第36話 溝の女
突然だけど、幽霊に重力って通用すると思う?
幽霊っていうと、大体浮かんでるイメージじゃない?まあそうでもないか、そもそも幽霊はこの世のルールに則った存在じゃないしね。声だけのヤツや影だけのヤツもいるし。
でも、最初の方に話した降りてくる死体の話も、幽霊は重力に沿っているよね。実際はどうなんだろうね。一部の幽霊には、慣性の法則は通じるのかな?
—溝の女—
田舎に住む人から聞いた話。
その人はある時から通勤の際に、自転車を使うことにした。三十代を過ぎて、健康に気を遣いだしたんだね。5キロほどの道程を、毎日毎日、自転車を漕いで通っていた。
颯爽と家を出て、平坦な市街地を抜ける。会社は山を切り開いた小高い場所にあるから、手前は緩やかな坂になってる。そこを登り切るのが最後の難関だ。最初はきつかったけれど、慣れてくるとなんてことない。自転車を漕ぐ楽しさにも目覚めて、通勤は一種のライフワークになっていった。
そんなある日、仕事が立て込んで夜遅くまで残業することになった。終わった頃にはもう時計は12時を過ぎていて、会社にはたった一人。戸締りをして外に出ると、山の上だから辺りは真っ暗。しかもツイてないことに小雨が降ってる。夏場だったから、カエルがケロケロ鳴いていた。
ちょっとだけ後悔した。疲れているのに、小雨の中を自転車で帰るなんて。今日は車を使えばよかった。
でも愚痴っていたってしょうがない。ヘトヘトの身体で自転車に跨って、小雨を浴びながら坂を下って行ったんだ。
最初の内は下り坂だから、漕がなくても楽ちんだ。悠々と下っていると、カエルの鳴き声に混じって、水音が聴こえることに気付いた。
ちょろちょろちょろちょろ。どこかで水が流れている。どこだろう。辺りを見渡すと、普段は枯れている側溝が水で溢れていた。
不思議に思った。例え大雨が降ったとしても、この側溝は溢れるほどに水は流れないはずだ。ははあ、きっとどこかで枯葉や泥が詰まっているんだな。
それで詰まりどころを探し当てるために注視しながら下っていくと、坂の中腹辺りで妙なものを見つけた。
ぼろ切れみたいなものが側溝いっぱいに詰まっていたんだ。
ん?なんだこれ?
自転車を停めてよく見ると、茶色い毛布みたいなものが、ミチミチに狭い側溝にはまり込んでいたんだ。それによって水がゴボゴボ溢れて道に流れ出している。
まったく、なんでここにこんなものが。まあいい、いずれ誰かが取るだろう。
疲れているし、早く帰ろう。そう思ってペダルに足を掛けた時だった。
ゴボッ、ゴボッ、ゴボアアアッ。
変な音が聴こえた。カエルの鳴き声か?いや、それにしては・・・。
ゴボガボゲボッ、ゴボッ、ゴボッ。
・・・・これ、人の声か?やけに近くから・・・。
ゴバアアアアアアアアッ。
音の出所が分かると同時に、思いきりペダルを蹴った。側溝に詰まっていたぼろ切れ。ぼろ切れなんかじゃなかった。
人間だったんだよ。正確には髪の長い泥だらけの女だったんだ。それが幅30センチもない狭い側溝にミチミチに詰まっていたんだ。身体中の関節をあり得ない方向に捻じ曲げて、口から水を吐きながら絶叫していた。ぼろ切れだと思っていたのは、泥で汚れた服だった。
一目でこの世のモノじゃないって分かった。うわああああああっ。震えながら大急ぎで坂を下った。
すると、後ろからまたあの、ゴボッ、ゴボッ、って叫び声が聴こえてきた。
生きた心地がしなかった。追ってきたんだよ。叫び声が。
ゴバアアアアッ。ゲボアアアアアッ。
恐る恐る振り向くと、狭い側溝をあり得ないスピードでその女が流れてきていたんだ。流れるっていうよりは、無理矢理迫ってきているようだった。身体をグネグネくねらせながら、大口を開けて絶叫しながらね。
うわあああああああっ。死に物狂いで漕いでいると、坂を下り終わってあっという間に市街地に出てきた。気が付くと、あの女の声も止んでいたけど、気が気じゃない。大急ぎで家に帰った。道の側溝をなるべく見ないようにして。
それから、自転車通勤はパタリとやめて、次の日からは車で通勤することにしたそうだ。車なら絶対に追いつかれない。そう考えたんだって。
その坂で過去に何があったのかは分からないそうだけど、少なくとも知る限りは事故なんて起きていないそうだよ。別の理由でその会社を退職するまで、溝の女も二度と見ることはなかった。
一体何だったのかな?その溝の女。怖いけど、ちょっとおもしろいよね。溝を流れてくるなんて。幽霊は水で流れるのかな。はは。
それとも、身体がバキバキで動けないから、水の流れに身を任せて動いていたのかな?
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