レイン・カーネーション【KAC6】

Nico

レイン・カーネーション

汗が落ちる。歓声が木霊する。それは耳鳴りに近い。


ドラムが爆発する。「休むのは、すべて終わった後だ」


ゆっくりと立ち上がり、ぼんやりと明るい雨空に叫ぶ。

歓声が膨れ上がる。雨が顔に打ち付ける。


会場が揺れる。ベースが重なり、ギターが追いかける。悲鳴が混じる。

喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、憧れ、絶望。すべての感情が昇華する。


ほとんど狂気だ。静かな狂気だ。

その中心を駆け上り、力の限り、飛んだ。


*  *  *  *  *


 ギターをケースにしまい、立ち上がった時に、初めて後ろに人がいたことに気がついた。黒の服を纏い、月を背にした若い男はほとんど影にしか見えなかった。


「いい演奏だった」

 男は、五ポンド札を差し出した。俺はそれを受け取り、礼を言った。


「いつからそこにいた?」

「三分前に、あんたが曲を弾き始めた時」

「観客がいると知っていたら、もう少しまともな演奏をした」

「十分まともだったさ。何ていう曲だ?」

「『薄紅色の雨』」

「なんだって?」

「……『薄紅色の雨』だ」

「作詞はほかの奴に頼んだ方がよさそうだな」

 そう言って男は笑った。


「心配しなくても、俺の作る曲に歌詞はない」

「そうなのか。歌わないのか?」

「歌わない」

「なぜ?」

「俺はギターが好きなんだ」

「なるほどな」


 どういうわけか、男は立ち去ろうとはしなかった。


「なあ、その曲、俺にくれないか?」

「なに?」

「あんた、もう曲作らないんだろ?」


 俺は驚いて男の顔を見つめた。


「どうしてわかった?」

「そんなの、聞いてりゃわかるに決まってんだろ」


 どう考えても、決まっているとは思えなかった。だが、実際のところ、俺はもう曲を作るつもりはなかった。二十年、プロを夢見てきた。そろそろ潮時だった。


「あんたが作曲家として生み出した最後の三分、俺の最初の三分にくれよ」

「どういう意味だ?」

「アルバムの最初に、今の曲を入れたい」

「アルバム?」

「これでも一応プロなんだ。今度、アルバムを出す」

「へぇ……そうなのか」


 俺は驚いた。それと同時に、まるで明日から旅行に行くことを知らせるみたいに、自分が叶えられなかった夢を手に入れたことを口にする男を、少し妬んだ。


「欲しけりゃ、やるよ」

「本当か?」

 男は急に子どものようなあどけなさを浮かべた。

「あぁ。クレジットもいらない」

「それは困る」

「え?」

「作曲者に俺の名前を書くわけにはいかない」

「なぜ? グラストンベリーに出るくらい売れても、訴えたりしないから心配しなくていい」

「そうじゃないが、インタビューで作曲の裏話を聞かれても答えられない」

「それなら、マンチェスターの公園で、ギターを持った男から五ポンドで譲り受けたと言えばいい。ロックスターっぽい冗談だとみんな思うさ」

「それは、名案だな」

 男は笑い、「また会おう」と手を差し出した。俺はその手を力いっぱい握りしめた。


「心配するな。あんたの夢、俺が叶えてやる」


*  *  *  *  *


色とりどりの旗が揺れていた。

グラストンベリーに降る雨は、上気した聴衆の薄紅色の頬を濡らした。


そこにはすべてがあった。あらゆる感情が渦巻いていた。


「音楽は世界を変えられる」

それを信じられない奴はここに来ればいい。感じてみるといい。


世界から音楽が消えない理由を。生きている意味を。



熱狂の片隅で、涙があふれた。

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