(5)「あなたを見捨てて僕だけ逃げるなんて、絶対に嫌だ!」

 ローズブレイド王家、第一の姫は――ヴィクトリア・ローズブレイドは、強かった。

 それはもう、仮にも勇者である僕がうっかり立場を失いそうなほどに強かった。途中で出てくる魔物なんか、僕が剣を抜く暇すらないくらいだった。

 あまりに強いから、迂闊にもこう訊いてしまったことがある。

「そんなに強いのなら、どうして王都に帰らないの?」

 訊いた直後に、やってしまった、と思った。もしかしたら、とても深刻な理由によるものかも知れないと考えたのだ。

 僕が謝るよりも早く、少女は言った。

「ちょっと困った体質なの」


 ――困った体質、って。



「――まさか極端に攫われやすいとか狙われやすいとか、そういうことじゃないよね……」

 数日前のヴィクトリアとの会話を思い出しながら、僕は呟いた。あのときは訊いてしまったことを申し訳なく思ったけれど、もっと詳しく訊いておくべきだったのかも知れない。

 何にせよ、王都までは一緒に旅をするのだから。


 少女と出会って数日。僕が乗ってきた馬に二人で乗って、王都に戻る途中のこと。

 ヴィクトリアは魔物に攫われた。

 何が起きたのか、正直僕にもよく判らない。森の中で一休みして、途中の小さな街で買っておいた保存食を開けようとした、瞬間だった。

 突然巨大な鳥がやってきて、僕やヴィクトリアが反応するよりも早くヴィクトリアを攫って行った。本当にあっという間の出来事で、僕なんかは保存食の袋を開けようとした体勢のまましばらく固まってしまったくらいだ。

 それから慌てて街にとって返して、魔鳥の住処を聞き出して、今に至る。


 街で聞いた話を思い返す。

 魔鳥の巣は、渓谷の手前の老木の上にあるらしい。巨大な鳥を恐れて、街の人びとの誰も近づかないのだとか。

 馬は街に預けて渓谷への道を一歩一歩踏みしめながら、おんぼろ剣の存在を確かめる。

 どんなに頼りなくたって、僕は勇者なんだから。

 ヴィクトリアと出会ってからずっと、助けられてばかりだった。もちろん魔法の宝箱が欲しいというのも本当だけれど、少女を見捨てて僕だけ逃げるなんてことはできない。

 もしかしたらヴィクトリアは、彼女自身の強さによって自分で逃げ出してしまうかも知れないけれど。僕の手なんて、必要ないのかも知れないけれど。それでも、

「……助けに、行く」

 自分に確認するように、僕は呟いた。



 街から渓谷へは、そんなに時間はかからなかった。昼過ぎから歩き通しで、日暮れまでには辿り着けたのだから上等だ。

 僕は少しばかり焦っていた。

 太陽はすでに傾き始めている。日が完全に隠れてしまえば、魔物たちは一気に力を増すのだ。

 老木がどれかはすぐに判った。伸びきった枝葉、それ自体が巨大な巣になっているようだ。

 魔鳥はちょうどどこかに行っているようだった。狩りに出かけているのか知らないけれど、今を逃さない手はない。

 老木は本当に、渓谷のすぐ手前に佇んでいた。しかも、大きく崖側に傾いている。

 枝に上ったとして、ちょっとでもバランスを崩せば、あっという間に谷へ真っ逆さまになる位置だ。

 ひやりとしながらも老木に近づいて、巣を観察した。下からではよく見えないけれど、枝の間に、明らかに不自然な色がある。

 鮮やかなピンク色は、きっとヴィクトリアが着ている服だ。

 それに、きらりと光る白。少女の剣の鞘。

 確信して、気合いを入れ直す。

 いつ魔鳥が戻ってくるか判らない。僕は焦りながら、小声で必死に呼びかけた。

「トリア、トリア!」

 反応がない。気を失っているのかも知れない。

 迷っている暇はない。僕はしっかりとした枝を足場にして、木を登り始めた。

 いくら鈍臭くたって、一応勇者の資格は持っている。木を登るくらいなら簡単にできるのだ。

 一気に身を引き上げて、巣の中に入り込む。

 果たして、ヴィクトリアはそこにいた。眼を閉じて、眠っているようだ。

 渓谷から強い風が吹き上げている。いつまでもこんな場所にいては、体に障ってしまう。

「トリア、大丈夫?」

 必死に体を揺すった。少女の顔が歪む。

「トリア、起きて。逃げよう」

「――リアム……?」

 ヴィクトリアが薄らと眼を開けて、僕の名前を呼んだ。昼寝から起きたみたいな、場違いに平和な声音だった。

 なんだか拍子抜けして、少女の体を起こそうとして気づく。

「トリア、体が――」

 木の枝や何かの蔦が絡みついて、彼女を拘束している。この老木自体が元から魔物か、もしくは魔鳥の影響を受けていたのだ。

 どうにか解放しようと枝を掴んだとき、ヴィクトリアが息を飲んだ。

「後ろ!」

 反応できたのは奇跡に近かった。

 いつの間にか戻ってきていた魔鳥が、僕に襲いかかってくる。迫る爪を、剣で受け止めた。

 古びた剣が悲鳴を上げる。曲がった爪の先端が眼に届きそうで、両腕に力を込める。

「う、くっ――」

 体勢を整えるためか、巨大な鳥がいったん後ろに下がる。魔鳥が羽ばたくたび、風が僕の体を切り裂いた。

「風の魔術か!」

 魔術を使えない僕ではどうにもできない。けれどこの場から動けば、まだ動けないヴィクトリアがまともに傷を受けるはめになる。

 鳥が、鳴いた。

 獲物を横取りされそうなことに憤っているのか、長々と響く声を上げて、ぶわりと羽ばたく。風圧に吹き飛ばされそうだ。

「リアム、早く逃げなさい!」

 ヴィクトリアの叫びも遠い。切羽詰まった響きに、僕ははっとして老木を見下ろした。

 老木が、傾いている――谷の方に。暴風に耐えきれないのだ。

「落ちる……!」

 慌てて少女を抱えて逃げようとした。けれど、彼女の体はまだ拘束されている。

 このままではヴィクトリアは捕らわれた状態で落ちてしまう。そうしている間にも、どんどん老木が傾いていく。

「何してんだ、逃げろ!」

「嫌だ!」

 ヴィクトリアに返して、僕は彼女の体に覆い被さった。魔鳥の起こす風から庇うように、落ちたときにせめても緩衝材になれるように。


「あなたを見捨てて僕だけ逃げるなんて、絶対に嫌だ!」


 風に掻き消されまいと叫んだと、同時――。

 木が、ぐらりと揺れた。

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