カレーに生卵
いとうみこと
第1話
「ちょっとやめてよ、カレーに生卵は気持ち悪いって言ってるでしょ?」
俺はカレーが好きだ。毎日でもいい。その大好物のカレーに、これまた大好物の生卵を落とす度に、妻は毎回こうして文句を言う。結婚してもう15年も経つというのに飽きもせず毎回指摘する。いい加減に慣れてくれよと俺は思う。そもそも、結婚前は何にも言わなかったじゃないか。
「せめて半熟の目玉焼きとか、温泉卵にしなさいよ。」
「じゃあ作ってくれるのかよ。」
「嫌よ、めんどくさい。自分でやってちょうだい。」
妻の手を煩わすことなく、自分も手間をかけることのない、生卵は完璧なカレーのお供だ。それなのに一体何の文句があるっていうんだ。
「カレーがあるだけで、たまごかけごはんと同じだろう。お前だって食べるじゃないか。」
「全然、違うわよ。見た目が気持ち悪いのよ。ねえ。」
そう言うと、娘たちと目を合わせて嫌そうな顔を一斉に俺に向けた。
女ってやつはいつもこうだ。全然論理的じゃない。殆どのことが見た目だったり雰囲気で決まるんだ。しかも子どもたちを味方につけて、多数決でも優位を保とうとする。そんなの全然フェアじゃない。
「お前だって納豆に砂糖を入れるじゃないか。その方が余程気持ち悪いよ。」
いつもなら受け流すのだが、妻の口調が喧嘩腰なのが気に入らない。俺にしては珍しく応戦した。
「はあ?うちの田舎をバカにしないでもらえますか?」
今日の妻はどうやら虫の居所が悪いらしい。俺は踏まなくていい地雷を踏んだようだ。
「砂糖を入れて混ぜると、旨味がアップするってテレビでやってました。理にかなった方法なんです。他所の人に文句言われる筋合いはないわ。」
そこは論理的なんだな。そうなるとちょっと反論しづらい。
「じゃあ、ひっぱりうどんはどうなんだよ。納豆とうどんだぜ?ねちょねちょさ加減は、このカレーの比じゃないぞ。」
「美味しいんだからいいじゃない。」
おっと、それを言うなら生卵をトッピングしたカレーだってめちゃくちゃ旨いんだぞ。トゲトゲしたカレーのスパイスを程良く包み込んで、一晩寝かせたカレーのようにまろやかにしてくれるんだ。
声を大にして言いたいところをグッとこらえて、俺はカレーをかき込んだ。せっかくの好物なのに気分が悪い。
俺はお代わりのために立ち上がった。後ろから追撃を食らう。
「明日のお弁当の分が無くなるから、もう卵使わないでね。」
卵くらい好きに使わせろ!
俺は妻の呼びかけには答えないで、冷蔵庫の扉を開けた。
「おい、福神漬はどこにあるんだ。」
2杯目は、福神漬をたっぷりのせて食べると決めている。食卓に無かったから、自分で取りに来たのに、見当たらない。
「福神漬なら買ってないわよ。」
俺はくるりと振り返って、自分でも驚くような大声を出した。
「はあ?俺が福神漬好きなの知ってるだろ!」
「だったら自分で買ってきたら?あたし達らっきょう派だもんねえ。」
また子どもたちを巻き込みやがって。いったい何があったんだ。いや、今更尋ねたところで、火に油だな。放っておこう。
俺は福神漬を諦めて、カレーをたっぷりかけた皿を持ってリビングに移動した。不機嫌な妻の顔を見るのはもううんざりだ。
「カレーこぼしたら承知しないからねっ。」
そう捨て台詞を吐くと、大きな音を立てて出て行った。娘たちには行儀が悪いと怒るくせに。
そこへ、中2の娘が腕組みをしながらやって来た。
「パパったら、ホント女心がわからないのね。」
「え?」
随分ませた口ぶりだ。それにしても、顔も声も妻によく似てきた。
「今日が何の日か忘れたの?」
「今日?」
俺は何かの約束を忘れていたのか?誕生日ではないし。まてよ。
「あ。」
「思い出した?」
「結婚記念日か?」
「そうだよ。16回目の結婚記念日。ママはパパのために大好きなカレーを作ったんだよ。卵だってたっぷりあるし、福神漬だってちゃんと冷蔵庫に入ってるよ。」
そうだ。妻は、ど定番のなんの変哲もない普通のカレーが好きな俺のために、毎年結婚記念日には欠かさずカレーを作ってくれている。その日は卵だって福神漬だって食べ放題だ。
やっちまった。
「早く謝っておいでよ。ママ、今頃泣いてるかもよ。」
「うーん。何て言おう…。」
「何も言わなくても、後ろからハグして、ごめんね、愛してるよって言えばいいんだよ。」
はあ?
「お前、どこでそんなこと…。」
「何でもいいから、早く早く。」
娘に背中を押されて、廊下に出ると、洗面所から灯りが漏れていた。妻の背中が見える。
娘に言われた通りというのは考えものだが、他に思いつかなかった。
微かに鼻をすする妻を、俺はそっと後ろから抱きしめた。
「カレー美味しかった。ごめん。愛してるよ。」
暫しの沈黙。こうして妻に触れるのは久しぶりだが、そう悪くないなと思い始めたその時、妻からクスクスと笑いが漏れた。
「いえーい!大成功!」
突然バンザイをして俺をはねのけたのを合図に、リビングから娘たちが飛び出して来た。
「ほら、ママの言う通り!明日から1週間、お風呂掃除と玄関掃除よろしくねえ。」
「嘘だあ。ホントにママの言う通りになるなんて信じられない。」
「パパのバーカ!」
え、何で俺がなじられてるんだ?
大体、何だよこれは!
振り向きざまに妻が笑いながら言った。
「結婚記念日忘れた罰よ。」
きゃっきゃと楽しそうにリビングへ消える女たち。
はあ?
何だよそれ。
確かに、結婚記念日を忘れていた俺も悪いけど、それはないだろう。
俺はふと、さっき感じた妻のぬくもりを思い出した。
まあいいさ。今日は卵も福神漬も食べ放題だ。腹が痛くなるまで食ってやる!
ドアの向こうからは、賑やかな笑い声が漏れていた。
カレーに生卵 いとうみこと @Ito-Mikoto
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