公開元は秘密結社R‐FC

サシガネ狸

00 序

 息が白い。日中の温かさが嘘のようだ。

 今川瑛梨子えりこはやや早歩きで家路を急いでいた。というのは同期のミスで今日中に終わらせなければならない仕事が立ちはだかったのだ。人一倍の世話焼きだと自覚していた瑛梨子はミスで今にも泣き出しそうになっている彼女を見過ごすことができなかったのだ。こういう時に限って他にフォローしてくれる男は一人もいなかった。他に数名の仲間が手伝い何とか残業を終えたばかりなのだ。

 部長は男たちを連れ立って早々に飲み会に向かったと聞いた。

 正直、部長のことは寸分も信頼したことはない。だが今日のような、いざというときには何かしらの気遣いをかけてくれるのではないかと淡い期待のようなものを抱いてしまっていた。たとえ利害取引の中で少なからぬ男女の関係性があるのだから、声掛けの一つだけでもしてくれれば良いものを、あの男にはそれがない。

 瑛梨子は胸の内で毒づいた。早足だった歩調は上がってしまった息で通常の速度に戻っている。そんな時、電話が鳴った。

 バッグを漁り、震えるスマホを取り出した。画面を見てみると『庸介ようすけ』と表示されている。その名前に瑛梨子は一瞬のうちに胸がときめいた。彼が家を出て行ってからというもの彼からの連絡が待ち遠しくてしょうがない。

 「もしもし。庸介」

 『瑛梨子。寝てた?』

 聞こえてきた声に瑛梨子は胸が震えた。少し呂律が回っていないように聞こえるが、それでも彼の声が聞けただけで涙が溢れてきそうだった。

「帰宅中。どうしたの?」

 『新曲がさ、マジでサイコーなんだよ。タイトル『蛇と下手人』っていうんだけどマジサイコーなんだよね。聞いててテンション上がるんだよ。それでさ、相談なんだけど』

 「うん。わかってる。レコーディング代よね」

 『本当悪いな』

 「当然よ。庸介の歌声が聞けるんだから。それより会いたいの。どうしても会いたい」

 瑛梨子は歩くのをやめ、歩道で小さく蹲った。こんな風に彼に直接的に要求を伝えたことは一度もなかった。彼の妨げになるからと自重してきたのだが、今夜ばかりはそのたがが限界を迎えたのだ。

 『無理だわ』

 庸介はその一言だけを残すとあっさりと電話を切ってしまった。

 「庸介、庸介」

 いくら名前を呼んでももはや手遅れだった。すぐに後悔の念が押し寄せた。わかっていたはずなのだ。彼がその手の言葉が嫌いであることは。

 瑛梨子の中では彼を憎むという感情は一切ない。ただ、自分の心の弱さに罪悪感を抱いただけだった。

 瑛梨子は何とかその場から立ち上がり、街灯の明かりと時折漏れてくる民家の明かり、車のヘッドライトに照らされる路地をスマホの画面を見つめながら歩いた。画面上の二人は楽しそうにしている。たまに出てくる裸で抱き合う写真は幸福の絶頂のような気がして直視できなかった。一通り見返し終えると今度は残っているメールにたどり着く。それらを読み返していると、彼からの返信に過去の感情がいまだに鮮明によみがえる。

 途方のままに歩いていると一瞬のバイブの震えとともに着信音がした。

 彼からの連絡ではないかと期待してしまったが、期待外れもいいところだった。

『アップデート情報!』届いたのは彼に誘われてダウンロードしたゲームアプリの運営からの通知であった。庸介は楽しいなんてはまっていたようだけど、瑛梨子は登録してインストールしたきり無視し続けてきた。

 彼女の生活において携帯のゲームで遊ぶことよりも彼と添い遂げ続けることの方が人生において最優先だった。それに彼の話によれば、彼と自分とは出たキャラクターの相性が良くないらしい。一緒に遊べないのであるならとそれまでのものだった。

 気分を落ち着かせて、まずは帰宅することにした。

(放置していたアプリだって忘れていたころに通知がくるのだ、きっと庸介だって時間をおけば許してくれるかもしれない。これまでだってそうよ。今日だって、突然家から出て行ったと思ったら突然連絡くれるんだもの、また次があるよね)

 ふさぎ込んでいた気分を取り戻し、瑛梨子はスマホをバッグに戻すと、ヒールの音を響かせて再び家路を急いだ。

 車道に駐車された大型の車の横を抜け、道の向こうからジョギングに興じるランナーが見えた時だった。突然視界が遮られ自分がどうなったのかわからなくなってしまった。何とか叫び声をあげたり、身体をばたつかせたりで抵抗してみてもそれら一切が通用しない。聞こえてくるのは不気味に興奮する男の鼻息だけだった。

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