8-6

 アタルが単独で岩森の痕跡を探っていた最中さなか。突然、アタルの端末がけたたましい呼び出し音を鳴らし始めた。急いで確認してみれば、それは服部美幸はっとりみゆきからだった。今朝から心配をかけた手前、アタルは謝罪のつもりで彼女からの呼びかけに応じた。


「もしもし、服部かい? ごめん、今日は本当に心配――」


『そんなことよりもアタル君! レイラさんが……、レイラさんが倒れたの!!』


 切羽詰まった美幸の声と、その内容にアタルは仰天させられる。


「なんだって!?」


『この建物を出て、貯水池が並ぶ通りで倒れてるの! お願い、早く向かって!』


 勢いよく建物を飛び出したアタルは、美幸の案内通りに、倒れたレイラのもとへ急行した。アタルが駆け付けた時には、レイラはすでに意識を失い、うつぶせに倒れこんでいた。

 レイラを抱きかかえ、ゆっくりと仰向けにしたアタルは驚きに言葉を失った。彼女は目を開けたまま、どこか遠くを見つめているようだった。瞳孔が開きかけた鳶色の瞳は、ふわふわと揺れ動いたまままで、アタルに焦点を合わそうとしない。しかも、症状はそれだけではなかった。彼女の顔色は死人のように青白く、生気が感じられない。唇も紫色になっていた。どうやら、多量の幻想子を吸い込み、幻惑状態に陥っているようだった。

 幻惑状態のフェーズⅡ。それも、かなり進行している。このまま何もしなければ、いずれは昏睡状態に陥り、たとえ意識を取り戻せたとしても、重大な障害が体に残るだろう。事態は一刻を争う。


「レイラ、おい! しっかりするんだ!」


 倒れたレイラを抱きかかえたまま、アタルは必死に呼びかける。だが、彼女がアタルの呼びかけに応じることはなかった。


『アタル君、レイラさんの様子はどう?』


「かなりマズい状態だ。フェーズⅡの幻惑状態で、生気が全くない。服部、救急車を呼んでくれないか。応急処置はここでするけど、虎ノ門にある幻想子専門の病院じゃないと治療できないレベルまで悪化してる」


『そんな……でも、分かった。救急車の到着時間がわかり次第、また連絡する』


 美幸との通信はいったん途切れる。

 すぐにアタルはレイラの応急処置に動く。まず、彼女の口元へと耳を近づけた。……弱々しいが、彼女の呼気を耳に感じる。


(よかった。まだ、ちゃんと呼吸はしているみたいだ)


 急いで着ていたジャケットを脱ぎ、丸めてレイラの首の真下へ押し込んで、気道を確保する。次に、彼女の首筋の頸動脈に指をそわせ、脈拍に異常がないか調べてみたが、特に問題はなさそうだ。

 粛々と応急処置をしながらも、アタルには腑に落ちないものがあった。正規の幻闘士でありながら、なぜ彼女は幻惑状態に陥ってしまったのだろうか。通常、幻想子が存在しそうな場所に近づこうとするならば、幻惑状態に陥らないよう対策はきっちりするものだ。


(僕が捕まったにしても、抜かりない彼女の性格からは考えにくいミスだ。何か理由でもあったのか?)


 そんなことを思いながら、アタルはジャケットから取り出しておいたピルケースのふたを開ける。中に入っているのは半透明のシート状になっている幻想子の中和剤だ。これ以上症状が進行しないように、アタルはレイラの口を開け、服用させようとした時だった。


『お待ちください、神代様!』


 聞きなじみのない男の声がどこからともなく、聞こえてきた。この場にいるのは、自分と意識を失っているレイラ、ヘッドセットから聞こえる声も数えるとするならば、美幸とマナだけである。声の主を探してみるものの、その姿はどこにも見当たらない。キョロキョロあたりを見回すアタルであったが、再びあの声が聞こえた。


『こちらです、神代様。お嬢様のサポートAIのヴィラルです』


 ようやく、アタルは声の主を理解する。そして、ヴィラルの声はレイラが右手に握りしめていた端末から発せられていた。アタルはレイラの右手を優しく開かせ、彼女の端末を取り上げると、画面をのぞき込んだ。


「ヴィラル、あまり時間がないんだ……」


『神代様、お嬢様へ中和剤の服用させるのはおやめください』


「その理由は?」


『お嬢様は、中和剤に対してアレルギーを持っています。もし誤って服用した場合、重篤な副作用を引き起こしてしまうのです』


 それを聞いたアタルは、川崎の倉庫での彼女のセリフを思い出しす。『あたしにはそれが使えない』、確かに彼女はそう言っていた。あの時はよく理解できなかったが、今になってその意味をようやく理解した。


「だったらヴィラル、彼女が使っている中和剤はどこにある?」


 中和剤にはいくつか種類がある。アタルが持っている中和剤は広く使われている一般的なものだが、それが使えないとなっては、彼女が持っているものを使うのが当然だ。そんな楽観的な観測で、アタルはヴィラルに問うた。だが、ヴィラルから返ってきたのは、アタルの予想だにしないものだった。


『……お嬢様には、中和剤が使えないのです』


「なっ!? それじゃあ、彼女はどうやって体内の幻想子を除去しているんだ?」


 ヴィラルの回答にアタルは驚愕する。中和剤がなければ、体内に入ってしまった幻想子はそう簡単に生理現象だけで排出することができない。それが、幻想子の厄介な性質の一つでもある。

 だが、同時にアタルは疑問に思う。レイラは正規のライセンスを持つ幻闘士ファンタジスタだ。今まで数多あまたの戦闘を経験し、そのたびに幻想子を吸い込んでいるはずである。中和剤が使えないのであれば、今までどう対処してきたのだろうか。


『薬剤投与による除去ができないのであれば、しか方法はありません。申し訳ありませんが、これ以上はお嬢様のプライバシーに関することなので、お答えできません』


「それって、まさか……」


 ヴィラルの言いたいことを察したアタルは絶句する。

 物理的に体内の幻想子を除去する方法は――人口透析しかない。

 血液中に含まれる幻想子を、装置によって強制的にろ過し、きれいになった血液を再び体内に戻す。それは重度の幻惑状態に陥った患者に施す最終手段である。それを彼女は日常的に行ってきたというのか。


『本来であれば本日、学校が終わった後に病院での診察を行う予定でした。ですが、ここでの戦いはお嬢様の幻想子の許容量を、大幅に超えていたようです……』


 悔しさが滲んだ声が、レイラの端末のスピーカから漏れ出る。対して、アタルは何も言えなかった。


(僕を助けるため、幻想子に蝕まれた体で彼女はここに来た。彼女がこうなってしまった原因は僕のせいだ)


 自責の念を感じながらも、アタルに苦悩する時間はなかった。このまま何もできなければ、本当に取り返しのつかないことになる。焦らないように自分に言い聞かせるが、心の動揺は感嘆には消えなかった。

 アタルが迷う間にも、レイラの呼吸は浅く、脈拍も弱まっていた。


「ヴィラル、教えてくれ。彼女に施す手立ては残されていないのか? このままだと、どんどん症状が進んで、マズい状態になりそうなんだ」


 しばしの沈黙が、その場に漂う。しばしといっても、アタルにはその間が五分、十分ととても長く感じられるようだった。アタルの額から一筋の汗が流れ落ちる。それは、気温のせいによるものか、はたまた冷や汗によるものなのか、区別がつかなかった。

 やがて、ヴィラルは重い口を、ためらいながらも開いた。


『方法は……まだあります。ただそれは、〝本当に危機的ヤバい状況になった時にだけ〟とお嬢様に命じられました』


「今がその時だろ! でないと、本当に彼女は死ぬぞ」


『承知……いたしました。では、神代様。お嬢様の首にあるペンダントをお取りください』


 アタルはレイラのシャツのボタンを二つ外した。彼女の白く、艶めかしい胸元の肌が露わになるが、今のアタルによこしまな感情が付け入る隙はなかった。そして、ヴィラルの言われるまま、彼女の首にかかっていたペンダントを取り出す。銀色の細い鎖の先には、植物の装飾が彫られた円筒形のペンダントトップが吊り下げられていた。


『その中に入っている液体を、お嬢様に飲ませてください』


「中に入っている液体というのは……?」


『内容物については、私も一切聞かされておりません。ですが、お嬢様はかなり危険なものが入っていると言っておりました』


「そんなものを飲ませて、本当に大丈夫なのか?」


『私にもそれが、果たして本当に薬なのかすらも知らされていないのです』


 アタルは銀色のペンダントトップを見つめた。ヴィラルの言う通り、この中に入っているものをレイラに飲ませていいのか、アタルは二の足を踏む。もし、万が一にも、この中に入っているものが、薬などではなく毒だとしたら。それを飲まして彼女を殺してしまったら、そんな迷いがアタルの脳裏に思い浮かぶ。

 だが、この状況下では、ペンダントトップに入っているものにすがるしかない。どのみち何もしなかったら、彼女は死んでしまう。


(何もしなくて一生後悔するか、何かをしてその結果を後悔し続けるか。どちらにしろ、この先の人生に重い十字架を背負って生きていくことに違いはない。だとしたら――)


 アタルは、ペンダントトップの先端をためらうことなく捻ってみせた。カチリとした手応えとともに、蓋となっていた部分がするすると回り始めた。完全に蓋が外れたペンダントトップの中を覗き込んでみるが、暗くて中身がよく見えない。いちおう、匂いも嗅いだりしてみたが、何の香りもしなかった。

 内容物の詮索をやめたアタルは、そばで意識を失っているレイラの上半身を抱え上げた。そして、ペンダントの中に入っている液体を飲ませるため、彼女の口を開けた。


(この華奢きゃしゃな体で、今までどれほどの苦痛に耐えてきたんだろう。だけど、あともう少しだけ、頑張ってくれないか……)


「このペンダントに入っている液体を、全部飲ませないといけないのか?」


『いえ、ごく僅かな量で十分だそうです』


 覚悟を決め、アタルは空いているレイラの口へ、ペンダントトップを傾けると、中に入っている液体を一気に流し込んだ。そして、液体がこぼれないように彼女の口を閉じさせた。このまま、少しでも飲んでくれれば……

 レイラの口端から雫がこぼれ落ちる。今しがた飲ませた液体が漏れたのだろう。ハンカチで拭ってあげようとしたアタルは、愕然とする。

 彼女の口端から漏れた液体は、真っ赤に染まっていた。雫は、彼女の白い肌に紅の筋をつけながら、地面へと滴り落ちた。それは、見まごうことのない、鮮血だ。


 アタルは自分の血の気が一気に引いていくことを感じた。レイラを抱えた腕がわなわなと震えだした。


「そんな……」


 アタルはとっさに地面に転がっていたペンダントを拾い上げ、中に残っていた液体を手の甲に振り出す。ポタリと垂れた液体は、血と見間違えるほどに真っ赤な色合いをしていた。

 冷や汗を全身にかいたアタルは、自分を落ち着かせるために大きく深呼吸を何度か繰り返す。……十字架を背負う覚悟はしていたはずなのに、いざ直面してみれば、取り乱しかけた自分の未熟さをアタルは恥じた。

 だが、まだ安心はできない。はたして、ペンダントの液体にはどのような効能があるのか不明だからだ。今のところ、レイラに苦しむ素振りはないが予断を許さない。


 液体をレイラに飲ませてから、一分が経過した。その間、レイラの動静を見守っていたアタルだったが、彼女の容態に変化が現れ始めた。

 青白く、生気のなかった彼女の肌には、みるみると血色が戻り始める。紫色だった唇も、鮮やかな赤みを取り戻していた。浅く、不規則に繰り返していた呼吸ももとの落ち着きを取り戻していた。


「すごい……」


 彼女の容態の回復ぶりに、アタルは思わず驚嘆の声を漏らした。普通の中和剤では症状の悪化を抑えるだけだが、謎の液体はそれを凌駕していた。ペンダントに封じ込められていた液体の正体が気になるところだが、今はそれどころではない。アタルは自分に言い聞かせた。


『もしもし、アタル君? 救急車の手配ができたよ! すぐにそこに向かっているから、あと三分だけ待っててもらえる?』


 最高のタイミングで美幸からの通信が入った。

 一時はどうなるかと思えたこの状況に明るいきざしが見えたことに、アタルはやっと安堵することができた。心に張りつめていた緊張の糸が一気に緩み、めまいすら覚える。


「ありがとう、服部。レイラなら大丈夫、なんとか持ちこたえられそうだよ」


『よかった……本当に……』


 絞り出すように出した美幸の声が、ヘッドセットを通してアタルの耳に流れ込む。


「心配かけてごめん」


『ううん、いいの。私はこうして離れた安全な場所からでしか、アタル君を助けることができない。だから、こういうことに耐えることが、私の一番の仕事』


「服部がいなかったら、僕もレイラも無事じゃすまなかった。本当に、ありがとう」


 そう言うと、アタルは施設の入り口で救急車の到着を待つために、レイラを背負った。いろんなことがありすぎて、体は疲弊しているが、一歩、また一歩とアタルは足を進めた。


(……今日はここまでかな。取り逃がした岩森は服部に任せるとして、僕も疲労が溜まっている。本格的に動くのは明日からだ)


     ××


 施設に到着した救急車に、レイラを無事に乗せることができた。

 アタルも付き添いとして同乗しようかと思ったが、ひとりで静かに考え事をしたかったため、その場に残った。赤色灯をつけ、サイレンを鳴らしながら走り去っていく救急車を見送りながら、アタルは手に持っていたレイラの両手剣を眺める。救急車に武器を乗せるのもどうかと思い、あとで届けることを救急隊員に申し出たためだ。

 剣の刀身はすでに折りたたまれており、傾きかけた太陽の光をきらきらと反射させていた。彼女と一緒に肉塊の幻獣と戦ったが、アタルは最後までこの剣の力を見ずに終わったことを残念に思った。


 いつか見ることができる日も来るさ、などと楽観的に思っていた時だった。


『ご主人様! 通信が入っているのです!』


「服部からかな」


『違うのです。ヴィラルからなのです』


『ヴィラルから? まあいいや、繋いでいいよ』


 ほかのサポートAIを呼び捨てにするマナに多少驚きはしたが、特に突っ込むこともなかろう。それよりも、まだ自分に何か用があるのか気になったアタルは、ヴィラルの通信に応答した。


「彼女に何かあったのか?」


『いえ、お嬢様の容態は、今のところ安定しております』


「だったら……」


『神代様に聞いていただきたいメッセージがあるのです』


「メッセージだって?」


『はい。これはお嬢様が意識を失う直前に、神代様へ託されたメッセージです』


「はやく、再生してくれないか」


 レイラが伝えたかった言葉、ヴィラルからその存在を聞かされたアタルは、いても立ってもいられなかった。幻想子が魅せる幸福な記憶と戦いながらも、彼女は何かを残そうとした。はたして、それは一体何だろうか。

 やがて、アタルの端末から苦しみにあえぐレイラの声が流れはじめた。


『はあ……はあ……、アタル、聞いてる? …………どうしても、伝えておきたいことが……あるの……』


 幻想子に体を侵食されながらも、アタルに聞こえるようレイラの声ははっきりとしていた。だが、その声は次第に弱々しく、途切れ途切れに変わっていく。弱りゆく彼女の声を聞きながら、アタルは唇を噛んだ。拳を握りしめ、己の不甲斐なさを悔やむ。それでも、端末のスピーカーから流れてくるレイラの言葉を、アタルは一言一句聞き逃さなかった。やがて、スピーカーから彼女の声が途切れる。そこで彼女は、完全に意識を失ってしまったのだろう。


『……以上が、お嬢様からのメッセージとなっています。それと、お嬢様は私にあなた様への協力を申し付けました。もし、何かお力添えができることがあれば、何なりとお申し付けください』


「……………………ありがとう、ヴィラル」


 レイラからのメッセージをしかと受け取り、アタルは大きく息を吐いた。胸に染み入る彼女の言葉を思い返しながら、アタルは自分がこれからどうするべきか考える。だが、彼の心に迷いはなかった。


「マナ、服部に回線をつないでくれ」


『了解なのです!』


 しばらくのコール音の後、端末から美幸の声が聞こえた。


『もしもし、アタル君、これから私たち……』


「それより服部、頼みがある」


『なに?』


「今から伝える人物のことを徹底的に調べてくれないか。なんでもいい、経歴や直近の通信履歴、あと、そいつが今どこにいるのか教えてほしい」


『いきなり、どうしたの?』


「彼女が……、レイラが教えてくれたんだ。僕は、いままでの一連の出来事は岩森が単独で仕組んでいたことだと思っていた。だけど、それは違った。あの男以外にも、僕たちはうまくめられていたんだ。これから、そいつのところに向かう」


 そう言うと、アタルはある人物の名前を口にした。

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