最後の3分間喰らい

なかいでけい

最後の3分間喰らい

「私は最後の3分間を喰らう天使だ」

 白い髪をしたその男は、唐突に言った。

 その直前に喋っていたのは、注文を取りにきた若い女店員の横柄な態度についてだったので、俺は呆気取られてしまった。

「ちなみに、人間の寿命っていうのは、生まれた時点で長さが決まっているっていう話、知っているだろう?」

 白い髪の男は、おしぼりで手を拭きながら言った。

 俺は男が一体何の話をしようとしているのか、全く想像がつかなかった。ただ、男の言う寿命の長さが生まれた時点で決まっている、というのは、以前にマンガか何かで読んだことがあった。

 なので、俺はぼんやりと、小さく首を縦に振った。

 妙なヤツに絡まれてしまった。俺はこの白い髪の男と共に飲み屋に入って来てしまったことを、早くも後悔し始めていた。


 白い髪の男と出会ったのは、十数分前のことだった。

 駅に向かって歩いていた俺の前を、この男が歩いていたのだ。

 男のジーンズのポケットからは、長財布が飛び出しており、それが不安定にふらふらと揺れていた。危なっかしいな、と思っていると、案の定、男のポケットから長財布が滑り落ちた。

 男は全くそれに気が付く様子もなく、どんどん行ってしまう。

「財布落としましたよ!」

 俺はずっしりと重い長財布を拾うと、男の背中に向かって叫んだ。

 男は振り返ると、驚いた様子で俺に駆け寄ってペコペコと何度も頭を下げた。

「いやあ、助かった。丁度銀行から金をおろしたばかりで、大金が入っていたんだ」

 男はそう言って、財布を開いた。

 俺はこの時、これはもしや、財布から金を抜いただとか、そんな言いがかりをされるのではないか、と警戒した。

 しかし、それは俺の杞憂だったようで、男は財布の中を確認すると、ほっと胸を撫でおろした。どうやら財布の中身に問題もないし、俺にねこばばの言いがかりをするつもりもないらしい。

 一瞬見えた男の財布の中には、確かに分厚い札束が入っていた。

「あんた良い人だ。ちょっとおごらせてくれないか」

 男は俺の肩を掴むと、すぐ近くにあった居酒屋を指さした。

 

 そういうわけで、男は俺の向かいに座って、おしぼりを丁寧に折りたたんでいる。

「これから話すのは、あんたの人生にとって、とても大切なことなんだ。いいかい、私はあんたが良い人だったから、金をネコババしない高潔な精神を持っている奴だから、この話をするんだ」

 白い髪の男は俺の瞳を覗き込むようにして言った。

「大切なこと、ねえ」

 俺は、鼻で笑いながらお冷に口をつけた。

 これはきっと、ネットワークビジネスだとか、新興宗教の勧誘が始まるに違いない。一瞬でもその気配が見えたら、黙って席を立とう。

 俺はそう心に決めて、男の次の言葉を待った。

「俺はそう心に決めて、男の次の言葉を待った」

 男は早口でそう言うと、にやりと笑った。

 俺は一瞬、男が何を言ったのか、理解できなかった。

 しかし、何度か男が言った言葉を頭の中で繰り返すうちに、それが直前に自分が考えたことと、寸分違わないことに気づいた。

 俺が呆気に取られていると、先ほどの横柄な態度の女の定員が、ガチャンガチャンと騒々しい音を立てながら、枝豆とビールジョッキをテーブルに置いて去って行った。


「その枝豆、どれでもいいから、一つ手に取ってくれ」

 男はそういって、枝豆を指さした。

 俺は促されるまま、ザルに盛られた、茹でられた枝豆を一つ、手に取った。

 すると、枝豆は俺の手の中で、ゆっくりと白い花に形を変じた。

 俺は小さく悲鳴をあげて、花から手を放した。

 そんな俺の口の前に、男は一本指を立てた手を伸ばした。

「奇跡は一人の前で起こさなければならない。だからいいかい、静かにするんだ」

 そう言われて周囲を見ると、俺の小さな悲鳴を聞いた客たちが、怪訝な顔をしてこちらを見ていた。俺は彼らへ向かって、なんでもないんだ、というような仕草をしてみせた。

 俺はたったいま手放したばかりの白い花を手に取った。それは造花ではない、生きた花だった。

 間違いなく、つい数秒前までは、枝豆だったはずなのだ。

 そうやって眺めていると、白い花は、今度は一枚の鳥の羽に形を変じた。

 俺は息をのんだ。

 いま、目の前で起こった現象は、断じて手品などではない。物体が別の物体に置き換わったわけではないのだ。明らかに、枝豆や花が、俺の手の中で、見ている間に、徐々に別の新しい姿に変化していったのだ。


「あんたはもうすぐ、寿命が来て死ぬ。あんたはまだ33歳だけど、このあと、この店に突っ込んできたトラックに押しつぶされて死ぬんだ。他の客とともに」

 男はビールジョッキを傾けながら言った。

「は、はあ?」

 俺は震える手で鳥の羽をテーブルの上に置きながら、声を裏返らせた。

 男は人差し指をたてた手を、自分の口元に当てた。

「時間があまりないのだ。私が干渉出来るのは最後の3分間だけだからね。ただ、私は、あんたの高潔な魂に胸を打たれ、あんたの魂を救ってやろうと思ったのだ。だから、私を信じて、そして決断してほしい」

 男は真っすぐ、俺の方を見た。

「あんたはこの後、突っ込んできたトラックに押しつぶされる。だけど、即死はしないんだ。あんたはたっぷり158秒、ズタズタになった体を動かすこともできず、痛みに悶え苦しむ。絶叫したくてもできず、自分で死ぬこともできず、無限にも感じる158秒の間、あんたはたっぷり、地獄の責め苦よりも辛い痛みを味わう」

 男は慈愛に満ちた瞳で、俺を見つめている。

「今は想像もできないだろうが、あんたは死ぬまでの間、痛みの中で、最愛の人を、両親を、恋人を、呪うことになる。どうしてここに居てくれないのだと、どうしてこんな目に遭っているのに助けてくれないのだと、何度も何度も恨むことになる。あんたは、たったの158秒、3分程度のことだと思っているかもしれないが、人間の体感時間なんていうのは絶対的な物じゃないんだ。状況に応じて、いくらでも伸び縮みする。あんたは死の間際、脳みそが生き延びたいあまりに極大に引き延ばした体感時間の中で、痛みに気が狂いながら、愛する人たちを呪い恨むことになるんだ」


 俺は、男の言葉が一瞬途切れたところで、慌てて尋ねた。

「ちょ、ちょっと待って下さい。あなたはさっき、決断してほしい、と言いましたよね? 俺は一体なにを決断すればいいんですか? 俺を助けてくれるんですよね?」

 俺がそう言うと、男は頷いた。

「痛みを感じずに、死なせることが出来る」

 男の言葉に、俺は気が遠くなりかけた。

 それはつまり、俺はどっちにしても死ぬということだ。

「私は最後の3分喰らいの天使。人間の最後の3分間きっかり寿命を削り取ることが出来る。たったの3分ではあるが、人間の魂に干渉することが出来る。私に任せると決断してくれれば、私はあんたの寿命から最後の3分間を喰らい、あんたが痛みに苦しみ、誰かを恨む運命を削り取ってあげられるんだ」

 男はそう言って、自分の腕時計に視線を落とした。

「あんたの命が消滅するのが、21時53分47秒。そして今が、21時48分42秒だ。良いかい。私は最後の3分間を削り取るんだ。最後の3分に突入してしまったあとでは、削り取ることは出来ない。つまり、21時50分47秒よりも前に、決断してもらう必要がある。私へ、魂を喰らってくれと、決断してもらわなければならない。あと2分しかないぞ」

 男は落ち着いた調子で言った。


 俺は常軌を逸して早鐘を打つ胸を押さえながら、ガタガタと震える左手を眺めながら、自分がもうすぐ死ぬのだという、強力な重力を放つ事実に飲み込まれまいと、必死に思考を巡らせた。

 俺はまだ、死にたくなんかなかった。

 死にたくない理由なんか、いくらでもあった。

 俺は冷静になろうと、強く目を瞑った。

 そうして、非常にシンプルな解決法を思いついた。


 俺がこの場から移動すれば良いだけなんじゃないのか?


 そうだ、ここへトラックが突っ込んでくる、というのなら、この場から逃げればいいだけじゃないか。

 俺はそう思い、立ち上がった。

 男は澄んだ瞳で俺を見上げている。

 しかし、どういうわけかそれ以上は体が動かなかった。

「とても悲しいことだが、人間ごときが運命を変えることは出来ないんだ」

 男は沈痛な面持ちで言った。

 俺はどうにかしてこの場から逃げようと、足へ渾身の力をこめるが、一切動く気配がない。これも、この男がやっているというのか。さっきの枝豆を花に変えたような、不思議な力でもって、俺をここに縛り付けているのだろうか。

「これは主の御力で、私は何の干渉もしていないのだ。残念ながら」

 男は俺の心の言葉に答えた。

「じゃあ、じゃあ、俺は本当に死ぬんですか」

 いつのまにか、俺は泣いていた。

 男は黙ってうなずいた。

 俺は再び椅子へ腰を下ろすと、震える腕を抱えるようにして腕時計を確かめた。

 21時50分19秒

 もはや、決断まで30秒も時間は残されていなかった。

 俺はトラックに押しつぶされ、158秒、それ以上に引き延ばされた体感時間の中で、地獄の責め苦よりも辛い痛みに耐えなければならない。

 目の前の男に、天使に頼めば、それを味わわずに済むのだ。

 どうせ死ぬのなら、もはやあと3分20秒しか人生が残されていないのなら、それが20秒になったとしても、大して変わりはないんじゃないのか。

 俺はいつの間にかつぶっていた目を開けると、目の前の男へ、天使へ、言った。

「俺の魂を――喰らってください」


***


 帰った客のテーブルを片づけていると、少し離れたテーブルにつっぷしている客がいた。眠ってしまっているのだろうか。たしか、さっき白い髪をした奇妙な雰囲気の男と一緒にやってきた客だったはずだが、白い髪の男の姿は見えない。

 トイレにでも行っているのだろうか。

 ふと柱にかかった店の時計を見ると、丁度22時になったところだった。


――最後の3分間喰らい 完

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