望の刻

狗須木

最後の3分間

 月が満ちる時、神の力もまた満ちる。



 かつて神殿があり、今では共同墓地となってしまった場で夜空を見上げる。


 今夜は満月だ。

 月からは淡い光が絶え間なく降り注いでいる。


 夜が更け、日付が変わる時、光は最も強くなる。

 神の力もまた強まり、人界へとその手を伸ばす。


 神への祈りは、その道筋を築き、祝福を授かるためのもの。

 神への儀式は、その道筋に乗り、神の声を拝聴するためのもの。



 …………信仰無き今、決して叶わぬもの。



 先人が危惧したことは現実となってしまった。


 人々は神を忘れ、疑い、背を向けた。

 既に王都の神殿は失われ、多くの聖職者もまたこの世を去った。


 辺境へ向かえば、あるいは信仰や慣習が残っているかもしれないが……。


 しかし、神殿の復興を担う力など、私にはない。

 私は陰に徹する者だ。


 その役割は非常時に儀式を代替することのみ。

 時勢に逆らうことではない。


 人が神を拒むならば、その行く末を見届けよう。

 それが、生き残った私の定め。



「こんばんは」


 隣の墓前に腰掛ける気配。

 その声は男のものだった。


 満月の夜、いつもこの男は現れる。


「先日、知人が、勇者になりました」


 そして、この男は近況を語り続ける。

 誰に向けた言葉なのか――――いや、目の前で眠る者に向けて、か。


 落ち着いた声は、神への祈りを妨げることなく、私の耳まで届く。

 顔も名前も知らないこの男について、おそらく誰よりも詳しくなるほど。


「知ってはいたんですけどね。アイツが勇者だ、ってこと。ずっと、本人から聞いてましたし」


 満月に雲がかかる。

 濃い闇が広がる。


「でも……だからって、まさか……本当に、本物の勇者で、隣からいなくなるなんて……そんなの、思わないじゃないですか……」


 時間は刻々と過ぎていく。

 最後の三分間が近づいていた。




 神への道が閉ざされようとしている。


 私の拙い儀式にもお応えくださっていた神からのお言葉は、回数を経るごとに聞こえなくなっていった。


 いや、もともと聞こえていなかった。

 ただ、儀式が成功した、その手応えを感じさせてもらっていただけだ。


 神が私達をまだ見放していないと、安心させてくれていただけだ。


 今の神は、私の儀式にお応えできない。

 それほどまでに、神への信仰が失われた。


 そしてついに、神への道が絶たれようとしていた。


 満月にかかる雲。


 私がこの場で祈りと儀式を捧げるようになってから、初めて見るものだ。

 神の力が満ちる夜、その空は常に晴れていた。


 そして、月が欠け、神の力が弱まると、空は次第に雲に覆われるようになった。


 既に、月がその姿を隠す晩など、空を仰ぎ見られなくなって久しい。

 世界を覆う闇に、神の力が及ばなくなっている証拠だ。


 そんな中、空が晴れるのは、唯一、満月の夜のみだった。



 それも、今日まで。



 最も光が強まる、日付が変わる前後の三分間。

 その三分間が、私がまやかしの聖職者になれる、唯一の時間。



 そして、最後の時間。




 ***




 青年は、見知らぬ誰かの墓に腰掛け、夜空を見上げる女性に想いを吐き出していた。彼女はこちらに顔を向けることはないが、最近、返事をしてくれるようになった。

 墓場でたまたま居合わせただけ、という奇妙な縁。それでも、ただ静かに聞いてくれる彼女の存在は、心の安らぎになっていた。


「勇者って、何なんでしょうね。国を動かす歯車のひとつに過ぎないんですかね。アイツ、どんどん身動き取れなくなってるんです。もう、俺と話す時間すら無い」


 ――――悲しいですね。


「この国は、俺から何もかも奪っていく。家族も、居場所も、親友も…………どうして、守ってくれないんでしょうね。俺、何かしましたっけ。してないですよね」


 ――――ええ。


「最近、よく思うんです。こんな国、滅べばいいのに、って。いっそのこと、俺が滅ぼしてやりたい、って……国は、俺を守ってくれないですもん。俺も、国を守らなくて、いいですよね」


 ――――そうですね。


「はは……俺、間違ってない、よなぁ……」


 ――――じゃあ、滅ぼしますか?


「……」


 ――――大丈夫ですよ、何もかもうまくいきます。


「……取り返せるなら」


 ――――ええ、もちろんです。ご友人も、家族も、全部、任せてください。


「……俺は、何をすればいい?」


 ――――今は……少し、三分間だけ、待ってくれますか。


 そう言って、彼女が目を閉じる。その姿を見て、間もなく日付が変わることに気づく。それまで微動だにしない彼女が、唯一動く時間だ。胸に手を当て、何かを小さく呟く。その声は闇に溶け、青年の耳まで届かない。



 青年は、最期の三分間を、彼女を見て過ごした。

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望の刻 狗須木 @d_o_g

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