12-4
「くそっ……、頭がいてぇ……」
カーテンの隙間から漏れる朝日の眩しさと、ジージー鳴きわめく蝉の声に、マルク・ウィンザーの意識が覚醒する。だが、頭蓋骨を締めつけるような鈍い頭痛のせいで、寝覚めとしては最悪だった。おまけに、酔いがまだ醒めていないせいか、不快な浮遊感が残り続けている。
時刻は午前九時をとうに過ぎていた。ホテルのチェックアウトが十時となっているため、あまり余裕はない。とりあえず顔を洗おうと、マルクはいまだ
(こんなはずじゃなかった……)
昨晩は出会ったばかりのセシルとバーで一杯だけひっかけるはずだった。だが、たまたま居合わせた唯花という女とセシルが意気投合してしまい、その後は悪夢のようだった。限界を知らないウワバミのように、酒をあおり続けるふたりに、明け方近くまでマルクも付き合わされた。その後は何とかホテルに帰ってくることができたが、そこから先のことは全く覚えていない。
「我ながらよく生きて帰ってこれたものだ」
自賛の言葉を口にしつつ、マルクは顔を洗い始めた。冷水で顔を洗ったおかげで、眠気とともに多少の酔いは醒める。ついでとばかりに、ホテルのサービスで用意されていたミネラルウォーターを一気飲みし、身支度を済ませたマルクはホテルのロビーへ向かう。
(あの女……まだ寝てたりしたら、ただじゃおかないぞ……)
階下に降りていくエレベータの中で、マルクは苛立っていた。
今日は、
やがてエレベータが地上階に到着し、マルクはフロントでチェックアウトの手続きを済ませた。とりあえず、この後の行動を整理するためにホテルのロビーで一息つこうとした時だった。
「よう、遅かったな。よく眠れたか?」
視界の外から、誰かに声をかけられた。その声を聞いて、マルクの懸念のひとつは消え去ったと同時に、無性に腹が立ってきた。
「よく眠れたかだって? おいおい、この姿を見てなんとも思わないのか」
マルクは皮肉を交えつつ、背後へと振り返える。その先には、昨日と同じ大きなサングラスをしたセシル・バレンタインが、手を腰に当てて堂々と立っていた。彼女は、白いノースリーブのブラウスに、七分丈の濃紺のパンツを着ていた。それがまた、セシルの体形に合っており、ホテルのロビー内にいる人々の目を引き付けていた。
「どうやら……、あんまり眠れなかったみたいだな……」
マルクのいで立ちを見たセシルは、若干引きながら呟いた。なぜなら、マルクの見た目は悲惨そのものだった。
マルクはカーキ色のTシャツに、デニムといった地味な恰好をしていた。確かに、見た目に関して言えば地味な服装であるが、問題はマルク自身にあった。
身支度をする時間がそこまでなかったせいか、ウェーブがかった黒髪はあちこちに向き、おまけに無精ひげ。そして何よりも、真っ赤に充血した目と、その下には黒ずんだクマがはっきりとできていた。
「……………………」
セシルが自分の姿を見てひいたことに、もはやマルクは何も言わなかった。だが、彼女が自分を見て驚くと同時に、マルク自身もセシルに対して驚いていた。
……あれだけ酒を飲んでいたのにもかかかわらず、何事もなかったようにセシルはケロリとしているのである。セシルがどういう体の構造をしているのか、マルクは不思議でしょうがなかった。
「言いたいことが山ほどあるが、約束の時刻まであまり時間がない。早いとこホテルを出発するぞ」
「あいよ」
ぶっきらぼうにそう言うと、マルクはホテルの出口に向かって歩き始めた。セシルも軽快な返事とともに、彼の背中を追って一歩踏み出すのだった。
××
マルクとセシルは
「俺たちを尾行する気配はないか?」
ほとんど口を動かさず、ボソッとした声でマルクは少し後ろにいるセシルに話しかける。警察の尾行を警戒して、マルクたちは最短距離で目的地に向かわなかった。むしろ遠回りして、おかしな動きをする人物がいないか念入りに調べていた。当然ながら、防犯カメラに姿をさらすことも最小限に抑えている。
「安心しな。今のところ、それらしき気配はない。だけど、あんまり外をうろうろしているほうが逆に怪しまれるぞ」
(それは、あんたの髪の色のせいだろ……)
マルクとしては正直なところ、セシルと行動することが窮屈でたまらなかった。容姿端麗かつ、特徴的な髪色をした彼女はどこに行っても人目を惹き、隠密行動とは真逆のことをしているようでやりづらかった。万が一何かが起こったとき、人に覚えられているというのは、足がつくリスクが付きまとうからだ。
そんなこんなで、目的地の周辺で人目を回避しつつ、やっとのことでマルクとセシルは目的の建物たどり着いた。
ひと気の薄れた工場の中に、マルクとセシルは踏み込む。工場の中は、大きな工作機械と鼻を突くような切削油の匂いで満たされていた。平日ではあるが、工場は稼働していないようだった。照明のついていない工場は奥に進むにつれて、薄暗くなっていく。
マルクとセシルは、緊急の事態に備えて、常に警戒しながら工場内の捜索に当たっていた。この狭い工場内で、警察の待ち伏せに会いでもしたら、突破は容易ではない。荷物を引きずるほうと別の手は、常にそれぞれの持つ武器にかけられていた。
やがて、工場の奥にある事務所と思える一室に二人は踏み入った。
だが、事務所の中には誰もいなかった。
約束の時間はとうに過ぎてはいるが、誰もいないことをふたりは怪しむ。もしかしたら何かメッセージでも残されていないか、適当に室内を捜索し始めた。事務所の中は、壁に沿って机が設置され、その上には伝票やら書類の束が積み重なっていた。いくつか書類を調べてみたが、組織に関する書類などなく、手掛かりになるようなものはなかった。
「いったい、どうなってんだ? 誰もいないじゃないか」
たまらず、セシルが漏らす。だが、マルクはすぐに答えなかった。
組織が何も連絡もよこさずに、刻限を過ぎるということはあまり考えられない。例外もあるが、連絡がないということは、予期せぬトラブルが発生した可能性が非常に高かった。そうなれば、この場にいる自分たちの身にも危険が迫っていると考えるのが当然だろう。
「もしかしたら、想定外の事態が起こったかもしれない。すぐにここを離れるぞ」
そう言って、マルクが荷物に手をかけた時だった。
「しっ! 誰かこの建物の中に入ってきた」
いきなりセシルに頭をつかまれ、マルクは無理やり姿勢を低くさせられた。だが、そのことを
「数は?」
「わからん。だが、そんなに数は多くない。ひとり……いや、多く見積もっても二人くらいだな」
囁くように、セシルは答える。それを聞いたマルクは考えを巡らせ始めた。
「外で待ち伏せをしている可能性が高い。外の様子までわかるか?」
「さすがにそこまでは分からん。にしても、こっちに向かってくる奴は素人だな。それらしき訓練を受けた足取りじゃない」
「まさか、一般人か? だとしても、俺たちの姿を見られるわけにはいかない。悪手にはなるが、最悪、始末せざるを得ない」
やがてマルクの耳にも、こちらに向かって近づいてくる足音が聞こえてきた。できることなら、無用なトラブルは避けたい。一般人、なおかつ事務所まで来ることなく引き返してほしいとマルクは願う。
テロリストでありながらも、マルクは無駄な血は極力流したくないと思っていた。そのことを話すと、いつも仲間からは甘すぎるとたしなめられる。それでも、自分たちの行動が人々に認められなければ、この組織の悲願を達成することなどかなわない。先々のことを見通してのことだった。
「どうする、今なら声もあげさせずに始末できるが」
一段と低い声でセシルが囁く。そして、今にもセシルは物陰から飛び出そうと、事務所の扉の横にぴったりと張り付いていた。もはやそれが冗談ではなく、本気でやろうとしていることに疑いはなかった。
「まて、もう少しだけ待つんだ」
そんなセシルを慌ててマルクは静止する。その間にも、足音はどんどんこちらに向かってくるようだった。だが、事務所まであと数メートルといったところで足音はピタリとやんだ。
「あれ~、おっかしーな。約束の時間はもう過ぎてるんだけどなー」
間の抜けたような声が工場内に響き渡る。それは、こちらに向かっていた人物の声であることは間違いなかった。声の質からして、そこにいるのは男のようだ。
マルクとセシルは互いに顔を見合す。男の放ったセリフから、ここで待ち合わせをしていることを匂わせてはいるが、果たして組織の者であるか、今のところ判断はつかない。飛び出したところで、罠であったら洒落にはならない。
(――ここは俺が出る。もし何かあったら、その時は頼む)
マルクはジェスチャーとアイコンタクトを交えながら、セシルに意思疎通を図った。彼女も、了解したとばかりに静かにうなずいた。やがて、マルクは息を殺しながら、バックパックから拳銃を取りだすと、事務所の扉から飛び出ていった。
「おい、あんた……」
「うわっ! なんだっ!?」
音もたてず事務所から出たマルクは、すぐ近くで立ち尽くす男に、背後から声をかけた。男は大げさとばかりに大きなリアクションをとりつつ、マルクのほうへ振り返った。
薄暗い工場の中で、はっきりと男の顔は見えないが、面識がない相手だということははっきりしていた。それは向こうも同じのようで、しばしの間二人は何も言わずにらみ合ったままだった。
「あんた、何者だ?」
銃を構えたまま、マルクは男に尋ねた。
男は声もあげずに驚いていたが、すぐににやにやと不敵な笑みを浮かべ始めた。銃を突きつけられているのにもかかわらず、緊張感もなく笑う男をマルクは不審がる。それと同時に、その動じない態度はとても一般人とは思えなかった。
「いや~よかった、よかった。誰もいなかったら、もう帰ろうとしてたんだ」
両手を挙げつつ、へらへらと男は語り始める。
物怖じせず、呑気にしている男の態度は、マルクの鼻につくようだった。
「戯言はいい、とにかくあんたは何者だ?」
「まいったな。俺っち、そんなに信用がないのかよ。はいはい、わかったよ。俺は大佐に命令されてあんたたちに会いに来たんだ。これでも不十分かい?」
大げさに男は首を振りつつ、ため息を吐いた。
「あんたのこと、まだ信用していない。誰に会いに来たのか、名前を言ってみろ」
「えーっと……確かマルク・ウィンザーとセシル・バレンタインだったよな。ほらよ、もうこれで十分だろ。そういえば、相方はどうしたんだ?」
正確に名前を言い当てたことで、マルクは引き金にかける指の力をゆっくりと抜いていく。だが、完全に警戒を解いたわけではなかった。
「彼女には別の場所で待機してもらっている。罠の可能性もあるんでな」
「随分と警戒してるんだな。まあいいや、俺っちも頼まれた用事をとっとと済ませたいし」
そう言って、男はそれまで上げていた両手を下すと、左手をポケットに突っ込んだ。マルクは警戒感をにじませながら再び銃を構えた。
「大丈夫だって、危ないものは持ってねぇよ。ボディチェックするか?」
「いいから左手の中のものを見せるんだ」
ゆっくりと男は左手を差し出すと、手のひらの中に持っていたものをマルクに差し出す。それは、小さなUSBメモリだった。
「中に何が入ってるんだ?」
「さあね。俺っちも何が保存されているのか、聞かされてない」
バックパックの中に、ノートPCがあることをマルクは思い出す。まだ完全に男のことを信用していないが、とにかく中身を確認しなければ話は始まらない。
「事務所の中にPCがある。中身を確認するまで、あんたはここで待ってろ。少しでも怪しい素振りを見せたら、容赦なく撃つからな」
「はいはい。ここで大人しくしてますよ」
男はそっぽを向きながら、吐き捨てるように言った。
その間、マルクは銃口を男に向けたまま、後ずさりするように事務所の中に入っていった。
「あの男の顔に見覚えは?」
事務所の中で待機しているセシルに向けて、男に聞こえないほどの小さな声でマルクは囁く。セシルは、首を横に振りながら「ない」と一言だけつぶやいた。
予想通りの答えで、マルクは特に反応しなかった。それよりも今は、男が持ってきたUSBメモリの中身が気になっていた。
「こいつの中身を確認している間、悪いがあの男を見張っててくれ。もし、不審な動きをしたら……殺してもいい」
「ああ、わかった。……だけど、あいつを殺すのはそう簡単にはいかなさそうだ」
「えっ――?」
セシルの一言に、マルクは戸惑った。
だが彼は、その理由を追及するよりも、USBメモリの中身を確認するほうを優先した。電源をオンにしたノートPCにメモリを差してみたが、案の定、保存されているファイルは複雑に暗号化されていた。
(この程度なら……10秒もあれば復号できるな)
だが、そこは日々様々な裏工作を行っているマルク。すぐに暗号の解析を始めると、本人の宣言どおり、わずか10秒でファイルは元通りになっていた。
(なんだこれは……。建物の図面か?)
USBメモリには、いくつかの建築図面が保存されていた。
それを見たマルクは最初、
だが、ファイルにはビルのような建物の見取り図と、もう一つ気になる図面があった。それは、きれいな丸を描いたような建物だった。
(これも建物か? ……いや違う、何かの装置だ)
一見すると、それは最新のモダンアートのような建築物のように思えた。だが、マルクはそれが住居などではないことを一目で見抜いた。
二重丸のように大小の二つの円が重なる装置は、とても奇妙な構造をしていた。気になったのは、それが装置の図面のみで、その他一切の情報は記されていなかった。
(なんだろう、この装置に似たものをどこかで見たような……。フランスのリヨン、いや、ドイツのシュトゥットガルトだったか……)
装置の図面を不思議そうにマルクは眺めていたが、過去にこれと同じようなものを見た気がしていた。しばらく彼は過去の記憶を漁っていたが、やがて図面の左端に手書きの文字が記されていることに気が付いた。
〝AMENOIWATO〟
謎の図面の正体は、日本政府がその存在をひた隠しにする
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