好いとうと

ひとひら

博多の街、大人の淡い物語・・・


「いらっしゃい……ませ」

 リンリンとドアに取り付けてある鈴が鳴り響き、客の来たことを私に教える。

 今日はカラッと晴れた良い天気なのだが、明日は黄砂が飛んでくるので注意するようにと携帯ラジオが報せていた。

「すみません。ガットの張替をお願いできますか?」

 平日の昼下がり、そのお客はケースに入れたラケットを大事そうに抱え込みながら私に話しかけた。

「……」

 黒のタイツに仕舞われているスラリと伸びた脚と、整った肩のラインが上品さをそれとなく私に伝える。

「あの……」

 フワリとした巻き髪が、この店の主である私に声をかけた。

「あ!? 失礼しまし……た。張替ぇぇですね? いっつの仕上がりご希望でしょうか?」

 その女性ひとが入って来た瞬間から心を奪われてしまった私は、今しがた張り始めた硬式ラケットの上に手を乗っけたまま、その美しさに魅せられ呆けてしまっていた。そして、この女性ひとが話した標準語を私も見栄を張って使ってみたのだが、どうやら私のその言動が可笑しかったようで、その女性ひとは白い歯が見えないように口元に手を当ててクスリと笑顔を溢した。

「来週、受け取れますか?」

 目鼻立ちの整った美人には違いないのだが、どこかその中に愛らしものを感じる。年の頃は、落ち着いた雰囲気を足してみて40代前半といったところだろうか? 50代前半の私からすれば、若い。

「来週ですね……はい、よかですよ」

 私はあっさりと白旗を揚げ、【私の標準語】を話すことにした。

「ガットの種類やテンションは、お任せします」

「では、ここにお名前と電話番号ば記入してください」

 レジを乗せた机の空きスペースに、メモ用紙サイズの簡素な記入票を渡してお願いをする。

「……」

『結婚指輪はしよらんみたいやな……』

 それとなく細く長い指に目が向いてしまった。

「では、お願いします」

「はい、預かりますばい」

 ありがとうございましたと艶やかな後ろ姿へ言葉を届け、外を歩く姿をほんの少しだけ視界に入れることができた。

『モデルか?』

 彼女の歩く姿を見て、私はそう思った。

「……」

 神森昌子。流れるような字体で書かれたその名前。こんな気分になったのは、これで二度目だった。

「……」

 後ろを振り返る。棚の上にある写真立ての中の笑顔に申し訳ないような気分になって、私は目を逸らしてしまった――。



「おー、栞。どうしたとね?」

 自宅マンションでテレビを見ながらビールを飲んでいると、娘から久々に電話がかかってきた。

 短大を卒業したあと、就職の為に東京へ行ってから、もう一年以上が経っていた。

 このマンションも娘がいなくなってからというもの、無駄に広さを感じる。

「たまにはお父さんの声が聞きたくなったっちゃんね! お父さんも私がらんと寂しかろ?」

「なぁん言いよっとか。うるさか娘が居らんごとなって清々しよったい」

 嘘である。寂しくて仕方がない(笑)。

「まぁたそげな強がりば言うて、どうせお酒の量増えとっちゃろ?(笑)」

 娘にはお見通しだ(苦笑)。

 それから少しの間、お互いの近況を伝えあったあとに、栞が切り出した。

「お父さんは、再婚せんと?」

 ドキリとした。栞は、今まで一度だってそんなことを口にしたことがなかった。

 栞の母であり、私の妻であった明子が、あの子がまだ幼い頃に亡くなってからというもの、私は男手ひとつであの子を育ててきた。あの子は私に気を遣っていたのだろう、幼いながらも「お母さん」という言葉を滅多に口することはなかった。そんな娘から、【再婚】という言葉が唐突に出てくるとは――。

「どうしたとね?」

 テレビ台に立てかけてある、小さい頃の栞と明子が一緒に映っている写真に自然と目が向く。

「ううん、お父さん一人じゃ何かと大変やろうねと思って……」

「ははっ、父さんは心配なか。それより栞の結婚の方が先に考えんといかんやろが」

「……そうやね」

「あ……すまん」

「ううん、そんなんじゃなかよ(笑)」

 栞には高校生の頃、同級生のとても好きになった男の子がいた。だが残念なことに、彼は難病を患い17歳という若さで旅立ってしまった。栞にとって、まだまだ立ち直るには時間のかかる出来事だろう。

 しかし、あの頃の栞は怪我の所為で将来を悲観して腐り切っていたのだが、精一杯に生きるという強い信念を持って生涯を全うした彼の姿が、娘を立ち直らせてくれたことに私は深く感謝をしている。

『彼のことを好いた栞なら大丈夫』……私はそう信じている――。

 

 それから他愛もない会話をしたあと、栞は、「好いた人ができたら直ぐに教えないかんよ!」、そう言って電話を切った。

 気のせいか、言い方がますます明子に似てきたのが可笑しくて、つい明子に笑いかけてしまう。

「……」

 そして、それと同時に出会ったばかりの彼女の顔がすっと浮かんできてしまい、私は気まずい思いを感じて直ぐにそっぽを向いてしまった――。



「しっかり張らせて頂きましたばい」

「ありがとうございます」

「神森さんは、この辺の方ですか? あんまりこの辺で見かけたことなかような気がするんですが……」

「先月、横浜から引っ越して参りました」

「あぁ、通りで」

「ご主人様は、もう長いんですか?」

「私は生まれも育ちもこの辺ですけん」

「そうなんですね。私はまだ土地勘も全然なくて、ガットは張ったものの、どこでしようか悩んでいるところなんです」

「それやったら、いつでもお相手しますよ」

「え!? でも、奥様に悪いわ……」

「……妻は、だいぶ前に亡くなりました」

「あ……失礼なこと伺ってごめんなさい」

「いえいえ。というより、神森さんの方こそ、旦那さんにくらされてしまいますね(笑)」

「?」

「あぁ、すいません。怒られる……みたいな感じですたい。男同士の喧嘩の時は、殴るぞ! みたいなニュアンスですばい」

「あら、それは怖いわ」と、片方の目を細めながらしかめっ面を作ってみせる。そしてそのあと、ふいに悲し気な表情を浮かべて、「主人は……主人は一年前に亡くなりました」と言って視線を下げた。

「あ……それは」

 受け入れられていないことは直ぐに伝わってきた。私は申し訳ないことを聞いてしまったと後悔する。

 私もあのころ一年ぐらいでは、まだまだ立ち直れてはいなかった。それでも、栞がいてくれたことが私の場合は救いになっていた。

『神森さんは、どうなんやろ?』と、そんなことを考えていると、「お相子ですね」、そう言って優しく微笑んでくれた。

「……」

 私はひとつ、頭を下げた――。


 それから神森さんは何度か店に足を運んでくれて、本当に一度、お互いの休みの合う日に一緒にプレーしようということになった。そして今日、公営施設で平日の少し汗ばむ陽気の中、その一時を楽しんでいた。

「中牟田さん、お上手ですね」

「いえいえ、学生の頃、少しかじっとったぐらいです。後は娘の栞が中学まで本気でやっとったから、その送り迎えや球出しなんかしよったとです」

「娘さんと仲が良いんですね」

「いやぁ、博多の女やけん、気が強くていかんとです。私が大人しゅう娘にしたごうとるだけです(笑)」

「あら、九州の女性は男性を立てるって聞いてましたけど?」

「あはは、神森さん時代錯誤ですばい!」

「あらやだ(笑)。でも、お子さんがいらっしゃって羨ましいわ。あいにく私達は子宝に恵まれる事がなかったので」

「そうやったとですか……」

「あ!? ごめんさい。それでも仲の良い夫婦でしたから。お気になさらないでくださいね」

「えぇ……よし! プレー再開と行きましょう!」

「はい!」

 神森さんはレベルでいうと初中級程度といった腕前だったが、止まっている分にはとにかくネットを越してラリーが続く。

 私はそのボールを出来る限り途切らせないように必死で追いかけコントロールしていった。

『少しでも気晴らしになってほしか』、そう思った。

 すると――「!?」

 オムニという人工芝に砂を撒いたコートなのだが、滑ると予測して出した右足がピタリと芝に引っ掛かってしまい、そのまま足首を反るような形で転倒してしまった。

「中牟田さん!?」

 神森さんは両手で口元を押さえたあと、慌てて私の所に駈け寄ってきた。

「あたた……」

「大丈夫ですか!?」

「あー、大丈夫です……痛っ!?」

 立ち上がろうと力を入れた瞬間、右足首に激痛が走った。

「病院に行きましょう!」

 店の前で待ち合わせて、神森さんと一緒にここまでやって来たのだが、帰りは神森さんの運転で栞が通っていた整形外科へ直行することになった――。

「いやぁ、何から何まで申し訳なかとです」

 診断の結果は軽い捻挫ということだった。薬を塗布してもらった後にテーピングで固定された。さすがにそこまでではないだろうと松葉杖は断った。

 神森さんは蒼い顔をしていたが、診断結果にホッと胸を撫で下ろしていた。

 それから自宅まで送り届けてもらい、「私の所為ですから」と、夕飯の支度までやってもらってしまった。

 幸い比較的きれい好きな事で恥をかくこともなく、「作ってもろうた立場で言うのもなんですが、よかったら一緒に食べらんですか?」と、作らせてそのままというのもあまりに失礼かと思い誘ったところ、「……では、お言葉に甘えて」という返事を頂いたので、今はウエアのまま二人で早めの夕飯にしているのだが、この間も、ずっと神森さんは責任を感じているのが痛いほどに伝わってきた。

「本当に申し訳ありませんでした」

「いやいや、日頃の運動不足が祟ったとです。神森さんの所為じゃなかですよ」

「いえ、私の所為です……」

「……」

 その言葉の響きには、私の怪我だけではないものをずっしりと感じた。

「……主人は、交通事故に遭いました」

 神森さんが私の好物の辛子高菜を箸で少しだけ持ち上げたままに話し出す。

「いつも帰宅の遅い主人でしたが、その日はたまたま早く帰って来て……。ちょうど夕飯の準備をしていた私がお使いを頼んだんです。そしたらその20分後くらいに携帯電話が鳴って、出てみたら病院の方からでした。主人が事故に遭い、今、病院に運ばれているところだと」

「……」

「直ぐに駆け付けたんですが、その時には、もう……」

「相手の人は?」

「軽傷でした。運転中、急に目眩に襲われたらしく、青信号を横断していた主人にぶつかってしまったと……」

「それは……」

「私があの時お願いさえしていなければ、今でも元気に仲良く暮らしていたと思います……私の所為なんです」

 私には神森さんの気持ちが痛いほどよく分かる。

 私の場合は、明子に旅立たれた原因は病だったが、もともと体の弱かった明子に対して、【あの時こうしていれば】、【もっとこうやってさえいれば】等と、どうしても自分を責めてしまっていた……いや、今でも責めている。

 「……どうして、博多に?」

 胸が締め付けられ、私は話題を探した。すると箸の先に過去を見つけたような神森さんだったが、ハッと我に返り少し潤んだ瞳で私を見る。

「主人が一度は住んでみたいとよく言っていたもので……。海も山も近くて、人もざっくばらんで人情味に溢れている街だと。中牟田さんと知り合うことができて、それが本当だと思いました」

 神森さんが微笑む。

「いやいや。私なんかは、ただデリカシーというものがなか男ですから」

 私は神森さんのその表情に、切なさと気恥ずかしさが混ざり合ってしまい、神森さんの手料理を口の中一杯に押し込んだ。

 神森さんの料理には、食べる人に対しての優しさが込められているように思う。

『こんなよか人が、なんで辛い目に遭わんといけんのやろね……』

 私は心の中で溜息をついた。すると、「中牟田さん。死ぬって……なんなんでしょうね?」と、私に問いかけているような、自分の中に答えを探し出そうとしているかのような、そんな思い詰めた表情で呟いた。

「……」

「ある日、突然、普通だったことが全てなくなってしまう。主人の場合、即死だったようです。せめて苦しむことがなかったのだとしたら、少しだけ救われたんじゃないかと思いますが、実際はわかりません……。私は主人の亡骸を見て、ずっと涙を流していました。でもその姿を見ても、通夜の時でも、主人とは思えませんでした。だって、動いていないんですもの。この人は別の誰か……ずっとそんなふうに思ってました……ううん、心のどこかでは、今でもそう思っている自分がいます。残された者って、生きながらにしてそうやって死んでしまうのかな……」

 そこまで話すと神森さんは俯き、想いの詰まった雫をぽたぽたと溢し始めた。

「……」

 私は少しだけ肩を落としたあと、ぐっと姿勢を正して、神森さんに慰めの言葉をかけるわけでもなく、ただ、「旨かぁ!」と言って、全ての料理を平らげた――。



 その後、足の具合は順調に回復していき、リハビリがてら散歩に出るようにしていた。

「よか天気ですね」

「ええ、横浜とはまた空の雰囲気が少し違うような気がします」

「下から見る限りでは、そっちの方が澄んで見える日が多いっちゃなかですか?」

「かもしれませんね(笑)」

 私達は今、大濠公園の中をゆっくりと歩いていた。

 慶長年間、黒田長政が福岡城を建築する時、博多湾の入江であったこの場所を外濠として利用したのが始まりで、その後、昭和に入り博覧会を機に造園工事を行ない、県営として開園した場所だ。ここは福岡市のほぼ中央に位置し、大きな池を有した、全国有数の水景公園でもある。

 あれから神森さんは、私の怪我の回復を確かめる為に店の方に日に一度は顔を出してくれて、差し入れ等もしてくれていた。

「先日は、本当にすいませんでした」

「いやいや、私も全く気が回らんかったので……こっちこそ申し訳なかとです」

 神森さんは、私のマンションに女一人で上がり込んだということに後から思うところがあったようで、平謝りされてしまっていた。私は言われるまで全く気付かなかったのだが、まぁ、そういうことなのだろう。

「それに、お見苦しいところもお見せしてしまって……」

 強い日差しを避けるため、木陰のベンチに二人で腰かける。

「神森さん。私、あれからいろいろ思い出したり考えたりしよっとです」

「……奥様のことですか?」

「えぇ。神森さんは死ぬってなんなんって、言いよったですよね?」

「……はい」

「私、思うとです。死ぬっちゃ生きた証なんじゃなかかと」

「証?」

「えぇ。この世に生を受けてから、いろんなことがあります。そして、その集大成が死なんじゃなかかと。やけん、それぞれの証ば立てようと毎日を一生懸命にこつこつと生きていけば、それが今だったり将来だったりの生きているもんに繋がっていくんじゃなかかと思います。それに、そういう気持ちが、自分にとって新しい出会いや経験を呼び込む力になるっちゃなかろうかと思います」

「……」

「私は今でも自分を責めとります。明子にもっともっと出来たことがあったと思いよっとです。その気持ちは、ずうっと変わらんと思います。でもそれでよかと思っとるとです」

「どうして?」

「その気持ちを含めて、また生きていけばいいと思いようからです。生きながらに死ぬんじゃなくて、死んでるような思いも含めて、生きて行けばいいと思うとです。私は思えば、そんなふうにして明子が亡くなったあとを過ごしてきました。そして、同じように思いよったと思うんですが、それでも少しずつ変わってきとります。自分が少しずつ責める自分も受け入れられるようになってきよっとです」

「……」

「それに、そんな思いで生きている所為か、去年より、先月より、昨日よりも、明子のことば好いとうとです」

 私はきらきらと光る大きな池に目を移す。

「……良い言葉ですね」

 神森さんも目を細めながら、先程の言葉をぽつりと池に投げかけた――。



「おー!? 徹っちゃん! どげんしたと!? えらい美人ば連れてからくさ!」

「いいけん、どかんか! そこ俺らがとっとっと!」

 子供の頃からの悪友である達明の経営する居酒屋に来ていた。

 L字型のカウンターと四人掛けのテーブル席を二席置いてあるだけの小さな店だ。

 そのカウンターを予約しておいたのだが、こちらも幼い頃からの付き合いである吉信が【予約席】のプレートがあるにもかかわらず何故か陣取り、中で調理をする達明へ一方的に話かけているところだった。

「……?」

 今日は私の快気祝いということで、神森さんと一緒に食事をすることになった。

 本当は洒落た所にでもと考えたのだが、「中牟田さんがよく行くお店にいってみたいです」というご希望だったので、即決でここにした。その神森さんは、私達の話に興味津々ながらもきょとんとしている。

「あぁ、すいません。〈とっとっと〉っていうんは〈取ってるよ〉という意味ですばい」

 私は神森さんに説明しつつ、吉信にあっちに行けと手で合図を送る。

 すると吉信は二席ぶん、ちょんちょんと雀のようにずれた。

「へぇ、なるほど。とっとっと……面白いですね!」

 神森さんは博多弁を非常に気に入ったようで、最近では事あるごとに私に尋ねてきては、もごもごと口の中で繰り返していた。

 「ビールでよかか?」

 達明が神森さんに頭を軽く下げながら、ひょいとおしぼりを私達に差し出す。

 達明には口が裂けても言わないが、ここは本当に料理が旨い。達明の料理の才能には昔から驚かされっぱなしだった。いずれは何処か有名な店にでも修行に出て行くつもりであったようなのだが、残念なことに達明の父である先代が急に倒れてしまって以来、達明はこの店を切り盛りしている。だがこの間も、料理に対する情熱は昔と変わず……否、それ以上に熱く「ちょっと食べてみらんね」といっては、居酒屋のレベルではない品の数々を試食させてもらっていた。

 そんな達明の言葉に、私が神森さんを見ると神森さんは笑顔て頷いた。

「とりあえずビールば二つ頼む」

「ん」

「徹ちゃん、俺もかたらして!」

「しゃーしか奴やね。大人しゅうしとかんか!」

 神森さんを吉信から遠ざけるように、私は間に座っていた。吉信は昔から私と達明の後を金魚の糞のようについてくるやつだったが、達明と同じように、いざとなると親友の為に一肌でも二肌でも脱ぐ熱い男だ。

「徹ちゃんも隅に置けんねぇ!あんだけ明子さん一筋やったとに!」

「せからしかたい!」

 私は吉信にくらすぞ!と言ってから、神森さんに梅干を5~6個頬張ったような顔で軽く頭を下げた。

 すると神森さんは楽しそうに「気にしないでください」と言って笑ってくれた。

 それから〈かたらして〉という言葉を神森さんに「仲間に入れてという意味ですばい」と説明して、吉信を交えて達明の料理と酒を堪能していった――。

 

 それから、気付けばあっと言う間に満席となり、やがてそれも捌けて、吉信がテーブルに頭を付けて寝入った頃、だいぶ酒の進んだ神森さんが赤い顔で話し始めた。達明は私達に背中を見せながら何かを作っているようだった。

「中牟田さん。私、大濠公園での中牟田さんのお話しがずっと心に残っていて、あれから色々と考えてみました」

 そういって、芋焼酎を割ったグラスの中の氷をからからと転がす。すると底の方で軽い波が形づくられた。

「……」

 私はグラス半分にまで減らしたそのロックを眺めながら耳を傾ける。

「私も主人が亡くなってから、より一層、主人のことが好きになっています。そして、私も中牟田さんのように力強く証を作っていきたい。まだまだ立ち直っているわけでも、直ぐに前をきちんと向けるわけでもありません。だけど、責める自分も受け入れられるようになりたい。だから――」

 神森さんは、そこで言葉を切ったあと、「私は主人のこと、去年より、先月より、きのうよりも好ぃとぉと!」

 そういって、残りをこくんと飲み干したあと、「博多の街も、博多の人も、好ぃとぉと……」と、呟き、その頬を更に赤く染めた。

「……はい」

 発音が出鱈目な神森さんの【好いとうと】という言葉が、私の胸に澄み渡るように響いてくる。

【博多の人】というのが、ただの抽象的な表現なのかもしれなかったが、それでもご主人の後に【も】という言葉が付いてくれたことが、私には非常に嬉しかった。前を向き始めたからこそ、付けることのできる【も】。

「私も……私も好いとうとです!」

 そういって、私は一気にごくごくと飲み干した。


 そうして私達の間に少しの沈黙が流れたころ、「食べてみらんね」、達明がきらきらと輝く明太茶漬けを三人分盆に載せて差し出してくれた。

 達明が背中で笑みを零していることはわかっていたのだが、この男にしては珍しく本当に微笑んでいた。

 私は『こいつ』と、思わず苦笑いを漏らしてしまう。大方、『やっと前ば向く気になったとか』、そう思っているに違いない。そんな無言のやり取りのあと、癪に障るも認めつつ、私は吉信を叩き起こしてから、絶対に旨いであろうこの料理を一切褒めないと心に固く誓って口へと運ぶ。すると――、

「美味しい!」

 神森さんが一瞬にして酔いが醒めたかのような表情で達明を見上げた。

 私の方は達明に悟られないよう、出来るだけ下を向いたのだが、そんな私の仕草を達明が見逃すはずもなく、『ばり旨かろうが?』という表情でニヤリとする。

「出汁はまだ改良中やけん教えられませんが、水は日田の天領水ば使つこうとります」

「世界的にも希少価値の高い、天然活性水素水っていうお水ですね?」

「詳しかですね(笑)」

 神森さんと達明の会話が弾みかけようかという時、一心不乱に掻き込んでいたはずの吉信が急に顔を持ち上げて、「達っちゃん! 徹ちゃんの女に手ぇだしたらいかんばい!?」と、要らぬ余計なお節介を口にした。

 そこで私と達明は、吉信が言い終わるや否やのタイミングで――

「せからしかたい!」

「せからしかたい!」

 私達の声がハリセンのごとく同時に吉信へと飛ぶ。見ると吉信はいかにも怒られ慣れているといった様子で直ぐにベーっ♪と舌を出しながら白目を見せた。

 その私達の漫才のようなやり取にぽかんとしていた神森さんだったが、クスッと肩を竦めたあと、溌剌はつらつとした笑い声を上げたのだった――。



 私はリビングで写真を手に取り見つめていた。

「応援ば、してくれるっちゃろ?」

 明子の答えは分からなかったが、私が明子から目を逸らすことはなく、しっかりとその笑顔に語りかけることができた。

「……(笑)」

 私は何故か晴れ晴れと、そしてどこか爽やかな気持ちとなって、明子が残してくれた大切な宝物へ電話をかけることにした。

「あ、もしもし? 父さん。元気ね?……ん?……うん、あの、実はな――」

 博多の街は、今日も、そしてこれからも、いろいろなものに溢れた街だ。


〈 好いとうと~了~ 〉

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好いとうと ひとひら @hitohila

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