第96話 水と化して

 ちょっと前に話したと思うけど、水っていうのは人の生活に不可欠なものだ。

 どんな場所にいようと、水が無いと暮らしていけない。水が無ければ、生命を維持することもできない。

 人間の身体の60%は水でできているというしね。いわば、水は生命そのものだ。

 そう、水は生命。

 だから、水場は怪異の温床になるんじゃないか?僕は、そう考えたことがある。

 人間の60%は水。つまり、人間という生命の60%は水でできている。だから、怪異なるモノは生命でもある水を媒介にして現れるのではないか?

 水も怪異も、元々は人間の生命だったものなんだから。

 はは、自分で言うのもなんだけど、随分と滅茶苦茶な理論だね。まるで、どこかのインチキ宗教のお説法みたいだ。

 でも実際に、水のある所を舞台にした怖い話は多いでしょ?トイレ、お風呂、プール、池、川、海……。例を挙げていけばキリがない。

 これからする話は、そんな水場を舞台にした怖い話の……、うーん、なんというか、総括版と言ったらいいかな?

 まあ、そんな大それた話じゃないから、気楽に聴いててよ。……ふふ、気楽も何もないだろうけどさ。


 —水と化して—


 あの頃は、本当に何にも分かっていないバカだったんです。

 その人は、いきなりそんなことを言って語りだした。

 私たちはみんな世間知らずの大学生でした。持っていたのは、若さだけ。ただそれだけでした。若さという武器を振り回して、いい気になっていたんです。

 きっかけは、サークルOBの先輩からの誘いでした。

 知り合いの社長さんと一緒にクルーザーに乗るから、みんな遊びにおいでよ。そう言われて、私たちは嬉々として先輩について行きました。

 さすがにクルーザーに乗るのは初めてでしたけど、私たちがそんな風に呼ばれるのはいつものことでした。私たちは、そこにいるだけで喜ばれる”若い女”でしたから。サークル自体がもうそういう集まりになっていて、そっちの方に人脈がある先輩とかOBとかから、声を掛けてもらうんです。

 そうして、イケイケの大人たちが集まる場所に行って、ヘラヘラしながら座っているだけでいいんです。適当に相槌を打って、凄いですねって笑って、お酒を呑んで。私たちは、そうやってお金を貰っていました。アルバイトみたいな感覚で。

 中には一線を越えて大金を貰っている子もいましたけど、私はそんなことはしませんでした。身体を触られたりするのはしょっちゅうでしたけど、さすがにそれから先のことをしてまで、お金が欲しいなんて思いませんでしたから。

 その日集まったのは、私と、私の友達と、先輩と、先輩が連れて来た子が二人。そして、先輩から紹介された社長さんの六人。

 日焼けした黒い肌で、ボタンが吹き飛んでいきそうなほどパツパツのシャツを着て、その襟元にサングラスを引っ掛けて、高級そうな腕時計をした、いかにもって感じの人でした。パッと見は若く見えるけど、それは派手に遊んでいるからで、私たちよりずっと年上の男の人。

 先輩から、その社長さんの趣味は聞いていましたから、私たちはみんな派手な水着を着ていました。そのおかげか、社長さんはすぐに上機嫌になって、停泊してたクルーザーを見せびらかし出して。

 わあ、凄ーい。こんな凄いのに乗るの初めて。

 そんな適当なことを言って場を盛り上げて、ご機嫌を取りました。それに気をよくした社長さんは、免許がどうのこうのって自慢しながら、クルーザーを運転し始めました。

 陸が見えなくなるくらいの沖まで行って、私たちは乾杯しました。良く冷えた、難しい名前のシャンパンで。その後は、カクテルに、ビールに、ワイン。

 みんな、酔っていました。本当は飲んじゃいけないんだろうけど、社長さんも。注意なんてできませんでした。機嫌を損ねたら、お金が貰えなくなってしまうし、紹介してくれた先輩の顔を立てなきゃいけませんでしたから。

 私たちは社長さんのご機嫌を取る為に、自慢話に付き合ったり、バカのふりをしたり、写真を撮らせてあげたり、日焼けオイルを塗らせてあげたりしました。全部、お金の為、そう思いながら。

 けど、一人だけそういうのに不慣れな子がいました。

 それが、ミナコでした。先輩が連れて来た二人の子の内の一人。

 ミナコは、そういう場に来るのが初めてだったらしくて、社長さんの話に相槌を打つのもぎこちなかったし、身体を触られたりするのも嫌なようでした。お酒も飲み慣れてなかったのか、終始気分が悪そうな顔をしてて。

 それがバレたら、社長さんはきっと不機嫌になる。そう思って、私はそれとなくミナコを目立たせないようにしました。……でも。

 それが裏目に出たのか、酔いが回ってきた社長さんは、よりにもよってミナコを標的にしたんです。

 社長さんは、ミナコを無理矢理自分の膝の上に座らせようとしました。手を掴んで、引っ張って。それを振り払ったミナコは、逃げるように、

 ちょっと泳いでくる、

 そう言って、海に飛び込んだんです。そのまま……。

 酔っぱらってたせいだと思います。手足をバタバタさせて、あっという間に沈んでいって。

 私たちは、一気に酔いが覚めました。もう一人の子は、悲鳴を上げて泣き叫んでました。先輩と私と友達は、怖くなって身を寄せ合ってました。

 社長さんは赤くなっていた顔をみるみる青くして、狼狽えてました。助けるも何も、ミナコはもう深い深い海の底に沈んでいったから、どうすることもできませんし。

 しばらくして、社長さんはみんなに詰め寄りました。

 この船には、元々五人しか乗っていなかった。そうだな。

 その剣幕に、私たちは震えあがりました。

 まさか、ミナコの死を隠し通すつもりなのか。

 社長さんからしたら、ミナコの死は、これからの自分の人生を台無しにする障害としか思えなかったのでしょう。クルーザーの所有者、即ち責任者は社長さんですし、飲酒しているとなればなおのことです。

 当然、私たちは反対しました。泣き叫んでた子なんか、社長さんに詰め寄って怒鳴り散らしました。ミナコをどうしてくれるんだって。

 でも、社長さんは、その子に平手打ちをして無理矢理黙らせると、こう言い放ちました。

 お前らも、あいつと同じ目に遭いたいのか。

 ……どうすることもできませんでした。その場の、クルーザーの支配者は社長さんです。私たちは泣いて黙ることしかできませんでした。

 社長さんはその後、私たち一人一人に念を押すと、クルーザーを運転して停泊場に戻りました。本当は近くのホテルでパーティーをする予定でしたけど、その場で解散になりました。帰り際、全員に信じられないくらいの大金が配られました。

 余計なことを言うな。見ていたお前らも共犯だ。

 社長さんはそう吐き捨てて、帰っていきました。取り残された私たちも、各々タクシーを呼んで帰りました。

 その日の夜は、まったく寝付けませんでした。ミナコとは初対面でしたけど、ほとんど同い年の女の子が、目の前であんな簡単に死んでしまったのが衝撃で。目を閉じても、瞼の裏に怯えた顔で沈んでいくミナコの姿が焼き付いていて。

 結局、誰もミナコのことを話さなかったみたいです。私も、友達も、先輩も、ミナコの友達も。ミナコはきっと、失踪人として扱われたんでしょう。

 ミナコの両親は、忽然と消えてしまった娘のことをどう思っているのだろうか。真実を知ったら、どう思うのだろうか。そう考えると眠れなくなって、私はしばらく睡眠薬が手放せなくなりました。

 サークルに顔を出すのもやめて、友達とも先輩ともそれっきり疎遠になりました。大学をなんとか卒業できた後も、私は生活に身が入らなくて、半分引き籠りのような状態で暮らしていました。

 そんなある日のことでした。先輩から連絡が来たのは。

 先輩は、会って話がしたいと言いました。私は怖かったけど、先輩と会うことが、ずっと逃げ続けてきたあのことと、向き合うことになるんじゃないかと思って、会うことにしました。

 待ち合わせ場所のコーヒーショップに行ったら、車椅子姿の先輩がいました。恐る恐る、何があったんですかって訊いたら……。

 車を運転していたら、ハンドルを切り損ねて、橋から落下したらしいです。辛うじて一命は取り留めたけど、下半身が言う事を聞かなくなって。片足は、膝から下がありませんでした。

 言葉を失っていると、先輩は暗い顔をしながら、伏し目がちに、こう呟きました。

 ……ミナコの声がした。

 ……え?

 橋から落下して、車が川に沈んで、溺れている時に、耳元でミナコの声がしたらしいんです。

 ———ちょうだい。

 その瞬間、意識を失って、気が付いたら病院だった、と言っていました。

 まさか、そんなことが。

 動揺していると、先輩はぽつぽつと話し始めました。

 あんたの友達も、ミナコの声がしたって言ってたよ。プールサイドで転ぶ直前に。あっちは半身麻痺で、右腕が動かせないって。

 ミナコの友達は、お風呂で脳梗塞になって半身麻痺だって。今は精神病院にいるから、どうなってるかは知らないけど、多分左腕が使えないんじゃない?

 そ、それって、どういう意味ですか。

 恐る恐る訊くと、先輩は無表情で力なく呟きました。

 あんたのところには、まだミナコが来てないみたいね。

 その瞬間、いてもたってもいられなくなって、コーヒーショップから飛び出しました。そしたら、いつの間にか外は雨が降っていて、


 ———ちょうだい。


 ミナコの声でした。耳元でそれが聴こえた瞬間、横断歩道の手前にいた私に向かって、バイクが突っ込んできて……。

 運転手は、雨でスリップしたと言っていました。私の身体は吹き飛ばされて、コーヒーショップの壁に叩きつけられました。

 先輩とは、それっきり会っていないんですけど、私はこう考えているんです。

 ミナコは水になって、私たちに復讐しに来たんだろうって。

 先輩は、川。友達は、プール。ミナコの友達は、お風呂。そして私は、雨。

 海の底に沈んだミナコは、水になって、巡りに巡って、私たちの元にやってきたんです。自分のことを見捨てた私たちに、復讐する為に。

 ”ちょうだい”って言ったのは、私たちの身体のことなんでしょうね。

 ミナコは、先輩から足を、私の友達から右腕を、友達からは左腕を、持って行った。自分の身体を取り戻して、最後はきっと、社長さんのところに復讐しに行くんでしょう。

 社長さんが今どうなっているのは知りませんけど、あの男のことだから、凝りもせずに、またクルーザーに乗っているのかもしれませんね。だったら、ミナコも近くて復讐しやすいでしょうね。

 そう言ってコーヒーを啜るその人を前に、僕は言葉を失った。

 あ、あの、じゃあ、それって……。

 ええ、コーヒーショップの壁は、ガラスでできていましたから。割れたガラスに頭から突っ込んで、こうなったんです。きっとミナコは、社長の苦しむ姿を直に見たかったんでしょうね。

 ……優しい子だなって思いましたよ。私たちの命までは、持って行かなかったんだから。

 僕がまた言葉を失っていると、その人は慣れた様子でレジで会計を済ませて、白い杖を片手に外へ出て行った。

 

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