第25話 非情な選択を迫る宿命について

今日から、エッセイの内容を少し変えていこうと思います。これまでは、日本を変えるということを大きなテーマにしていましたが、こういうエッセイでそういうテーマは相応しくないと思いましたので・・・


やはり、60年以上を生きてきた人生をベースに小さなテーマで進めていくほうが楽だと思ったのです。


最近では、終活という言葉が使われるようになりました。60歳を過ぎて同級生が亡くなり始めると明日は我が身という言葉が示すように、きちんと死を考えなければならなくなるわけです。


残された時間がどんどん減っていく・・・


まあ、これを恐怖と思えばつらくなるのでしょうが、だからこそどれだけ楽しめるかを考えればワクワクすることも出来るわけで、個人的には辛くなることより、ワクワクする方に重きを置いているわけです。


何事にも、始まりがあれば終わりがある。それは小説だってそうだし、何より人生そのものがそうであろうと思うわけです。カクヨムは、私が最後にたどり着いた場所であり、何となく、ここが終の棲家になるのではないかと思います。


というわけで、11月に入ってから他のブログ等は止めることにしました。


そうやって何を得たかと言えば自由な時間です。残り少ない人生を活かそうと思って色んなことを書こうとして自由な時間が奪われていたことに気づかなかったということです。


山のように時間を費やした投稿によって得たものもありますが、当然失ったものもある。私は常日頃、得たものは見えるので分かるけど、失ったものは見えないので分からないから注意しなければいけないと思っていたし、そういう投稿をしたこともあるのです。


にも関わらず・・・ちょっと情けないというか恥ずかしい気がします。


残された時間が少なくなればなるほど、時間を大事にすることが大切であり、そのためには何を止めるかということが重要になると思いました。きっと、それが終活なのだろうと。


私には友達が居ません。それは、家族を優先することを考えて友達との交流を止めたからです。その結果、この上ない幸せを手にすることが出来ました。それは、私にとって良い選択だったのではないかと思います。


何かを得ようとすれば何かを失う。


これもまた正しいことであろうと思います。私たちは、限られた時間の中で、何を得て何を失うのか決めなければならない。そして、その選択からは逃れることは出来ない。


そこには非情という言葉が書くれているのかもしれません。


それが、我々に与えられた唯一の宿命であり、その先に我々の未来が待っている。こんなにワクワクすることはないのではないでしょうか?



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