最終話 幸せを描く二人
ヴァイナスは、一人書庫にて唸っていた。
(どうしたらいいの……! セレスト様が、過保護すぎるわ)
年下に過保護などという表現は可笑しいが、最早そうとしか言い表しようがない。
それほどまでに、セレストは甲斐甲斐しくヴァイナスの世話を焼こうとする。
(やっぱり、泣いたのが駄目だったの? あの時、セレスト様を見て安心して、大泣きしてしまったのが不味かったのかしら……年上の威厳とか、余裕とか、そういう諸々が、あの瞬間に全て崩壊してしまったような……)
どうすれば大人としての名誉を回復できるのだろうかと頭をひねるが、一向に妙案は浮かばない。
「ヴァイナス!」
その間にも、居場所を探し当てたセレストが、自分の名前を呼び、つかつかと向かってくるのだ。
(ひぃぃっ! 出た!)
まさか、セレストの出現を恐れる日が来るとは思わなかったとヴァイナスは悲鳴を押し殺す。
セレストの後ろでは、クロムがくっくっと愉快そうに肩を震わせているのが見えた。
(他人事だと思って……!)
クロムからしてみれば、面白いだけの状況だろうが、当事者であるヴァイナスはそうはいかない。
「姿が見えないから、どこに行ったかと思えば……貴方は病み上がりだから、無理はするな」
「い、いいえ、別に体調はどこも悪くないので」
引っ叩かれた顔と締められた首が痛かっただけだといえば、セレストがさらに心配することがわかっているからヴァイナスはもう大丈夫と繰り返す。
「……無理はするな」
「分かっています。セレスト様に、もう心配をかけたくはありませんから」
「それなら、いい。……体調がいいなら、散歩しよう。庭に新しい花が咲いたんだ」
自然にヴァイナスの手をとり、先を歩くセレストは、初めてあった頃よりも少し頼もしく見えた。
促されるまま庭園の前まで来ると、不意にセレストが足を止める。
そして、少し後ろを歩いていたクロムを振り返った。
「クロム、少しここで待っていろ」
「へ? ……ははーん……わかりました、頑張ってくださいね殿下!」
待機命令を受けたクロムは、訳知り顔でニタつく。
ニヤニヤするなとセレストに叱責されても、どこ吹く風だ。
首を傾げつつ、ヴァイナスはそのまま庭園に足を踏み入れた。
ずんずんと庭園の中を進むセレストは、一つの花の前で足を止める。
「わぁ、白薔薇ですか……以前教えて下さいましたものね」
「そうだ。……あの時の他愛ない話を、覚えていてくれたのか」
嬉しそうに笑ったセレストは、白薔薇にそっと触れた。
「……これは、母上の輿入れの際植えられた花だ」
優美に咲く白い花に見入っていたヴァイナスは、思わぬ言葉に動きを止める。
すると、セレストはヴァイナスの疑念を否定するように首を横に振り、笑った。
「そんなにビクビクしないでくれ。僕は純粋に、この花を貴方に見せたかっただけだ」
「……私にですか?」
「うん。……僕は、母上が亡くなってからずっと、この花を見る事を避けていた。……でも、どうしてだろうな、貴方に見せたくなったんだ。貴方に見せたらどんな顔をするかとか、なんて言うだろうかと考えていたら、とても楽しくなった」
それは良かった。いい事だとヴァイナスは微笑む。
「一緒に見に来てよかった。貴方はとても綺麗に笑ってくれた」
「……え?」
今、セレストはさらりと、すごい事を言わなかっただろうか。
ヴァイナスはとうとう己の耳がおかしくなったのかと、戸惑った。
「あの、セレスト様? 今、なんと……?」
「あなたの笑顔が、とても綺麗だと言った。おかしいことは言っていない。貴方は、この世のどんな花よりも美しく、どんな宝石よりも輝いている」
「いえ、おかしいです」
そんな褒め言葉は、妹であるアイリスに向けられてしかるべき賛辞であり、ヴァイナスには無縁だった。
(大変! セレスト様がおかしい! クロムを呼んで……いいえ、わたしが抱えて行った方が速いわ……!)
混乱したヴァイナスが慌てていると、反応が予想と違ったのか、セレストは不満そうに首をかしげた。
「……たしかに、おかしいな。クロムの話では、女性はこういった言葉を喜ぶとの事だった。それなのに、貴方は今、とても困った顔をしている……。もしかして、僕はからかわれたのか……?」
あの、世話好きな護衛のせいかと合点が行って、ヴァイナスはため息をついた。
「クロムも、からかったつもりは、無いのでしょうけど……。セレスト様には……ええと、そういった言葉は、まだ早いかと……」
「子供扱いするな」
ムッとしたように眉を寄せるセレストに苦笑してヴァイナスは頭を撫でる。
「子供扱いするな、と言われましても」
ちょうど手が届く位置に、頭があるのだから仕方が無い。
「……くっ、今に見ていろ……! 僕はあっという間に大きくなるんだからな……! 貴方の背なんか、すぐに追い越すんだ!」
「それはそれは……、とても楽しみです」
微笑ましげなヴァイナスに対し、セレストは完全にふくれっ面になる。
夫の機嫌を直そうと、頭を撫でるヴァイナスだったが、不意にセレストにその手を捕まれた。
戸惑いを浮かべ見下ろすと、きらきらと強く輝く青い双眸と視線がぶつかる。
その輝きに気をとられているうちに、セレストの方が先に口を開く。
「少し屈め!」
ビシッと言い放つ姿は、堂々としており、大変立派なのだが……。言われた内容が不思議で、ヴァイナスの口からは了承の返事ではなく疑問の声が上がる。
「あの?」
「……いいから! 少しの間でいいから、屈んでくれ!」
動かないヴァイナスにじれたのか、セレストは握った手を引いて、強く訴えてきた。
(何かしら?)
疑問だらけのまま中腰になったヴァイナスが気が付くと――背伸びをしたセレストの顔が近くにあった。
(――あ……)
ヴァイナスの頬にセレストの唇が一瞬だけ触れて、離れていく。
思わず自分の頬を抑えセレストを見ると、彼は顔を真っ赤にして俯いていた。
「……やっぱり、早く大人にならないと……これじゃ、格好悪い……」
聞こえてきた内容に、ヴァイナスは思わず笑みを浮かべてしまう。
「格好悪くなんてありません。セレスト様はいつだって、誰よりも格好いいです」
「……本当か?」
「はい。ですから、どうかそのままゆっくり大人になって下さい」
イグニスに来る前は、明るい未来など想像もしていなかったのに――。ヴァイナスは、自分の変化に驚きつつも、穏やかな気分で、セレストに手を差し出す。
「……あんまりゆっくりはダメだ。キスする時に背伸びをする夫なんて、やっぱり格好悪いから」
ヴァイナスを見つめ、拗ねたように呟いたセレスト。
彼は、差し出された目の前の手に、当たり前のように自身の手を重ねた。そして、しっかりと繋ぐ。
「セレスト様、幸せですか?」
「うん、幸せだ。ここに、貴方がいてくれるから」
唐突な問いかけだというのに、セレストは出会った頃よりもずっと明るい笑みを浮かべ答えてくれる。それだけで、ヴァイナスの胸は暖かくなった。
「ヴァイナス、貴方はどうだ?」
「私も、幸せです」
心の底から、そう思った。
誰にも顧みられない、無意味な結婚を、有意義なものに変えてくれたのは、セレストという存在だ。
きっと、彼が夫でなければこんな風に思うことなど無かっただろう。
以前の自分を思い返したヴァイナスは、もう一度だけ、胸中で呟いた。
(本当に、幸せです)
セレストの瞳を思わせる、澄んだ青い空の下。
二人は顔を見合わせると、明るい笑い声を響かせたのだった。
――後の世で、《王佐の才》と称えられるセレスト・イグニス。
宰相として兄王の治世を支えた彼は、たいへんな愛妻としても記録に残っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます