第33話 罠への入り口


 ヴァイナスの部屋に向かう途中、珍しくずっと黙っていたクロムが、唐突に口を開いた。


「……奥方様、貴方には本当に感謝しているんです」


 その眼差しは、思いのほか、真剣味を帯びている。


「どうしたのですか、突然……」


 驚いたヴァイナスが振り返ると、クロムは苦笑して頭をかいた。


「実は俺、セレスト殿下の護衛になった当初は、もの凄く邪険にされていたんですよ。元々、ゼニス様と親しくしていたので、そんな男がどうして自分の護衛になったんだって、警戒心全開で、酷いものでした」

「……きっと、戸惑っていたのでしょうね。そして、貴方の身を心配していた。――不器用ですから、セレスト様は」


 セレストの胸中を察したヴァイナスが呟くと、クロムも同感だと頷いた。


「今なら、俺もそう思います。俺がゼニス様から言われてきた人間だって分かってて、それでも傍においてくれていたと気づいたのは、少し後でしたから……。それまでは本当、ただひたすら、生意気なお子様って感じで」


 懐かしむようにしみじみと語るクロム。

 きっと、セレストの不器用さに気づいてからはずっと、こんな優しい顔で見守ってきたのだろう。容易に想像が付いて、ヴァイナスも笑みを浮かべる。


 セレストも、口ではなんだかんだと言いながら、それでも傍にいてくれたクロムと、自身がもっとも信頼する男を、弟の護衛として手回ししてくれた兄の気持ちが嬉しかったのだろう。


「……手のかかる主だったんですが、最近ちょっと変わったように思うんです。……知ってます? 殿下、よく笑うようになったんですよ。……貴方と出会ってから」

「そうなのですか……?」

「そうなんです。……俺は、貴方にとても感謝しています、貴方が来てくれて本当に良かったと心から思っている。……だから、出来ることなら、こんな事には巻き込みたくはなかった」


 ようやくヴァイナスはクロムが本当に言いたいことを察した。

 ゼニスが言っていた例の――協力の話なのだろう。


「クロム、巻き込まれたのではありません。私にとって重要な事だから、自らの意思で協力するのです。……自分の夫の安全に関わる事なのに、知らん振りできるはずないでしょう」

「……ですね、貴方ならきっとそう言ってくれると分かっていた。……だからギリギリまで巻き込みたくはなかったんですよ」

「もしかして、心配してくれているんですか?」


 ヴァイナスが驚いて尋ねると、クロムは実に珍しく、照れたように目をそらした。


「……奥方様、そんな意外そうに言わないで下さい。俺だって、心配くらいしますよ」

「でも、私は体のいい餌で……」

「餌なんかじゃありません、貴方は大切な方だ」


 ヴァイナスの後ろ向きな言葉を、クロムは被せるような勢いできっぱりと否定する。

 それに驚いたヴァイナスに対して、クロムは小さくスミマセンと呟いたが、困った顔のまま、餌という部分だけは再度否定した。


「……餌なんて言い方は、しないで下さい。セレスト様にとって、貴方は無くてはならない存在なんです。……ですから、今更かもしれませんが言わせて下さい。ヴァイナス様、どうか無茶はしないで下さい」


 信用が無いなと、ヴァイナスが苦笑いを浮かべると、クロムは当然だと頷いた。


「宰相閣下にケンカを吹っかけていたのは、どこのどなたですか。……俺は、血の気が引きましたよ」

「でも……基本的に悪いのは、あちらの方で……」

「言い訳無用です。……とにかく、あの男を挑発したりはしないように」

「……クロム……。貴方は、私を一体なんだと思っているのですか」


 ついつい睨みつけてしまうヴァイナスに、クロムは待ってましたというように、ニコリと笑みを浮かべた。


「無論、お守りすべき大切なお方ですよ、奥方様」

「どうもありがとうございます。そこまで案じてくれる貴方には、申し訳ないことですが、今回の一件、私はゼニス様を信頼しておりませんので。……私が信じるのは、あくまで貴方ですからね、クロム」

「俺、ですか?」

「セレスト様が信じる貴方を、私も信じることにしたのですよ」


 ゼニス一人に協力しろなどと言われれば、絶対に頷かなかったと断言できる。

 初めは、胡散臭い男としか思っていなかったクロムが、セレストを兄のように見守っている姿を今まで何度も見てきたからこそ、決断できたのだ。


(あの時疑った自分が馬鹿みたい。本当に、杞憂だったわね)


 セレスト関連において、クロム程信頼できる人間はいない。それは、揺るぎない事実としては、ヴァイナスの中で明確な形となっている。

 面と向かって、信じるという言葉をもらったクロムは、じっと意味を噛みしめるように黙りこんだ後、真剣な表情で礼をとった。


「……勿体ないお言葉です。――奥方様、どうか俺が言った事を守ってくださいね? 決して、あの男を刺激しないでください」


 何もクロムは、ヴァイナスの護衛のためだけにセレストを自室に残してきたのではない。彼は、セレストには決して聞かれない場所を選び、協力者であるヴァイナスに、ゼニスの作戦を伝える役目を担っていたのだ。


 部屋を出てからずっと緊張感を帯びていたのは、伝える最適の瞬間を見計らっていたからか、それとも、巻き込みたくないと言う言葉通り、彼は思い悩んでいたのだろうか。

 自分はもう、覚悟を決めている。そんな遠慮は必要ないと、ヴァイナスはクロムの背中を押すため、彼に問いかけた。


「始まるのですね、クロム」

「――はい」


 明言を避けていたクロムも、面と向かって聞かれてはどうしようもないと言う風に苦笑し、――けれども、はっきりと頷く。


 ゼニスが持ちかけてきた協力の瞬間が、刻々と迫ってくる。


 二人の視線は、前方――ヴァイナスの部屋がある方に向く。両者の目には、険しい色が宿っていた。

 一定の歩調を保ちつつ、クロムはゼニスからの言付けをヴァイナスに伝えてくれる。


「奥方様。部屋に入れば、後はもう、向こうの手の内と言う事になります。貴方はただ、あの部屋に入るだけでいいとの事です」


 あの第一王子は、現れるのも唐突ならば、作戦とやらを実行するのも突然だ。ゼニスのおかげで、状況の変化が目まぐるしい。


(あの方が特別せっかちという訳では無くて……それだけ、ジェオルジの方に余裕がないと言う事かしら)


 だとしたら、自分がやった事はそれなりに役に立ったのだなと、ヴァイナスは少しだけ愉快な気分になった。


「それは随分と楽な役割ですね。……私は構いませんが、部屋で常に一人きりというわけではありませんよ。すぐにアンナが戻ってくるでしょうし」

「アンナに関しては問題ありません。彼女には後片付けがあるので、まだ戻って来られない。――それに、彼女もまた、協力者ですから」


 なるほど、手際がいいとヴァイナスは素直に感心した。

 ゼニスという男は、むやみやたらに自信に満ちていたわけではなく、それなりの手腕も持ち合わせていたようだ。

 巻き込む心配がないのならば、ヴァイナスから言うことは何もない。


「わかりました。私は、私のなすべき事をいたしましょう」

「……しばし、ご辛抱下さい奥方様」


 沈痛な表情のクロムに、ヴァイナスは笑顔で答えた。


「それが、セレスト様のためになる事ならば」


 自室はもう、すぐそこだった。

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