第70.5話 別たれた家族


 コルドール山。


 ラスタビア勇国の北にそびえる山脈の中で、まず登る者がいない山の一つだ。


 一年中雪と風が止まないこの山は、吹き付ける氷風で瞬く間に体温が奪われ、延々続く雪の斜面に体力を削られる。


 その上、崖やクレパスが白い絨毯の下に隠れて死を潜ませ、雲がかかると一面の白に一切の視覚を奪われる。


 火の地獄と呼ばれる溶岩洞窟とは対極の、氷と風の冬地獄だ。山に慣れた者ですら避けて旅程を組み、住んでいる者は誰もいない。氷と風の精霊が漂うくらいで、魔獣の一匹も住処に出来ない過酷な場所。


 だからこそ、俺達には好都合だった。


 エハの父親で、白狐族の期待の若手だった十一尾のシュウ。アイツと要警戒の魔王軍である俺が会うには、誰にも見られず、聞かれず、入れない場所が必要だった。


 勇国には同族の目があり、帝国はそこかしこに諜報員が潜んでいる。パルンガドルンガはシュウが訪れる事自体がおかしく、思案に暮れていた所にグレイグがこの山を教えてくれた。


 過酷過ぎる環境を何とか出来れば、誰にも邪魔されず、何も気にしなくて良い、と。



「とーさま、さむい……」


「もう少しだ」



 背に負った毛布包みの毛玉を励まし、三回ほど長距離を抜けて大きな雪の盛り上がりの前に降りる。


 雪で完全に覆われてはいるが、ここが目的地の山小屋だ。入口は完全に埋まっていて、知らない者が見てもそうと悟られる事はない。


 そして、入り方は単純で簡単。



「行くぞ、エハ」


「ふきゅ?」



 全力で走って、俺達は雪の中に突っ込んだ。


 一気に押し退けて突っ切って、十数メートルもぶち抜くと岩をくり抜いた洞窟の中。一家族が暮らすのに十分な広さのそこには、魔炎石で作った暖炉を中央に様々な家具を備えてある。


 時間停止の魔術を施した食料棚。コールドスライムの粘液でパックした食器類。数百年でも朽ちる事のない魔樹製のテーブルと椅子。二人で寝ても十分な広さの簡素な――?



「…………ベッド?」



 見覚えのない家具が一つ、暖炉の近くにあった。


 長持ちするように形状記憶と再生の魔術が施されたダブルサイズのベッド。最後に来た百数十年前には、こんな物は無かった筈だ。


 匂いを嗅ぐが、何の残り香も感じられない。


 最後に使った後、しっかり手入れをして、シーツも毛布もきちっと皺を伸ばされている。すぐにでも使えるようにしているのか、使った跡を残したくなかったのか、どちらにしても几帳面な奴が置いて行ったのだと思う。


 それは誰だ?


 まさか、シュウか?


 だとしたら、何の為に?



「あったかーっ」


「っと、そうだな。先にあったまるか」



 エハを毛布ごとベッドに置き、暖炉にたっぷりの魔力を篭める。


 中の魔炎石が魔力を炎に変換し、次第に熱を広げていった。部屋の中を温めるにはまだ時間がかかり、その間にヤカンを雪で一杯にして天板の上に置く。


 地球と違い、この世界の雪は不純物が少ない。化学物質の汚染を考えず、いくらでも沸かして飲める。


 沸くまでの時間が暇になり、俺は食器棚の中を改めた。


 俺とシュウの他にもう一人分、綺麗な桜の柄が入った食器が見つかり、ピンッと脳裏に答えが閃く。


 あの野郎、ここで逢引きしてやがったのか。



「俺達の秘密の隠れ家に女を連れ込んでいたと。その女がエハの母親か? でも、何でアイツがそんな事をする必要があるんだ? 十一尾なんだから、女なんて選り取り見取りだったろうに…………ん?」



 温かい風がふわっとそよいだ。


 見ると、引き戸のように雪壁が横にずれ、桜色の和装束に身を包んだ白狐が入ってきた。


 一歩踏む度に十二本の尾が左右に振れ、肩や髪に積もった雪を払い落とす。

 前世の黒髪と真逆の白い髪は腰ほどまで伸びていて、優しく儚く美しい。かつて愛した妻の面影を色濃く宿し、俺は思わず前世の昔を思い出した。


 よく、似ている。


 幸せに出来たかはわからないが、隣で笑顔を絶やさず、いつも一緒にいてくれた最愛の妻に。


 駅で戦地への出兵を見送ってくれ、それきり二度と会えなかった愛しい人に。


 『私』の、大事な人に。



「お久しぶりです、お爺様。幾分縮みましたか?」


「ほっとけ。そういうミサは元気にしていたか? 無理に痩せようとして変な事をしていないだろうな?」


「お爺様こそ、魔狼族でのオイタの噂は白狐族にまで伝わっています。魔王軍でも盛大に盛ったそうですね? お婆様が知ったらどう思うでしょうか?」


「前世の事はやめておくれ。口調も昔に戻ってしまうよ。それで、考えてくれたか?」


「お爺様の頼みであれば。ただ、今世ではもう操を立てたく思います。私が愛する方は来世で待っておりますので」


「あぁ、それで良い。エハ、こっちにおいで」


「きゅーん?」



 毛布に丸まっていたエハを呼ぶと、顔だけ真ん丸から出して私達を見た。


 まだ寒いらしく、毛布から出る気配はない。仕方ないから丸ごと抱きかかえ、ミサによく見えるよう顔を向けさせる。


 ……小さかったミサを妻に見せるのに、同じようにした事を思い出す。


 あの時の妻の微笑みは、タンポポに似た穏やかな物だった。


 ひまわりや桜に形容するには控えめな、何にも代えがたい小さな一つ。あの笑顔の為に私は死地に赴き、命を懸けて賭して戦って――――?



「ミサ?」


「あ……っ」



 気付くと、ミサは顔を青くして後退っていた。


 視線の先にはエハがいて、怯えを表に強く出している。明らかに様子がおかしく、エハに何かあるのか顔を覗くが、そこには純真無垢の天使がいるだけだった。


 改めてミサを見て――



「!? ミサ!?」



 雪の壁を開け、彼女は外に駆け出していた。


 唐突な事に、私は俺に意識を戻して抜けようとする。



「『来ないで』!」



 彼女の言霊が耳に届き、移動の意志が止められた。


 何もできないまま、その場に立ち尽くす。何とかしようと思っても、十二尾の言霊の呪縛は一向に緩む事無く、壁は目の前で速やかに閉じていく。


 俺は、力の限り叫んだ。



「ミサっ!」


「ごめんなさい、お爺様っ! 私に、その子の母親である資格はないんです! 私は、その子の母親であってはいけないんですっ!」


「ミサっ! 待ってくれ、ミサっ!」



 無慈悲にも壁が閉じ、殆ど同時に動けるようになった俺は雪の壁を蹴り上げた。


 今世一番の力の篭り様に、二十メートル立方の雪の塊が宙に消し飛ぶ。白い視界が私達を出迎え、しかし、ミサの姿はどこにもなかった。



「――――『かーさま』?」



 懐かしい音が耳の届く。


 もう数百年使っていなかったから忘れていた。だが、その言葉だけは、俺が私だった頃の大事な記憶と共にあったから思い出せた。


 神社の祭りで私の手を引く、細く柔らかい五本の指。


 学び舎に行く時、呼び止めて差し出された弁当の包み。


 肺を患って、大して孝行も出来ない内に冷たくなった棺の中の白い顔。


 『母様』。



「ミサ……」



 まさか、エハの母親はお前なのか?

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