こせば、地面には何本か腕の先が転がっている。ヴィクトリアが切り落としたのだろう。

 タコの様子をうかがって、僕は眼を見開いた。

「腕が、切れてない?」

「再生するのよ、腹が立つわ」

 大したことでもないように、少女が唇を尖らせた。

 まだ足に力が入らない僕の前で、ヴィクトリアがすくりと立ち上がる。巨大なタコの魔物を前に、恐れなど何もないように。

 へたり込んだまま少女を見上げた。彼女は魔物に向き直る。

「切った端から戻るなら、丸ごと焼いてしまえば良いだけよ」

 物騒なことを言い放つ。


 真っ直ぐで、迷いのない背中だった。


 憧れて、憧れて、憧れた、

 ――かつての知り合いの記憶が、視界に重なった。

「リアム、隙を作って!」

「わ、判った!」

 当たり前のように――隙を作れるかと問うのではなく、隙を作れと命じてきたヴィクトリアに、僕は跳ね起きた。足が、動く。

 少女の隣に並んで、剣を正眼に構える。


 あの頃、僕は弱かった。

 弱くて、本当に弱くて、守ってくれた彼の後ろで、震えていることしかできなかった。

 今の僕は、――戦える。


 憧れて、憧れて、憧れた、ヒーローみたいに。

 たとえまだ、道の途中でも。


 無数の腕に囲われた敵の頭部に狙いを定めた。

 自分の身を守ることは考えない。命ごと、ヴィクトリアに託す。

 タコが腕を伸ばしてくる。僕は魔物に、真正面から突っ込んだ。

「うわああぁっ!」

 一本、ただ一本だけ、魔物に近づくのに本当に邪魔な腕のみを叩き落とす。他の腕は、掠めようが打たれようが無視をする。

(一回目、)

 いくらかの傷を受けながら正面に辿り着く。

 タコの魔物と、眼が合った、――気がした。

 剣を振り上げる。両親が買ってくれた、棒きれと良い勝負の、けれど大切な、僕の魂。

(二回目!)

 片方の眼に、おんぼろの剣を力尽くで突き刺した。

 タコから奇妙な悲鳴が上がって、むちゃくちゃに暴れ回る。全身で剣に体重をかけた。

 僕の、後ろで――


「――イグニース!」


 少女が灼熱を詠う。




 私の宣誓と同時、タコの化け物が一気に燃え上がった。断末魔が響く。

「どこから声を出しているのかしら。どう思う、リアム?」

 呆然としていた少年が、私の声に振り返った。ウィリアムまで燃やすようなヘマはしない。

 安堵したように私に近寄って、

 ――彼の顔が、驚愕に歪んだ。


「トリア、足下!」


 警告に、反応できなかった。

 足が動かない。確実に避けられるタイミングだったのに。

 憤ろしい、呪いのために――。

 腰に巻きついた腕に引きずられる。一本だけ、いつの間にか忍び寄っていたのだ。

「しまった……!」

 炎から逃れようというのか、タコが川に逃げて行く。

 浅い川だと思ったのに、巨大なタコがあっという間に沈んだ。巻き込まれて、私も川に引き込まれそうになる。

「――!」

 呼吸ができなくなったらおしまいだ。

 自分に風の守りを作る間に、更に引きずられる。川が近い。

「トリア!」

 ウィリアムは私が取り落とした剣を拾って駆け寄ってくるところだった。剣を振りかざそうとした、少年と視線が絡む。

 タコの腕を払うのに一度。眼に剣を突き刺すのに一度。


 だ。


 ――なんて、間の悪い。

「ははっ、」

 なんだかおかしくなって、思わず笑った。どうあっても、私は攫われる運命らしい。

 忌々しくも愉快な、呪いによって。

「あぁ、全く――」

 水音と同時、私の体は川に沈んだ。


 視界から、見る見る水面が遠のいていく。

 本当に深い。明らかに外から川を見たよりも深いから、現実ではない世界と混じり合った場所なのかも知れなかった。

 腰に巻きついた腕が、僅かに緩む。もうほとんど死にかかっているのだ。

 タコが完全に死に絶えるにはしばらくかかるだろうし、私はその間にも引きずり込まれるだろう。けれど、絶望はなかった。

 何故なら、信じている。

 ばかみたいにお人好しな、お間抜け勇者様を、信じている。

(――ほらな、)

 水面で輝きが散った。私を追ったウィリアムが飛び込んで、生まれた気泡が光を反射しているのだ。

 ひどく、眩しかった。

 少年がこちらに近づいてくる。迷いなく、右手に剣を携えて。

 ちらりと、背後の魔物を確認した。タコの動きは鈍く、トドメを刺すのに苦労はないだろう。

(残った眼も潰してやるよ)

 ウィリアムを急かすように、相手に向けて右手を突き出した。

 勝手に口の端が上がるのをそのまま、叫ぶ。


「――!」

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