人類史の最後の三分間

みし

3分前

 日本人がどこから来たのかは未だに果てぬ話題である。一説には約三万年前、当時スンダランドと言われていた東南アジアかあからやってきた一行が最初の日本人だと言われているがはっきりしした事はまるで分かっていない。遺伝子工学の発展により、多くのデータが収集されているが、今までに無いようなデータが集まってきて更なる混乱を極めているのが現実である。

 さて日本人のルーツはともかく日本の始まりとは何時になるのであろうか?最初の歴史書が書かれた時代なのか、それとも日本に住んでいる人類が社会を作ってきたときなのかそれも果てぬ議論が繰り返すことである。そこで日本人の歴史を諦め、人間の歴史をみてみよう。歴史の始まりをいつとするかは、最初の歴史書と言われる、ヘロドトスのヒストリアイが出来た紀元前5世紀頃を歴史の始まりとみるか……いや中国にはそれより古い歴史書が有るわけで、これを歴史の始まりと定義するには無理があろう。

 そこでここでは現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)が誕生したといわれる約二十万年前をの歴史の始まりとしてみよう。

 この二十万年を一日に置き換えてみた場合、3分前はどれぐらいの時間になるだろうか?言い替えれば(日本の)歴史に取って23時57分はいつ頃かという話である。ざっと計算してみると約416年と言う数字が出てくる。今から416年前と言うとちょうど徳川幕府が生まれた頃になる。それ以前の戦国時代は自力救済の世界であり、自力救済に疲れ果てた農民達はより強い武力——つまり武士の庇護を求め、戦国大名と言うものが成立し近代国家の礎を気づき始めるわけである。


 人類史を視点にすると僅か3分間で近代日本が成立したと言う訳である。


 そこに居るのは徳川家康。暗闇の中、灯りを灯し爪を囓りながらじっと書面を眺めている。

 十分な準備は整えているはずである。しかし、あと一つのピースがかっちりハマらない気がする。こちらの準備は既に整えてある。あとは吉川広家と小早川秀秋に向けた仕込みが上手く運ぶのを祈るだけでる。

 準備は既に済ませ——後は南無阿弥陀仏を繰り返し唱えるぐらいしかない。この人生を振り返ってみれば幾通りもこのような境遇の繰り返しである今さら慌てても仕方なき事かな。家康は爪を囓りながら書面を読み、そして返事をしたためる。

 戦場は既に関ヶ原に決まっている。西軍は完全におびき寄せられている。歴史に通づる家康にとって関ヶ原は歴史の行く末を決める為に格好の地であると考えて居た。

 その歴史とは900年以上前に起きた壬申の乱である。

 近江朝の天智天皇の晩年、天智天皇が息子の大友皇子に譲位する意を決めると皇太弟の大海人皇子は後継問題で大海人皇子は大和国吉野に身を潜めていた。天智天皇が無くなると大海人皇子は密かに動き始める。吉野より伊賀を超えて鈴鹿の関をくぐり抜けると東国の豪族達を味方につけ、そして対峙したのが、不破の関——すなわち関ヶ原である。

 は本来畿内の都が東国の守りを固める為に作られたものである。しかし、壬申の乱では東国が西国に勝っている。東国から上がってきた家康に取ってこれ以上に験の良い場所は存在しない。しかも大海人皇子の様に伊賀を超えて九死に一生を得た経験もある。関ヶ原以外に有終の美を飾れる場所があろうか。


 西側に対峙するは石田三成である。官僚としては有能かも知れぬが治世の器では無い。彼に任せれば再び自力救済の世に逆戻りであろう……それは歴史が証明している。この世は既に厭離穢土である。苦悩ばかりで安らぐところが無い。これ以上の苦悩をばらまいて良いモノであろうか。根絶やしにしてでも苦悩の種は取り除くべきではないか……それが欣求浄土につながると家康は考えた。無用な苦悩は自分が背負えば良い。これ以上民が苦悩が背負う必要はない。


 そして筆を置くと、薬をしたため飲み干す。歴戦の勇者でも大いくさの前の晩ともなれば胃がキリキリ痛むのであった。これは浄土と厭離の戦いである。日本の地を厭離に戻してはいけない。ここで引くわけには行かないのである。


 そして家康は戦に勝ち250年の平和をもたらす——それから人類の歴史の最後の3分間、日本は近代国歌として目まぐるしい変転を続けるのだった……。



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