04/兄と姉
「……なるほど。事情はだいたい分かりました」
絢の口から語られたここに至るまでの経緯を聞き、澪は淹れ直したコーヒーを口に含む。癖のないすっきりとした後味だったはずのそれは、妙に喉の奥で引っ掛かる。
頭では理解した話でも、心が追いついていないのだろう。あるいは先ほど聞かされた姉の日記の一説に、まだ動揺しているのだろうか。
イブン・アナク・サレハと絢・アナク・サレハの兄妹が貧困と紛争を苦に祖国を脱し、何の伝手もないままに安寧と富を求めて《東都》に訪れ、成れの果てとして解薬士になった、ということは澪の見立て通りだった。
加えて彼女らは解薬士としてもほとんど
今回もその一環だった、と絢は唇を噛んでいた。
アーティスト連続自殺。ここ一年くらいの間に起きている《東都》に住むアーティストの自殺というゴシップに、二人は目を付けた。
連続、とは言うものの頻発したり連鎖している様子はなく、また死んだのがアーティストであるという以外には特に共通点もない。活動分野は文学、音楽、イラストなど多岐に渡るし、積極的に凶器などを用いて死んだ者もいれば、単に薬物を誤飲したのではないかとされるような死に方をした者もいる。
だが事実関係などどうでもよかったし、真実など問題ではなかった。要は大事なのは金になるかどうか。そしてその価値を担保するのは真実っぽさと人の気を引き付ける話題かどうかということ。
二人は地道にそれぞれの自殺について調べ、もっともらしい論理でそれらを関連づけた。
そして見つけてしまった。求めていなかったはずの真実の、その断片を。
自殺したアーティストたちは皆、過去に大なり小なり何らかの炎上騒ぎの渦中に立たされていた。
あるイラストレーターは描いた小学生女児のキャラクターが果物を頬張る絵が、過度に性的で倫理に悖ると強烈な非難を浴びていた。
あるシンガーソングライターはSNSに残っていた数年前の差別発言とも取れる投稿を掘り起こされ、徹底的に糾弾されていた。
ある小説家は作品のなかで医薬至上社会に向けて痛烈な皮肉を浴びせ、出版社もろとも嵐のような批判に晒された。
ほんの数日で収束したものもあれば、一月以上もの間物議を醸したものもある。だが死んだアーティストには少なからず、心ない言葉を浴びせる敵がいた。
二人はそこで手を引くべきだったのかもしれない。だが解薬士としての義侠心が二人をさらに一歩、前へ進ませてしまった。
アーティストたちの自殺には例外なく遺書があり、それが決め手となって自殺で処理されていた。
だが立ち止まって調べてみれば、その自殺自体にも不自然な点が散見された。
まず彼らの死には文脈がなかった。自殺前日にレコーディング会社と打ち合わせをしていたり、校了間近の原稿を抱えたりしていた。
遺書を根拠にろくな捜査が為されていなかった。だが素人目に見ても、彼らの自殺があまりに唐突であることは明らかだった。
そして絢たちの疑念を裏付けるかのように、調査に妨害が入った。
あらぬ罪を着せられて同業の解薬士に狙われ、刺客にも襲われた。兄は妹を逃がすために単独で囮になり、そのまま消息を絶った。きっともう二度と会うことはない。
境遇は悲惨だし、同情も催した。だがそれだけだ。まだキャリアも浅く、組織の末端でしかない澪に何かしてやれることはない。
「……ですが、それはわたしの元に訊ねた理由になっていません。ミス・サレハ」
そう言葉を発するのに、無数の思考と幾重もの逡巡を必要とした。聞けば返ってくる言葉を想像することは容易だ。だがそれを聞いてしまったが最後、澪は自分が引き返すことができなくなるという確信があった。絢・アナク・サレハは〈higiri〉――飛鳥雫の死を、その最後の言葉を、知っているのだ。
「七年前、デジタルアーティストだった〈higiri〉、つまりあんたの姉は、自分でその命を断った。この一年、自殺したアーティストたちと同じように」
絢の言葉は単なる事実として淡白に放たれ、だが澪の心に大きな波紋を広げていく。奥底に積もって固まっていたはずの昏い感情が溢れるように舞い、歪んだ水面を濁らせる。
「悪いが少し調べたんだ。だから知っている。あんたはまだ、姉が自殺したとは思ってないんだろう?」
「だとしたら、何なんですか?」
牽制するように睨む。だが鋭く刺すつもりで発した言葉は弱々しくたゆたって消える。
「つまらない質問すんなよ。分かってるだろ?」
挑戦的な眼差しだった。まるで絢は澪を試そうとしているかのようだった。
澪はちらと絢を伺い、そして視線を伏せる。瞬時に広げられる思考は絢の目論見に与することを許容できないと訴えていた。
姉の死が自殺などではないことは分かっている。それは主観的な願いであり、客観的な事実でもある。姉は死ぬ三日前に自身二度目となる個展開催のオファーを受けている。これから死ぬ人間は半年も先の予定を立てたりはしない。
だが姉の死に対する不信感と、目の前に座る異国の解薬士に手を貸すかは別問題だ。
なにせ澪は事実上の謹慎中の身である。理由も意味も納得しかねる処分が下るまでの自宅待機は厳命であり、不服だからといって無視すればまたペナルティが課せられる。加えて七年前に終わったはずの事件を掘り起こそうとするのだ。それがどんな結果になったとしても、過去の過ちと怠慢を指摘された組織は決していい顔はしないだろう。ただでさえ震災以降の《東都》で求心力を失っている警察権力は、そうした不祥事には特にセンシティブだ。最悪の場合は警視庁に、あるいは《東都》にいられなくなるかもしれない。
だから真実を明らかにするにはしかるべき順序を辿って、あくまで法に則って、行われるべきだ。
きっとそれには時間が掛かるし、澪がもっと大きくて強い力を手に入れる必要がある。
姉の死の真実を巡って戦うとしても、いや、本気で戦おうとするならば、それはきっと今ではない。
「あたしは
強さと気丈さを装う絢の言葉には、抑えきれない哀しみが滲む。
分かっている。今ではない。姉のために戦うのは。
頭ではそう理解していても、感情は意志に反して真逆の方向へと加速していく。
澪は絢をかつての自分と、あるいは今も尚そこにいるのに覆い隠してきた自分と重ね合わせる。
あるいは絢の境遇は澪よりも遥かに過酷に違いない。
何故なら澪には選択肢があった。刑事となり、組織のなかで明らかにされることにならなかった真実を追う。それを望めるだけの環境があった。
しかし絢・アナク・サレハは違う。信頼できる兄は失われ、頼れるものは身一つ。彼女には今しかない。この機を逃せば、兄と同じ末路を辿るか、あるいは一生の後悔を抱えてこれからの長い人生を生きることを強いられる。
見捨てられない。
余りに危うい絢・アナク・サレハという女を。感情を研ぎ澄ませ、自らの命もろとも怨敵の喉元へ突き立てることを望むような、抜身の刀さながらの彼女の在り方を。
「……それで、具体的には何をどうするんです?」
「そうこなくっちゃ」
絢は安堵の息混じりに白い犬歯を剥き出しに、獰猛に笑む。着ていたつなぎのポケットから傷だらけの
やがて絢はディスプレイに浮かび上がった立体映像の資料を澪へと提示する。
「……これは?」
「
今度は得意気に犬歯を覗かせて笑んだ絢に、澪は溜息を露わにした。
「ど、どうしたんだよ?」
「いいですか? ミス・サレハ。ここに〝遺書があるだけで打ち切られた捜査〟〝現場の判断ではなく上層部?〟とありますね? わたしが知るところの話ではないのでこれはこの資料が事実だと仮定しての推測ですが、もし上層部の指示で自殺として事件を即座に収束させているならば、良くても警察上層部、悪ければそれに影響力を持ったより大きな何か、が背後にいると考えられます。つまり馬鹿正直にこの資料を発表したところで、揉み消されるのが必然。それはあなた単独でも、わたしの助力があったとしても変わりません。わたしはただの現場の刑事です。残念ながらミス・サレハが思っているような力はありません」
「そ、そうなのか……?」
威勢のよかった絢が困惑を露わにする。澪は畳みかけるように言葉を続ける。勢いや感情に任せてはいけない。うねる激情はそのままに、思考はクレバーに。飛び込むと決めた以上、失敗も間違いも許されない。考えうる限りの徹底さで、どんな力であっても干渉の余地がないほどの真実を突き付ける必要がある。
「それにそもそもこれは自殺という結論に疑いを投げかける資料であって、他殺を証明するものではありません。お兄さんの真意がどこにあるか、わたしには測りかねますが、きっと命懸けで調べた事実が容易に掻き消されるような事態を望んではいないですよね?」
「お、おう……」
口籠り、ますます勢いを失っていく絢。澪はコーヒーを飲み干して立ち上がる。気圧されるように絢は仰け反って澪を見上げる。
「ど、どうしたんだ?」
「今日はもう休みましょう」
「や、休むってそんな時間は――痛っ、痛えってば」
澪は絢を強引に引き起こす。澪より頭一つ小さい彼女は自力で立つのもやっとらしく、よろめいて澪の身体に寄り掛かる。
「怪我、してますよね。ここからはハードな日が続きます。いざというとき、あなたがその調子だと困るんです。寝たら治るような状態ではないことは承知していますが、今日だけはゆっくり休んでください。ミス・サレハ」
「…………絢でいい」
「わたしも澪で構いません。ゆっくり休みましょう、絢」
「し、仕方ねえなっ……休むよ。休めばいいんだろ」
一人で立てなかったことが余程恥ずかしかったのだろう。絢は一九歳の少女らしく年相応に頬を朱に染め、澪を突き離して顔を背けた。
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