潜航機動隊 幕間【子供の情景】
「ようするに、こどもがこどもとしてそんざいするには、おとながひつようなわけだ」
ずるずると引きずられる買い物袋(この生地はいかにも強靭だ──なにせベニヲは、スーパーを出てからずっとこの袋を地べたに引きずっている)の上に、薄紫のゆれるまるい影がかかって、いつまでもついてくる。その影のあるじを見つめていたアグリは、視線をそのままに「つまり、《そうたいか》ってことだな」
「そう、そうたいか──」定義とはすべて相対化のことだといってもいい、といいながら、ベニヲはアグリとつないだ手を振った。ふたりの小さな手の間で、紐がこすれる。
「ありていにいえば、ひかりがなければかげがそんざいしないのといっしょで、おとながこどもを、こどもだとみとめ、まもるか、あるいはさくしゅするか、どちらにせよ、それによって、おれたちはこどもになる」
紐の先で、青と紫の風船がたよりなくゆれた。買い物袋の上の影もふらふらと濃淡がゆれた。
「では、おれたちが、ちいさかったがこどもでないとき、おれたちはなんだったのか。それは──」
もう無い故郷とは違う色の空をみあげながら、ベニヲは立ち止まった。手を引かれたアグリも足を止める。遠くから、遊園地の音楽がシャボン玉のようにとぎれとぎれで聴こえてくる。
「《よわきもの》だった」
どちらがその言葉を口にしたのかはわからなかった。幼児の声は似かよっていて、高く、脆く、かわいらしい。
アグリは、自分より多少低い位置にあるベニヲの顔を見て、にぱっと笑った。
「ベニヲ、やっぱりきおくあるんだな」
「おれさまはガキのころでも、このくらいかしこかったぜ」
「ああ、そうだったな」
大人の微笑を無垢の上にのせて、アグリは自分より、歳も体も小さな従弟の手を握りなおした。
二人が本当にこの年齢の肉体を持っていた頃、手をつないで歩くなんてことはなかった。ただ歩くことは、凍えることであり、獲物になることであった。
ただ、孤独でいることもまた生存競争からの脱落を意味していた。
弱きもの、ではいられない。お互いに、あの六層の谷底でそう思っていたからこそ、心まで手を離すわけにはいかなかった。
今は、どうなのだろうか。
砂糖菓子のような手のひらを、誰に引き離される心配もなく握っていられるのが、これが子どもの情景なのだろうか。
弱いものでいていい、と、清潔な町並みが言っているけれど、それでも指先にはずっとほどけない恐れの熱がある。
おそるおそるはいった遊園地は、巨大だけれど華やかな建築物がそこかしこに散らばっている。アトランティスの脊椎のような形のものが地面から生えていて、うねったその上をなにかが高速で駆けていく。
ベニヲは不意に、アグリの手をひいて、白いおおきなケーキにみえるもの──メリーゴーランドに駆け寄った。
二階建てのメリーゴーランドが、ピンクと、バニラと、ペールブルーに飾られて、きらきら廻っていた。巨大なオルゴールのぜんまいが回転しているように、つやつやした、ホワイトチョコレートの白馬が上下するたびに、懐かしいようなピアノの音がする。こんな音を六層で聴いていたはずはないのに、これを懐かしいと思うのは、「子ども」の幻想だろうか。
熱心にそのメロディを追って、鼻歌をうたっているベニヲの手を引く。係員は微笑んで、ふたりに切符をわたした。
ふたりが階段をかけあがり、たくさんの花飾りがついた馬のなかをあるく。風船がふわふわと、隙間をぬけていく。キャンディのような色合いのポールの森にまじって、ラベンダー色の馬車があった。屋根はなく、細工物の小鳥と花とリボンが、砂糖菓子の馬車を泡のようにふちどっていた。
ベニヲが無言でそれを指さした。アグリが肯定も否定もせず笑っていると、手をひっぱって、座席ではなく、御者台によじのぼった。
「ふうせん、てんじょうにひっかからないか?」
「いいだろべつに」
ベルがなり、がたんと階下で音がした。音楽が大きくなる。あたたかい夢の波のなかを泳ぐように、メリーゴーランドが回りだした。
ふたりは景色のみえる方へ身を寄せた。甘い色につつまれて、ゆるやかに上下する景色は、まるっきり綺麗な、つくられた映像を見ているようだったので……二人ともがおおきな瞳を瞬かせて、視線を交わした。
幸福の色とは淡いのだ、と、子どもでいられなかったふたりは考える。ショッキング・ピンクの瞳が映す景色は、またあの昏い濁った海に閃光が飛び散る、戦場に戻っていく。
ふらふらゆれる風船がふたつ、つないだ手に握られて、青と紫がまじりあっている。そこに、傾きかけた四層の空の光がとけて、ピンクにやわらかく燃えていく。
「へいわってのは、こういうこうけいをさすのかな」
ぽつりとアグリが呟いた。目の前のあまったるい景色を静観している、昔から変わらない大人の瞳だった。
その虹彩の色に、空が底のほうから染まっていく。
かつて一度も見たことがなかった。これから先、訪れるかもわからない子どもの情景。
ベニヲは、廻る砂糖菓子の馬車のうえで、小さく呟いた。
「でもおれは、もういちどうまれなおすとしても、あのまちをえらぶぜ」
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