2.病室の犯罪学者
「紫木先生!」
病室の扉を引き切ったとき、その感触で扉を破壊してしまったのではないかと思った。私はそれくらいの勢いで紫木の寝ている三〇八病室へ飛び込んでいた。四人が入れる部屋で、入り口側左のベッド以外の三つが埋まっている。紫木の姿はすぐに目に入った。手前右側のベッドに見覚えのある顔が寝ている。普段のスーツ姿は取っ払われ、患者用の薄緑の服を身にまとっていた。眼鏡もない。
「あ、やっほー神園さ」
「大丈夫紫木先生!?」
私に気づいたらしい紫木が言葉を言い終わるより早く、私は彼のベッドへ飛び掛かっていた。半ば衝突する格好となり、ベッドが定位置から大きくずれる。紫木は目を見開いて体を引き、私との激突を回避した。
「倒れたって!? いったいなんで」
「ちょっと、落ち着いてください……神園薫さんですか?」
横合いから聞き覚えの無い声で話しかけられ、紫木の様子が想像よりも深刻ではなさそうなのも手伝って頭が冷えていく。同時に、病室の全員が私の姿を、まるでパニック映画のクリーチャーでも見るかのような表情で見つめていることに気づいた。特に私のことを知らないだろう、奥の入院患者二人とその見舞客にとっては狂乱女突然現わるという印象なのか、その手がナースコールに伸びかけていた。
「あっ、すいませんお騒がせして……ちょっと気が動転していて。怪しい者ではないですから、本当に……」
警察官が病院で騒ぎを起こして看護師につまみ出される、というのはあまりにもまずいので、私は乱れた髪を手櫛で直しつつ取り繕った。患者たちはとりあえず危険ではないと判断してくれたのか視線を私からはなす。その様子で私は一安心し、改めて今度は落ち着いた心持ちでベッドに横たわる紫木と、隣に座る若い女性を見た。
「えっと、大丈夫ですか?」
「えぇ、ごめんなさい……あなたが電話をくれた?」
「はい。鹿鳴館大学大学院の森百花と言います。紫木先生の講義でティーチングアシスタントを務めていまして、その講義で倒れられたので救急車を呼んで付き添いました」
「ティーチングアシスタント?」
「講義のお手伝いをしてくれる人ですよ。あはは」
聞き慣れない言葉を紫木が解説してくれる。ただその口調がおかしい。
「先生、なんでそんなにふわふわへらへらしてるの?」
「先生に使った鎮痛剤が強かったみたいで、その副作用でトんじゃってるらしく」
「鎮痛剤でトぶ」
「まさか。えへへ」
あぁこれはトんでますわ。口元が緩んで収まらない、私も見たことのあるドラック常用者のそれだ。ある意味では貴重な姿だけど、普段は冷静な先生が麻薬常用者みたいに目線を泳がせてベッドに寝ているさまはちょっといたたまれない。
「そう言えば、いったいなんで倒れて?」
「盲腸だそうです」
「なんだ盲腸か……」
私ががっくりときて、ベッドの傍にあったパイプ椅子へ腰かけた。突然倒れたと聞いたのでもっと重篤な病を想像してしまっていたけど、それなら大慌てで駆けつける必要もなかったか。
よく考えれば、私に電話してきた森の口調に切羽詰まった様子がない時点で気付くべきだった。けれど平さんが直前に変な話をするせいで、発想がおかしな方向へ流れて行ってしまった。
「私を呼んだのは紫木先生の指示なの?」
「いえ、お医者さんの指示です。誰か家族を呼ぶようにと言われたんですけど、先生の家族がどこにいるかとか全然知らなくて……とりあえず携帯で一番頻繁に電話している人にと思って。あっ、ちょうどお医者さんが」
森が病室の扉を指さす。見ると、白衣を着た中年の女性が入ってくるところだった。首から下げた名札には「外科長 葉原春子」と書かれている。癖のある髪の毛を掻き揚げ、化粧っ気のない顔にビジネススマイルを張り付けている。
「こんにちは。紫木優さんの……えっと、奥様ですか」
不意の質問に、私は一瞬言葉が詰まって出てこなかった。奥さん?
「いえ、違いますが……まぁでも関係者です、はい」
「そうですか。そうかぁ……」
葉原は私の戸惑いをあっさり流すと、困ったように顔を歪めた。連日忙しいのか、隈のできた目元が険しい。
「あの、どうして私が呼ばれたんでしょうか」
「いえ実は、この患者さんは盲腸炎なんですけどね。盲腸の治療では手術をして、切ってしまうのが一般的なのはご存知ですよね」
「はい」
それくらいは知っている。だけどそれが私の呼び出しと何の関係があるのかわからずに、あいまいな返事になってしまう。
葉原は、大きなため息をひとつついた。
「紫木さん、手術を拒否してまして。ご家族の方がいれば説得してもらおうと思ったのですが」
「……え?」
私はベッドで横になる紫木を見た。彼は私に視線を向けられると、ばつが悪そうに顔をそむける。そんなすねた子供みたいな先生の様子を、森が心配そうな表情で眺めていた。
「……なんで?」
「いや、その……痛いじゃないですか。お腹切るの」
「はぁ……」
要領を得ない答えに、状況がますます混迷を極める。そりゃ、お腹を切ったら痛いかもしれないけど……。
「いや痛いって……いまも十分痛いでしょ。倒れるくらいなんだから」
「いまは大丈夫ですよ。鎮痛剤も聞いてますし……ともかく、手術は嫌です。最近は薬で治療できるとも言いますし、ぜひそちらの治療方法で痛いっ!!」
まくしたてる紫木が突然飛び上がった。森に脇腹、ちょうど盲腸があるあたりをつつかれたせいだった。三枚おろしにされる寸前、何とか逃げ出そうとする魚のようにベッドの上をじたばた飛び跳ねる。葉原はそんな彼の様子を冷静に見下ろした。
「……紫木さん、薬による治療は時間がかかりますし、うまくいくとも限りません。最悪の場合数週間そのままですが」
「それ、でも……痛っ……」
のたうち回るような痛みでも彼の意志は固いらしい。涙目になりながらも、彼は機械人形のように首を横へ振って拒否の意思を示していた。
正直、痛々しくて見てられない。好きな俳優が殺人犯だったみたいな(実際、過去に経験があるけど)、そういう人の見てはいけない面を見てしまった気分だ。いったい何が、彼をここまで意固地にさせるのだろう。
私はそばに置かれていたパイプ椅子を引っ張ってきて、紫木のそばへ腰かけた。じっと彼の顔を、深海のように真っ黒な瞳を見つめる。眼鏡のレンズ越しではないこの瞳を見るのは、初めてかもしれない。
「紫木先生、手術をそこまで嫌がる理由はわからないけど、しんどくない?」
「しんどくは……大丈……」
言葉とは裏腹に全然大丈夫じゃなさそうなのは明らかだった。鎮痛剤もそろそろ効果切れなのか、額に脂汗が浮き始めている。私はベッドサイドのタオルを取って汗を拭いてあげた。
「先生も頭いいんだから、多少苦しくてもさっさと切っちゃった方がいいのはわかってるんでしょ? そっちのほうが病院にいる時間も短くて済むし」
「そうですよ。入院が長引けば講義にも大穴が空きますし、雑誌に採択されそうな論文もあるんですよね? 病院でだたこねて原稿落とすのはもったいないですよ」
「ほら、テーチィン……なんちゃらの子もそう言ってるし」
私に森も加勢して、左右から説得を試みる。紫木はぐったりした視線で天井を見つめると、弱々しい「わかりましたよ」と呟いた。
「手術受けますよ。受ければいいんでしょ……」
彼の言葉は投げやりだったが、ともあれ言質は取った。ようやくの宗旨替えに、森が手を叩いてはしゃぐ。
「よし、決まりですね先生!」
「えぇじゃあ、手続きを……すいませんっ!」
葉原はそこで言葉を切ると、突如として踵を返し、廊下へ飛び出していった。彼女が病室の扉を開いた瞬間、廊下に響く大音量の放送がこちらへ流れ込んでくる。反響してしまってよく聞こえないが、スタットなんちゃらなどと言っている。そのあとに続く数字は病室の部屋番号のようにも思える。
病室には、茫然と葉原を見送った私たちだけが取り残された。
「えっと……なんだったんでしょうか、いまの」
「さて……」
「今日はびっくりすることが多いわ……」
三人とも、しばらく無言で扉を見つめていた。
「え、これ手術の件は大丈夫なんだよね? 先生の気が変わる前に確定させたいんだけど」
「この期に及んで態度を変えたりしませんよ……」
などと言い合っていると、病室の扉が開いた。葉原が帰ってきたのかと思ったが、顔を出したのは全然違う女性だった。白衣も着ていないが、首からは葉原と同じように職員証を下げていた。若い女性で、茶色っぽい波打つ髪が丸い顔を包み込んでいる。年齢は紫木と同じか、少し若いくらいだろう。
彼女は私たちの方を見ると、満面の笑顔になった。
「あぁやっぱりっ! 紫木くんだ!」
紫木もその顔で、気づいたように起き上がる。
「永川か? この距離だと顔がぼやけて……」
森が即座に、メガネを紫木へ手渡した。彼は目をレンズの奥でしばたたかせ、相手の顔を確認するとおぉっと驚いたような声をあげる。
「まさかこんなところで会うとは。久しぶり。大学院の……修士のとき以来だよな?」
「そうそう久しぶり。元気してた? こっちこそびっくりだよ。義足つけて、手術するしないで大騒ぎしてる患者さんがいるって聞いたときまさかと思ったけど、本当に紫木くんだったとは。変わってないね」
永川はそう言って私たちのもとへ駆け寄ってくる。昔からの知り合いらしく、紫木が敬語を使っていない。彼がため口で話すのを聞くのは初めてだ。変な感じがする。
っていうか、変わってないって……大学院生のときから、手術するときいちいちもめるようなキャラだったのか? 紫木は。
「えっと、こちらの方は?」
森が紫木と永川をきょろきょろと交互に見ながら言った。永川が私たちに気づいたように姿勢を正す。
「すいません勝手に盛り上がちゃって……この烏河病院で臨床心理士をしています。永川奈央です。紫木くんとは浪士社大学時代からの同窓生で。お二人は?」
「こちらは京都府警の神園薫刑事、そしてこっちは」
「鹿鳴館大学大学院修士の森百花です。紫木先生の授業でTAをしていました」
紫木の言葉を森が引き取って続ける。永川はそれを聞くと、腕を組んで感慨深そうに唸った。
「紫木くん、もうそんな年なんだ」
「教員になってもう二年経つ。TAだって頼むようになるさ」
「へぇ。紫木先生、ねぇ……変な感じ」
永川は「先生」を強調して言うと、にんまり笑った。昔からの知り合いが立場も変わって偉くなっている違和感はこそばゆいものがあるのだろう。
私は、平さんに言ったように同窓会にも出ていない身の上なのでよくわからないけど。
「でもなんで刑事さんが?」
「前に何度か事件で協力してね。その繋がり」
永川は私を、感心したような顔で見上げる。一般市民から向けられる視線はいつものことだけど、これはこれでこそばゆい。
彼女は私をひとしきり眺めると、ちょうどいいかなと呟いた。そして膝を折って紫木と視線を合わせ、にわかに真剣な表情になって「相談があるんだけど」と言った。紫木も彼女の雰囲気が変わったのを察してか、背筋を伸ばして相手を見据えた。私はリモコンを操作してベッドの頭を上げ、紫木が背をもたれられるようにする。
森は「ちょっと飲み物でも買ってきますね」と言って部屋を足早に去った。私もそうするべきかなと思ったけど、永川が言った「ちょうどいい」の意味が気になっていた。席を外してほしいともいわれていないし、あの様子だと私はむしろいた方がよさそうだった。
「それで……相談?」
「うん」
私と紫木の視線が永川にそそがれるなか、彼女は口を開いた。
「この病院で起きてるかもしれない、連続殺人事件について」
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