2-3

 アタルが幻獣と遭遇した現場へ戻ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。


 巨大な体躯たいくを持った幻獣は、苦しげに息を荒げ、立っていているのがやっとの状態だった。体のあちこちに裂傷を負い、残された角も、枝分かれした先端のいくつかは切り落とされている。そして、右後脚は既に失われ、三本足で立つ姿は奇妙に思えた。

 対して、それまで幻獣と戦っていた転入生は、少し呼吸が乱れていたが、傷一つ負っていない。


 これ程のダメージを負っても、まだ動ける幻獣の生命力には、目を見張るものがある。だが、転入生には、それをはるかに上回る驚愕があった。


 グッ……グオオオオオオォォォォォォォ……。

 後脚の一本が失われても、幻獣の目に諦めの色はない。前方に倒れ込むようにして、転入生へと突っ込むが、その動きは明らかに精彩を欠いていた。


「〝ヴィラル〟、あれをやるわよ!」


 転入生はヘッドセットに向かってそう叫ぶと、幻獣に反対方向に走り出す。〝ヴィラル〟というのはたぶん、彼女のサポートAIの名前だろう。

 しかし、アタルは彼女の行動の真意が読めずに困惑する。あそこまで傷を負わせておきながら逃亡することはないはずだが。


 走る彼女が向かうその先に、ビルの柱がそびえ立っている。自らの退路を断つ作戦に、アタルは何の意味があるのか分からなかった。しかし、万が一に備えて、背中に隠し持つ拳銃に手をかける。


「いくわよ……今っ!」


 キーンという耳障りな高周波が空気を震わせる。同時に、彼女は勢いを止めることなくビルの壁面を駆け登った。重力に捕らわれることなく、彼女は垂直の壁を駆ける。まるで彼女だけ物理法則が働いていないかのように。


「どうなってるんだ、あれ……」


 目の前に起こることが理解できず、アタルは絶句する。それは彼女と戦う幻獣も同じであった。壁面と衝突するのを避けようとするが、三本足ではうまく静止することができず、地面を転がる。


『はわわーっ! ご主人様、あれは最近アメリカで開発された最新式の装備なのです』


「なんだって!?」


 突然のマナの解説に、アタルは耳を疑う。


『そうなのです。正式な名称は〝重力無効化靴ゼロ・グラビティシューズ〟。靴底に発生させた幻想子ファンタジウムを使って、一時的に壁やその他の物を登ることができるのです!』


「そんな技術が確立されていたのか……」


 転入生が履いている黒のコンバットブーツに視線を送りつつ、アタルは感心する。彼女が壁を駆け登る直前に聞こえた高音は、装置の作動音だったのだ。

 離れて様子を伺うアタルの存在を全く気にせず、転入生は宙をひらりと舞いながら建物から建物へと移動していく。今まで見たことのない彼女の動きに、幻獣は翻弄ほんろうされるように首をあちこちに傾ける。


 幻獣と同じく、アタルもその軌道に翻弄されていたが、ひとつ困ったことがあった。


 ……宙を舞う姿は素晴らしいのだが、その度に彼女のスカートもひらひらと舞う。そして、その奥に隠されていたものがその都度露わになる。黒のブレザーということもあいまって、黒と〝ピンク〟のコントラストが余計に映える。

 戦闘中という予断を許さぬ状況であるが、青春真っ盛りの男子高校生であるアタルには、別の意味で刺激的な光景であった。


(彼女は戦闘中だ。不意の出来事に備えなけらばならない)


 などと自分に言い聞かせるアタルではあったが、その視線は常にスカートに固定されている。そんなアタルのよこしまな視線を全く気にかけることなく、幻獣との戦闘は大詰めを迎えていた。足場を次々と変えて翻弄する転入生を、ついに幻獣は見失う。彼女は、その時を待っていた。


「いっけえええええぇぇぇぇぇ!」


 彼女は気合の入った掛け声と共に、両手剣の刃を地面に向け、勢いよく落下する。もちろん、その真下には、彼女の姿を見失った幻獣が立ちすくんでいた。

 そんな幻獣の背中へ、彼女は落下の勢いを加えながら、無慈悲に刃を突き立てる。鈍い音がしたかと思えば、幻獣の悲鳴がビルの合間を縫うように響き渡る。

 勢いづいた刃は幻獣の背骨を断ち切り、心臓まで達していた。致命傷を受けた幻獣が最後の力をもって暴れようにも、ぶるりと震えた後、そのまま地面へとたおれる。


 ――強い。


 倒れた幻獣から刃を引き抜こうと、四苦八苦する転入生の様子を眺めていたアタルは思った。最新式の武装を持っているだけに留まらず、それらを完璧に扱える技量。そして何よりも、自分より数倍の体格差を持った相手に怯えずに立ち向かう精神力。そのどれもが、並みの幻闘士ファンタジスタを上回っている。


 アタルが彼女のもとへ寄って、その戦いぶりを称賛しようとしたときだった――


『新たな幻想子反応を確認!』


 マナの警告通り、虹色の霧の中から別の幻獣が姿を現した。それも、先ほど倒したのと全く同じ鹿型の幻獣。しかし、今度は普通の鹿より少しばかり体格が大きいだけで、角もそれほど立派なものではなかった。


 だが小さくても、それが幻獣に違うことはない。現れた幻獣は一直線に転入生に向かって突進していく。まるで先ほど倒された幻獣の仇をとるかのように。そこでアタルは気がつく。


――先ほど倒された幻獣と、たった今現れた幻獣は、雄と雌の〝つがい〟だったのだ。


 得物を倒し終えたと、完全に気を抜いていた転校生は、慌てて剣を構えようとするが、間に合わない。復讐に燃える雌の幻獣の角が、彼女に向けられる。


 銃声が三発、その場に轟いた。


 すると小型の幻獣の体が一瞬だけ震え、力を失ったようにその場に崩れ落ちる。そのまま地面を滑る幻獣の体は、両手剣を盾に見立てたように立てかける転校生の目の前で停止した。


 一瞬の出来事に、唖然としながら彼女は構えていた剣をおろした。そして、目の前に転がる幻獣の死体をまじまじと観察する。幻獣の前脚と背骨の間には、三つの穴――銃創じゅうそうがあった。


『対象の沈黙を確認と同時に、周囲に漂う幻想子の濃度も低下。……あっ、たったいま周辺の脅威レベルが〝七等級クラスセブン〟まで落ちたのです!』


 アタルの右手には、硝煙のかわりに反幻想子アンチ・ファンタジウムが漂う拳銃が握られていた。それは昨夜、倉庫で用いた拳銃と同じで、競技用拳銃レースガンだった。しかし、昨日の拳銃とは少々毛色が違い、退制器コンペンセイターの取り付けられていない。その代わり、延長された銀色の遊底スライドに黒色の銃身バレルが特徴的な銃だった。


 アタルは持っている拳銃から、反幻想子が注入された弾倉マガジンを抜き出した。そして、一通りあらためたところで、背中に隠していたホルスターに銃をしまった。


『精密射撃拳銃〈フリージング・ポルクス〉の安全装置セーフティを起動するのです』


 カチリという音とともに、銃の引き金にロックがかかる。


「ありがとう、流石に今のは危なかった。……それにしても幻獣を三発、しかも心臓を狙って当てられるなんて、いい腕してるわね」


 転入生が歩み寄りながら、アタルに賛辞を送る。


「褒められるのは嬉しいけど、運がよかっただけさ。もし、君が倒した幻獣と同じ大きさだったら、間違いなく止めきれなかった」


 そうアタルは謙遜して見せた。警戒レベルが最低の〝七等級〟まで落ちたことにより、神経の高ぶりは徐々に引いていく。それは、転校生も同じであったらしく、暗い金髪を右手で払うと、頬を緩めた。


「あなた、お昼であたしと話した人よね? 名前は?」


 何気ない彼女の質問に、アタルは少しだけ答えに詰まる。昨夜のこともあり、名前を明かすのに多少の抵抗感を抱いた。しかし、ここで誤魔化しても、同じ学校に所属している以上、そんなことは容易に判明するだろう。むしろ、下手に誤魔化すのは得策ではない。そう判断したうえで、アタルは自分の名を明かした。


「僕は神代……神代かみしろアタルだ」


「『神代アタル』ね、覚えておくわ。あたしはレイラ、『レイラ・グローフリート』」


 見た目通りの洋風の名前に、アタルは違和感を感じる。


「あれ、苗字は『月宮つきのみや』じゃないのか?」


「ああ、知ってるのね」


 アタルの何気ない問いかけに、レイラはつまらなそうに地面に視線を落とす。どうやらこの手の質問は彼女には禁句のようである。


「確かに……あたしはこの国で財閥と呼ばれている月宮家、その現当主である月宮源十郎つきのみやげんじゅうろうの孫よ。でもいろいろ訳あって、この名前なの」


「ふーん、まあそれ以上深入りするつもりは僕にはない。ただ、君の持っている装備に興味はあるけどね」


 そう言って、アタルはレイラの足元に目をやる。普通の女子高生が履く靴にしては、無骨すぎるコンバットブーツである。しかし、ただのブーツではない。海の向こうで開発され、新技術が用いられた特殊な靴である。

 アタルの視線を読んだレイラは、得意げな表情に変わった。


「なかなか見る目があるじゃない。これは――」


「幻想子を壁面の分子に吸着させて、登ることができる靴だろう。そんな物が実用化されていたなんて知らなかったよ」


「でも、まだ完全には実用化されてはいない。重量制限があるし、幻想子の出力が安定していないから、まだこれは試作機プロトタイプ。あたしはその精度を高めるための実験に協力しているの。と言っても、実戦に使ったのは今日が初めてだけど」


 コンコンとレイラは地面をブーツの底で叩く。素材の固さゆえか、響きのいい音が耳に届く。あの靴で蹴られでもしたら、骨なら簡単に折れるかもしれない。

 彼女との距離は適正に保っておこう。そうアタルが思った時だった。


「ねえ、よかったら少しばかりあたしに協――」


『もう! 先ほどから何度問いかけても反応がないのでスピーカーを使わせていただくのです!』


 レイラが何か言おうとしていたが、アタルの端末から、それを遮る大音量が彼女の声をかき消した。音の主は、アタルのサポートAIのマナであった。それを聞いたアタルは、うんざりした表情でポケットから端末を取り出す。


「マナ、いったいどうしたんだって言うんだ?」


『大変なのです、大変なのです! ご主人様、早くしないとスーパーの特売時間が終わってしまうのです!』


 端末に表示されている時間を確認すると、確かに事件が起こる前に入ろうとしたスーパーのセール時間が終わりかけていた。


「マナ、知らせてくれるのはありがたいんだが……」


「それがあなたのサポートAI?」


 そう言ってレイラがアタルの端末を覗き込む。途端、彼女の表情は曇り、アタルから一歩遠ざかる。


「そ、そういう趣味の人ね……」


 アタルを視界に収めることがないように、そっぽを向きながらレイラは呟く。

 マナとの初対面時、大抵の人間はアタルに対してあらぬ誤解を持つ。持たないという人間は本当にそっちの趣味があるということになるが、アタルにとってそのような誤解は頭痛の種でもある。


「勘違いしないでくれっ! 僕は決してロリコンではない!」


『そうなのです。ご主人様はロリコンなんかではありません! その証拠に、先ほどの戦いでひらひらと舞うスカートから見える下着に視線を奪われていた健全な男子高校生なのです!』


(こいつ、何を言って――)


 主人を庇うために発したマナの発言は、場を凍りつかせるには十分すぎた。

 アタルは一瞬で血の気が引いて青ざめ、反対にレイラは顔を紅潮させて両手でスカートを抑える。同時に、鋭い殺気のこもった目でアタルを睨みつけた。


「最ッ低――」


「いや待て、誤解だ。何も見たくてみたわけじゃない、仕方のないことだろう」


 弁解とも、開き直りのようにも聞こえる言い訳。しかし、その発言はレイラの怒りの炎に更に油を注ぐ。その剣幕にアタルは己の生命の危機を感じた。そして、レイラの隙をつくように、本能の赴くまま彼女に背を向けて逃げ出した。


「待ちなさいっ!」


 止まれるわけがなかろう。それほどまでに、レイラは鬼気迫る表情を繰り出していた。


「マナっ! さっきの発言はなんだ、お前は僕をおとしめたいのか?」


 逃げ出しながらアタルは端末にいるマナに向けて叱りつけるように言う。


『ふえぇん、マナはご主人様にかけられた疑いを晴らそうとしただけなのです……』


「それだったら別の方法があっただろう。もっと場の空気をよめ、このポンコツAI!」


『ああーっ! 今、マナのことをポンコツって言いましたよね? いくらご主人様でもいまの発言は許せません。訂正してください!』


「なんどでも言ってやるさ、ポンコツ!」


『キイィィィッ! 許せない……許せないのです! マナのAIとしての尊厳を傷つけるような発言、報復に出るのです。ご主人様のプライベートで恥ずかしい情報をネットの海に垂れ流してやるのです!』


「そ、そんなことをしたら……ア、アンインストールだ」


『上等なのです! マナは死すとも、ネットの情報は死せず! ご主人様は一生ネットの中で晒し者として恥にまみれて生きていくのです』


 おそらく類を見ないであろう、人工知能AIと言い争う珍妙な事件が起こっていた。アタルとマナは互いに罵り合いながら、帰路につく。


 気が付けば日は既に暮れ、幻災に騒然としていた街はまたいつもの風景に戻ろうとしていた。

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