山羊と羊のうた

穂積 秋

第1話


 古本屋でえらく年季の入った本を手に入れた。定価百八十円と印刷されているから時代がわかるだろう?それを、三百円で買ったんだ。古本屋の店主は、この本を会計するまで商売っ気を全く出さずに脇目もふらず分厚い本を読んでいた。ぼくがこの本を持っていたときに初めて顔を上げてひどく驚いた。客がいることに気づいていなかったのだ。

「おいくらですか」

 ぼくが本を差し出すと、店主は慌てて価格表を探し、三百円、と言った。

「定価百八十円と書いてありますよ」

「そこはほら、年長者への敬意を価値にするんだよ。この本はお客さんよりだいぶ年上なんだから」

 確かに。ぼくは本の定価が百八十円の時代よりだいぶ後の人間だ。

 さて、何の本を買ったかというと。

 中野仲矢という人が書いた「山羊の詩」という本がある。ここ数年探していた。あの有名な詩集と著者名も題名も似すぎているので、今まで探すのには骨が折れた。店員に尋ねてもたいてい中也を持ってくるのだ。有名な中也の詩集は新本で手に入るんだから古本屋で探すこともないだろうに。

 この本には、ある秘密がある。そのことを知っているのはぼくの他には叔父さんだけだ。

「山羊の詩という本をもし手に入れたとしたら」

 数年前の夏、あまりの暑さで避暑に連れ出された喫茶店で、叔父さんはぼくに向かって言った。どういう話の流れだか、山羊の話になったんだ。

「読むのには作法があるんだ」

「作法?」

「ルールだな。実はこの本の著者はお前のひいじいさんにあたる」

「ひいじいさん?会ったことないよ」

「戦争で死んでるからおれだって会ったことないよ」

 叔父さんは少し微笑んだ。

「どういう人?」

「詳しいことはおれも知らないが、ひいばあさんの家に婿養子に来た人だ」

「婿養子?」

 そんな話は初めて聞いたけど。

「あの時代は多いんだよ。徴兵逃れの養子縁組ってのが。嫡男は徴兵されないことになってたから」

「でも結局兵隊になったんでしょ?戦争で死んだって」

「戦地で死んだわけじゃない。空襲か何かだと思う」

「空襲…」

「この国の都市部に無差別爆撃。国際平和条約で民間人への攻撃は禁止されていたはずだが、ルールを守らない敵だったようだね」

「ルール。ふふっ」

「そういうとこで笑うなよ」

「だって、戦争にルールって」

「逆だ。戦争にこそルールは必要だよ。じゃないと際限がないだろ?」

 そのとおりだ、とぼくは思い直した。

「で、お互いの国がルールを破ったせいで、際限がなくなったのがこのときの戦争。悲惨なものだ」

 ぼくは納得した。

「主要な敗戦国でそれぞれ奇跡的なくらい復興が進んだのは、戦勝国の罪の意識があったんじゃないかとすら思うね」

 ぼくはもう納得したのに、際限がないのは叔父さんのほうだ。

「戦争はもういいよ。ひいじいさんはどうなったの?」

「死んだ」

「うん、それはもう聞いたけど」

「お前の曾祖父さん、おれの祖父さんは若くして死んだけど、大学で研究をしててね」

「研究?」

「その研究ってのがまた、本気なんだかふざけてるんだかわからないけどね。山羊の角の曲がり方を調べて、どれだけ曲がったら羊になるのか、という」

「なにそれ?」

「この研究は戦中に中断したんだけど、一応、論文なんかも書いてたんだ」

「生物学なのか民俗学なのか言語学なのか」

「で、戦後におれのひいじいさん、お前の五代前が集めて出版して本にしたらしい。そのときに詩や随筆も入れたせいで、もう何の本なのかわからなくなっている」

「論文じゃないね」

「山羊の詩、っていう本だ。ヤギは漢字、ウタは詩歌の詩のほう」

 叔父さんは喫茶店の紙ナプキンに字を書いた。

「興味がでてきた」

「著者名は中野仲矢名義。旧姓が中野」

 続けて中野仲矢、と書いた。

「こいつを読むときにはうちの家に伝わる特別ルールがある。序章を音読することだ」

「なぜ?」

「そう聞いた。そうすることで著者の意図が伝わりやすくなるらしい」

「よくわかんないな」

「おれも昔読んだけど、ルールには従ったよ。ルール通りやると、不思議なことが起きたんだ」

「なに?」

「本の著者が夢枕に立つ」

「マジ?」

「大マジ。さっきのこの本のエピソードも本人から聞いた」

「すごい!その本貸して」

「いや。もう持ってない。前に本棚の整理をしたときにいっしょに売っぱらってしまった」

 それ以来、ずっと探していた本だ。


 就寝前に、山羊の詩の序章を声に出して読んだ。特に何ということはない内容だったが、五七調でよく練られた文章で、声に出しやすかった。

 続く章を読んでいく。黙読だ。

 山羊と羊の違いについての考察。結論は角の曲がり具合にあるとのこと。

 どこまでが山羊であるのか、絵を描いて少しずつ角を曲げていく内容。百枚枚の絵を描き、街頭でアンケートをとったこと。

 それの分布図を作って、境界線となる山羊と羊の絵が載っていて、それを結論としていた。正直、ぼくにはどちらも羊に見えた。

 そのあとは、社会情勢を歌った詩であるとか、軍部批判とも取れる随想であるとかが載っていて、最後に著者の略歴がついていた。婿養子の話などは載っていなかった。裕福な商家に育つ、とあったので、うちの家系は裕福な商家だったらしい。

 読み終わって、夢枕に期待しつつ寝た。

 部屋の片隅に、ぼうっと光るものがあって、だんだんと光を増していくので気になって目を開けたら、いた。

 薄明かりの中ではあるが、坊主頭で、目が細く、やや太り肉の男がぼくの足元に座っていた。

 枕元に立たなくても夢枕っていうのかな、と思った。枕じゃないし、立ってもいない。

 ぼくは体を起こした。

「中野…山下仲矢さんですか?」

「いかにも」

 旧姓中野、のち山下仲矢は肯いた。三十歳過ぎぐらいだろうか。羽織を着ていない着物姿で、光沢のある茶系の生地の仕立てだった。紬だろうか?大島?結城?ほかの種類は知らないが、どれであれ今買ったらめちゃくちゃ高額だろう仕立てだ。

「こうして寝室で会うということは、私の孫かな?」

 山下仲矢は切り出した。見た目より高い声だ。

「いえ。曾孫です」

「もうそんな世代か」

「あなたが亡くなって七十年になりますよ」

「そうか。死ぬと時間の流れがわからんのでな」

 そりゃあそうだろう。

「私のことを知っている口ぶりだったな。少なくとも中野から山下になったことは」

「叔父さんに聞きました」

「そうか」

「どうして、出てきたんですか」

「どうしてとは」

「いや、不思議だなあと」

「そうか、そう思うか」

「はい」

「そう思うのなら成功だ」

 山下仲矢は笑った。

「今のところ失敗していない」

「誰だって不思議がりますよ」

「そうだな。お前さん、私の曾孫だそうだから、特別に教えてやってもよい」

「ぜひ」

「私の研究は読んだか?」

「はい」

 あれを研究と言えるのなら。

「あの研究の中で、私はこの世にはルールがあることに気づいたのだ」

 あんたもうこの世にはいないけどな。

「そのルールは著作の中で示した」

 あんた名義だけどあんたが出した本じゃないだろう。

「つまりだな、山羊か羊かわからないものでも、山羊だといえば山羊になるし、羊だといえば羊になる」

「言ったもん勝ちってことですか」

「そういうわけでもないが、生きている状態と死んでいる状態の違いはなんだか、考えた。その答えが、これだ」

「どれです」

「いまお前さんの前にいる、私だよ」

「…わかりません」

「お前さんは私とまるで生きている人であるかのように会話しているじゃないか」

「…いけないんですか?」

「いけないことはないが、私が死んでいることは知っているだろう?」

「話をしたらいけないんですか?」

「死人に口なし、って言葉は、知ってるな?」

「知ってますけど」

 だんだん、違和感が強くなってきた。

 こういう話し方をする人をよく知っていることに気づいた。

「叔父さん?」

「あ、バレた?」

 叔父さんは、声を戻して笑いながら言った。


 後日譚。

 全部叔父さんの冗談だった。古本屋の店主と叔父さんは顔なじみだったので、ぼくがこの本を手に入れたことは連絡がついていた。

 山下仲矢とその本は実在したし、山下家の婿養子だったのは本当だが、山羊の研究はでっちあげだった。

 まったく、暇人め。

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