『Have a nice day』

ぴけ

『Have a nice day』

 君は、殺風景な広い病室で眠っている。目覚ましのアラームがピピピと鳴ると、君はまだ動かせる手を伸ばしてアラームを解除した。

「おはよう。あっ、でも今はスイスだから『Good morningおはよう』って言った方がいいかしら?」

 目覚めた君は、いたって普段と変わらない穏やかな声で言う。

 おはよう。んー、でも、今日のことを思うと『Good morning良き朝』とは返せないかな。だから、おはよう。

「ありがとう。返事が返ってくると、やっぱり嬉しいものね」

 君は笑う。もうこれが最後の『おはよう』になるにも関わらず。そんなことは一切感じさせない朗らかな声で。

「でも、『Good morning』って『良き朝』って意味じゃないのよ」

 そうなの?

「えぇ。今は略されているけれど『Good morning』の前にはね、『I wish you a』っていうのが本来はついていたの。だから『I wish you a good morning』つまり、『あなたに良い朝が訪れますように』っていうお祈りの言葉なのよ」

 スイスに渡航するために必死で英語を勉強した君は得意げに説明してくれる。始終、身体に走る激痛に耐えながら。



「さてと、看護師さんとお医者さんに来てもらわないとね」

 君は、ベッドの傍らに置いてあるナースコールを押す。すると、すぐに病室のドアがノックされ、彼らはやってきた。

 部屋に入って挨拶をかわすと、看護師は病室に設置してあるビデオカメラを準備し始める。

 ねぇ、ビデオカメラって必要なの?

「それはね、あとで警察へ届けないといけないから。これは殺人事件じゃありませんよって『証拠きろく』が必要になるもの。そのために必要なのよ」

 なるほど。確かに彼らがするのは、自殺幇助じさつほうじょであって殺人事件じゃない。



 ほどなくしてビデオカメラが録画を開始すると、医師はベッドの傍らにある椅子に座って最後の診断となる質問を始める。君にとって最後の三分間が始まった。

「You are not forced to come here by someone, right?(誰かに強制されてきたわけではありませんね?)」

 医師は淡々とした口調で君に尋ねる。けれど、その眼差しは君をしっかり捉えている。少しでも君の気持ちが変わるようなことがあれば、決して見逃さないように。

「Yes.(はい)」

 君は、しっかりと自分の意思を込めて答える。

「Why do you think you are dead now?(どうして今、死のうと思うのですか?)」

 とってもストレートな質問だ。

「My illness is never cured.(私の病気は治療法がないんです)In addition, Severe pain will make it difficult for me to live everyday life.(それに激痛で日常生活を送ることも困難になっていくでしょう)But, the main reason is that I want to end my life before my heart dies.(でも一番の理由は、心が死んでしまう前に終わらせてしまいたいから)」

 君の意思は揺るがない。安楽死という選択に辿り着くまで、君と何百回と同じ問答をしてきたけれど、やっぱり君に何て言葉をかけていいのか分からないよ。

「気にしなくていいのに。私はただ、私らしい生き方を選んだだけだもの」

 


「でも……心配なことが一つだけあるの」

 ベッドに横たわった君がそう言ったのは、毒が入った点滴が腕に繋がれて、あとはストッパーを外すだけ。そんな時だった。

 え? そんなこと今まで一度も聞いたことないけど。

「だって初めて言うんだもの。私が唯一心配なのはね、あなたのこと。私がいなくなったあと、別の話し相手が見つかるといいのだけど」

 どうして……君はいつも他人のことばかり気にするんだ。

「さぁ、なぜかしら。でも最後の最期まで、ありがとう。じゃあ『Good night』」

 ……まだ、まだ夜じゃないよ……。

「バカね、ちゃんと説明したじゃない。さっきのと合わせて、あなたへの祈りよ」

 どこまでも優しい笑みを浮かべた君は、ストッパーを外してそっと目を閉じた。

 点滴からぽたぽた毒が落ちるごとに、君の身体から力が抜けていく。そして二十秒ほどで君は息を引き取ってしまった。震えそうになる声を必死に抑えながら伝えた『おやすみ』の声は、君に届いていただろうか。

 



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『Have a nice day』 ぴけ @pocoapoco_ss

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