第86話 大小の手形

 ああ、あったあった。怖い話によく出てくるやつ。

 手形だよ、手形。

 そういう怖い話、よく聞くでしょう?

 心霊スポットの壁に血の手形がついていたとか、幽霊に襲われて、身体に手形のようなアザをつけられた、とかさ。

 そんな手形に関する怖い話の中に、こんな有名なやつがある。

 心霊スポットに車で行ったら、フロントガラスにいっぱい手形をつけられた。慌てて逃げ出して、ガソリンスタンドでそれを拭いてもらっていると、ひとつだけ拭いても拭いても消えない。なんと、それだけ外側からじゃなくて、内側からつけられていた。

 今からする話も、結果だけ言えば、そんな話なんだけどさ。


 —大小の手形—


 タクシーの運転手をしている人から聞いた話。

 私用でタクシーに乗る機会がたまにあってね。僕はそういう時は決まって、何か怖い体験をしたことはないですか?って運転手さんに訊くことにしているんだ。

 だって、タクシーなんて怖い話の宝庫だろ?怪異の温床として、それはそれは優れている舞台だよ。

 実際に、どんな運転手さんも、ちょっとした怖い体験談のひとつやふたつは持っているものでね。色んな話を聞かせてくれるんだ。これも、その中のひとつで、とても印象に残っている話なんだ。

 職業柄、色々な意味でヒヤリとする経験はしますが、中でも一番記憶に残っているのは、あれですかねえ。

 初老の運転手さんは、粛々と語りだした。

 数年前、とある地方でお客さんを乗せた時のことです。

 年の暮れの夜のことでしたから、忘年会帰りだったのでしょう。見るからに酔っぱらっていたお客さんは、住所を言うなり寝入ってしまいまして。初めてのお客さんでした。

 聞き慣れない地名だったのでカーナビで住所を検索すると、緑一面の画面の中にポツンと二、三軒の家があり、ナビはその中のひとつを示していました。

 やれやれと思いながら、車を走らせていると、見る見るうちに街灯がほとんど無い山道に入り込んでいきました。大きな吊り橋を渡り、グネグネと何度もカーブを曲がり、道路の舗装がアスファルトから砂利道に変わって少しすると、ようやく目的地に辿り着きました。

 眠っていたお客さんに声を掛けて、会計を済ませていると、千鳥足のお客さんが去り際に、ふとこんなことを言ってきました。

 おう、あんた、帰りはオバケに気をつけなさいよ。

 えっ?

 困惑していると、お客さんは赤ら顔でニヤニヤと笑いながら、

 来る途中に吊り橋があっただろう。この間、そこで心中があったんだ。

 と、言ってきたんです。

 お客さんこそ、お気をつけて。良いお年を。

 と、軽くやりとりして、車を走らせました。

 怖がってはいませんでしたが、なんとも嫌な気分になったことを覚えています。そんなこと教えられなければ、心置きなく帰ることができたのに、とね。

 それで、またグネグネとしたカーブの山道を降りながら、市内の方へ戻っていると、件の吊り橋に差し掛かりました。

 極力、何も考えずに通り過ぎようとしていると、急に背筋が寒くなりました。

 嫌な予感がして、バックミラーに目をやると、後部座席に女性が座っていました。顔は見えませんでしたが、服はぐっしょりと濡れているようでした。それを見た瞬間、車内に独特な臭いが漂いました。なんといったらいいか・・・、まるで腐った藻のような、ヘドロだらけの溝のような、そんな臭いでした。

 こんなこと、本当にあるものなのかと驚愕しましたが、だからといってどうすることもできません。街の明るさを目指して、黙り込んだまま、ひたすら車を走らせることしかできませんでした。

 女性は何も、ものを言いませんでした。怖くて振り返ることもできませんでしたから、バックミラーの中に、ただ存在しているだけなのだろうかと思いました。

 ところが、麓に降りてきて、山道がそろそろ終わろうかという時に、突然後ろから、バン!と音がしました。

 驚いて、咄嗟にブレーキを踏み、車を停めました。怖くて怖くて、振り返ることも、バックミラーを見ることもできないでいると、もう一度、バン!と音がしました。

 慌ててアクセルを踏み、猛スピードで街を目指しました。生きた心地がしませんでしたよ。恐怖のあまり、バックミラーは明後日の方向へ向けました。

 ぽつぽつと街灯が増えてきて、ようやく街に辿り着くと、コンビニに入りました。後ろを見ないように外に出て、人気のあるコンビニの店内から車の中を伺うと、車内はもぬけの空でした。

 ほっと息をついて、缶コーヒーを買い、車に戻ると、車体の右側が濡れていることに気が付きました。雨など降っていなかったのに。

 水たまりでも跳ねたんだろうかと思い、車に乗り込むと、後部座席の右側の窓に手形がついていました。泥のような汚れの手形がね。

 ああ、これが噂に聞くあれか、こんなベタなことがあるのかと、肩を落としました。気味が悪かったので、仕方なく車に常備してあったウェットティッシュでそれを拭いていると、妙な事が起きました。

 手形を拭いたはずなのに、また手形が現れたのです。拭き取ったものよりも、小さな手形が。

 まさかと思い、外に出ると、その小さな手形は外側からつけられていました。

 内側に、大きな手形。外側に、小さな手形。

 不気味に思い、その日は流すのをやめました。

 後から調べたのですが、件の吊り橋では、母親が子供と一緒に身を投げて、心中を図ったらしいです。

 当然、二人とも即死だったらしいのですが、子供の遺体だけ流されてしまい、川の下流で発見されたそうです。

 あの時、母親は我が子の元まで行こうとして、吊り橋から乗車してきたのでしょうか?

 結果、どうなったのかは分かりませんが、あの手形から推測するならば、恐らく親子は再会を果たすことができたのでしょう。窓越しに、掌を合わせて。

 以上が、私の体験談です。

 運転手さんは、穏やかに話し終えた。とても物腰柔らかで、親切な人だったよ。

 怖いけど、ちょっとロマンチックだと思わない?窓越しの親子の再会なんてさ。迎えに来たよ、なんてね。

 まあ、再会した後、親子がどうなるのかは分からないけどねえ。

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