02
私の実家は、N県はS郷の奥地に位置する、とある集落にある。山に四方を囲まれたその集落には、遠縁も含めるならば私の血縁ばかりが居住しており、幼い頃を東京ですごした私にはいささか息苦しい場所であった。
幼い頃には数年に一度はこの集落を訪れて、祖父母に顔を見せていたらしいが、三十一歳になった今ではもう遠い記憶で、うっすらとしか思い出せない。
そんな場所を、祖父の葬式に参列するために、私は久々に訪れようとしていた。
自分たちで食べるだけのささやかな田んぼと畑、それから民家がぽつぽつと建っているだけのその集落に向かって車を走らせる。
「話には聞いていたけど、本当にすごいところにあるのね」
「いわゆる限界集落ってやつだしね。村から出ようとしない爺さん婆さんばっかりだから、道も舗装されないんだろうさ」
助手席に座る妻の千夏に視線を向けないまま私は答える。何しろ国道であることが信じられないほどの山道だ。脱輪でもしてしまったら、命を落としてしまうかもしれない。
辛うじてアスファルトで覆われたその道は、記憶よりもさらにひび割れて雑草に浸食されており、右足でアクセルを踏むごとに車の下からがたがたと強い振動が伝わってきた。
やがて二股の分かれ道に出た私たちは、車を停めて地図を見始めた。何しろナビにすら登録されていないほどの山奥なのだ。車の中にいては看板も読めなかったので、外に出て分かれ道を調べ始める。
道の横から続く崖を興味深そうに覗き込む彼女を置いて地図を確認していると、ふと片方の道の先に古いバス停の看板が立っているのが目に入った。
自然と私は、その看板に視線が吸い寄せられていた。看板は不格好に傾き、赤錆にまみれたせいで文字すらも判読できない。看板の横にあるのは木製の休憩所らしきひさしだ。その下にはもう何色だったのかも判別できないほど色あせたベンチが置かれている。
ぬるい風、葉擦れの音、腕まくりしたシャツから伸びる私の腕には容赦なく太陽が照りつけ、山中からは襲い掛かるようにミンミンゼミの声が響いている。
――どこからか甘ったるい夏の匂いがした気がした。
「どうかしたの?」
はたと気づくと、妻が傍らでこちらを覗きこんできていた。ショートボブが可愛らしい自慢の妻だ。
「何でもないよ」
判然としない何かを胸の中に抱えながら、私は千夏に笑顔を向けた。
驚くべきことに、あの分かれ道から二分もかからない場所に、目的の場所は存在していた。かすかな記憶通り寂れた外観を見下ろし、私たちの車は集落の端へと降りていく。小さなその村の最奥に、私の祖父母の実家はあった。
実家に辿りつくと、既に私の母は葬儀の手伝いをしていた。父もまた集まってきていた男衆とともに葬儀のための祭壇づくりをしている。
私もそれに混ざろうとしたのだが、幸か不幸か、私の両親は長男坊ではなかったので、孫である私にはあまり仕事は回ってこなかった。むしろ邪魔だと言わんばかりに部屋に押し込められ、妻も含めて周りが慌ただしく動き回る中、私は一人、葬儀が始まるのを待つことになったのだ。
翌日、葬儀は滞りなく行われた。血が繋がっているとはいえ、東京に出ていった息子の子供である、いわゆる余所者の私にはかなり疎外感のある葬式は夕方頃には終わり、出棺も終えた私たちは精進落としを食することとなった。
それまでのしめやかな雰囲気はどこへやら、私たちは大いに食べて大いに飲んだ。名前も曖昧な親戚たちが故人の思い出話に花を咲かせ、いまいち実感のない話に相槌を打っているうちに夜は更けていき、夜遅くに布団にもぐって目を覚ましてみればもう昼に差し掛かるほどの時間だった。
周囲の男たちもほとんどが同じ時間かそれ以後に起きてきたらしい。台所に立つ女たちは既に目覚めて葬式の片付けをしているようだったが、そこでもまた手伝いを断られた私は手持無沙汰になって家の外をぶらぶらと見て回ることにした。
車で通った時にはまるで覚えのない道であったが、実際に歩いてみればなかなかどうして記憶がよみがえるものだ。
ああ、あれは私がよく登っていた石段だ。あれは夏の虫を追って走り回った田んぼ道だ。家への近道をしようとしてそこの畑に入ってひどく怒られもしたのだったか。
ここが故郷だというわけでもないのに郷愁の念に駆られてきた私は、記憶を遡るままに車で通ってきた村の入口へと歩いていくことにした。
車が通れるようにある程度は整備された集落の道を抜け、山へと続く坂道を上り始める。人が上るには少々急なその坂道は、運動不足の身にはきついものがあった。だけど足を止める気にはならず、吸い込まれるように私はその道を歩いていった。
歩みを進めるごとに昔の記憶が蘇る。騒がしく鳴くセミ、頭上を飛ぶトンボ、見上げた空は青く、遠くには入道雲も見える。崩れかけたアスファルトを踏みしめて、自分の体重を持ち上げていくその感覚は、まるで一歩ずつ大人の重さを脱ぎ捨て、子供の自分が顔を出していくようでもあった。
慣れない運動のせいで息が上がる。汗がしたたり、ぽたぽたと地面に向かって落ちていく。それでも歩みを止めなかった。かつてこの道を上ったことがある気がするという曖昧な既視感のためだろうか。
事実私は、どうしようもない懐かしさに駆られていた。息苦しくなるような、泣きたくなるようなその感傷は、坂道を上るごとに波のように押し寄せ、私はそれを必死で飲み下さなければならなかった。
坂を上りきると、昨日通り過ぎた件の分かれ道へと出た。分かれ道には看板が立ち、私が来た側ではない方の道には昨日と全く変わらない顔であのバス停が傾いていた。
ひとしきり息を整えると、私はそのバス停へと歩み寄っていった。随分と前に廃線になったのだろう。アスファルトが砕け獣道となったその道には、轍の名残すらも残されてはいない。
さくさくと草を踏んでバス停へと近づいていくと、やはりそこにはしばらく使われていないであろうひさしのついた休憩所と、飲料メーカーの名前の書かれた水色のベンチが置かれていた。
私はその前で暫しの間立ち尽くした。額から流れた汗が顎を伝い、地面へと落ちていく。追いかけるように足元に視線をやった。するとそこに鈍く輝く何かが埋まっているということを私の目は認めた。
手を伸ばし、それを拾い上げる。指先でつまめるほどの大きさのそれを袖で拭ってみる。
へばりついた土の中から現れたのは、どこにでもあるビー玉だった。色もついていなければ、中に装飾があるわけでもない、簡素なビー玉だ。
私はそれを光にかざそうとして――唐突にそれを思い出した。
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