第1話 献身の規定因

1.ケーキ屋さん

「いやぁ、ごめんね神園さん。変なことに付き合わせちゃって」

 先輩刑事の平塚、通称平さんは捜査第一課の刑事という肩書には似合わない温厚な顔をさらに申し訳なさそうに歪めて言った。私としては、京都一の不良刑事という肩書が板につく前、革ジャンとジーパンがトレードマークになる前からずっとお世話になりっぱなしの平さんの頼みだ。

「いえ、これくらいは……」

 などと言って二つ返事で引き受けたのだけど、正直列に並び始めて十分くらいでもう後悔を始めていた。

 なにせ可愛らしい、当世風に言うならばSNS映えしそうなケーキ屋さん(それこそ、自然にさん付けしたくなる雰囲気)である。平さんは「男一人だと並びにくくて」なんて言うけれど、いやいや、私みたいな厳つい女が一人増えたところでその並びにくさ、場違いさは大差ない様な気がする。というか、増している気がする。五十を通り越したおっさんと四十に届こうとしているおばさんが一緒に警察車両で乗り付けて並んでケーキって、なんでそんなことになってしまったのか。

 そう尋ねると、平さんは照れくさそうに小声で、

「奥さんに買っていってあげたくて。甘いもの好きだから」

 と答えた。そう言われてしまうと「やっぱ無理です」と中座することも憚られて、私はさらに後悔の念を強めるのだった。せっかく大きな事件が予想よりも早く解決し、刑事にしては珍しく定時で帰れるという日に何を私はしているのだろうと思う。

 ただ平さんに付き合うだけで帰るのは癪なので、自分の分のケーキも買おうか、せっかくだから親友の晶とか受付でいつも雑談する婦警たちにも買っていってあげようかとも思うのだけど、ショーケースに並んでいるケーキは私が買うにはいささか可愛らしすぎた。なるほど確かに、ひとつひとつのケーキは小さく輝いていて宝石のようだったし、これを晶たちにあげたらすごく喜ぶだろうなと思うけど、店員に「森のリスさんブッシュドノエルをひとつ」などと言う勇気はなかった。だいたいなんだ、「森のリスさんブッシュドノエル」って。ブッシュドノエルという単語だけで呂律が限界ギリギリだって。私の人生、その折り返し地点でリスにさん付けする思い出を作るのはいささか重い。チ○プとデ○ルならまだしもだ。もっとこう、ただのイチゴのショートケーキとか、そういう定番のはないのだろうか。そうやって見渡すとショートケーキはあるのだが、案の定「三種のイチゴのラブリーショートケーキ」などと浮かれたネーミングをされてしまっている。ラブリーて。イチゴって三種類もあるのか。初めて知った。

「平さんは、奥さん想いなんですね」

 そういうわけで私は、ケーキ屋さんのメルヘンに呑まれないように話を平さんの結婚生活に展開させた。平さんも居心地が悪そうにネクタイを締めたり緩めたりを繰り返していて、私の話題に乗っかる。

「どうだろう。私はそう特別奥さん想いというわけじゃないと思うよ」

「そうですか? 誕生日や記念日でもないのにわざわざケーキを買っていくなんて、そうとう相手に対する思いやりがないと出来ないと思いますけど」

「そうかい? 好きな相手の嬉しそうな顔を見たいなと、気まぐれに思ってるだけだけど」

 なーんて、と自分の発言がストレートなノロケになっていることに気づいた平さんは冗談めかして付け加えた。額から汗が流れ落ちている。

 好きな人の嬉しそうな顔が見たい、か。私は誰かにそこまで強い感情を抱いた経験がない……と思うから、平さんの言うことは分からないでもないけど、でもしっくりくるわけではなかった。事件に関わった被害者やその関係者に、出来るだけ早く吉報をもたらしたいと思って捜査に臨むことはあるけど、それとはちょっと違う気が。

「いや、似たようなものだと思うよ」

 しかしそんな私の考えは、平さんに否定されてしまう。

「ちょっと個人的か、公的かの違いはあるけど、そう違うものでもないんじゃないかな。誰かのためになりたいという動機は全てに通じるからね。このショーケースに並んだケーキも、多かれ少なかれそういう動機で作られてるんだろうし」

 だったらもうちょっと買い求めやすい、落ち着いたネーミングにしてほしかった。ということは、まぁ、このケーキを作り上げた職人たちの「喜ばせたい人たち」の中に私が含まれていないということなのだろう。誰かにリソースを割くということは、そのリソースを誰かに割かないということと同義なのだ。

 被害者に対する献身も、加害者からすれば脅威でしかない。そうやって逆恨みを買うのも警官の仕事で、お礼参りされるようになったら一人前というのが新米だった私に警部が言ったことだった。

 それはそのとき、平さんが全力で否定したけど。

「……こんなことを聞くのもあれだけど」

 列が進み、ゴールが見えてくる。あと五人くらいでレジにたどり着けるというときに平さんが口を開いた。

「なんです?」

「神園さんは結婚とか考えてないのかい?」

「……へぇ?」

 私は平さんの言葉がすぐに理解できず、間抜けな声で聞き返してしまう。平さんはそれに「結婚は?」と言い直す。

 私も御年三十八歳だ。この手の質問はもう聞き飽きるくらいされてきた。特に刑事になろうという、昔ながらの古臭い男たちにとって、この質問は独身女性に対するマントラのようなものだという認識らしく、これさえ言っておけば黙らせられるだろうと思っている節がある。実際のところ、「仕事と結婚してる!」という晶ほどではなくとも私には結婚願望なんてないし、こんな質問されたくらいで黙りはしないけど。

 でも、有象無象の同僚刑事にされれば単なるセクハラだとしても、平さんにされればそうではない。彼はそういう目的で言葉を振るう人間ではないし、話の流れとは言えこの質問にも思うところがあるのだろう。

 とはいえ。

「いえ、特には」

 実際考えてもいない話だったので、私は無味乾燥な返事をすることしかできなかった。平さんはそれを聞くと小さく「そうか」とだけ言う。

 列がまた進んだ。

「じゃああの人は? ほら、噂の犯罪学者の」

「犯罪学者? あぁ、紫木先生ですか? 彼がいったい?」

 紫木優。そういう個性的なわりに覚えやすい名前の人物は、鹿鳴館大学に勤める犯罪学の研究者だ。京都府警はすでに三度、彼の頭脳に助けられている。私は左遷の危機を彼のおかげで回避したし、そのあとも何度かその知識をレクチャーしてもらっていた。

 うん?

 でもなぜこの流れで紫木のことが。平さんは紫木と面識がないはずだけど。

「赤井川さんから聞いたんだよ。うまいことやってるんだろう?」

「うまいことって……」

 噂好きの晶があることないこと吹聴するのはいつものことだけど、今度はいったい何を平さんに言ったのだろうか。話の流れからして、「薫は紫木先生といい感じだよ!」とかだろうか。

「赤井川さんは話を盛ってると思うけど」

 と、平さんはそんな晶の噂を差っ引いて理解してくれたようだ。けれど万が一そんな妙な噂が残っても嫌なので、私は、

「いや、私と紫木先生はそういう関係ではないですよ」

 と明確に否定しておいた。それを聞くと平さんは困ったように笑う。列がまた一歩進んだ。

「そうかい。いや、別に神園さんに恋人がいてほしいとか、その人と結婚してほしいというわけじゃないんだよ。ただ、仕事のほかに定期的に会って食事するような人がいるなら安心ということで」

「安心? ですか?」

「そう、安心できる。神園さんにとっては失礼な話かもしれないけどね」

 私自身、京都府警一の不良刑事で通ってしまっている現状があるので、指導役だった平さんに安心などと言われるとぐうの音も出ない。

 でも、平さんの言う安心とは私が想像しているものと少し違うようだった。列が進んで、次が私たちの番になる。

「神園さんはほら、けっこう仕事一辺倒だろう? その点、井原と……警部と似てるよね。神園さんは並べられると嫌がるだろうけど」

 井原警部と平さんは同年代で、彼はよく警部のことを名字で呼ぶ。警部は「いかにも!」な感じの昭和の捜査官で、現場百回足で稼げというタイプ。そして仕事に熱中して家庭を顧みず、定年退職したら熟年離婚しそうだと晶が危惧する男だった。そんなのと私が似ているとは、いくら平さんでも暴言だと文句を言いたいけど、いや、むしろ平さんに言われると冷静にそれを受け止められる。

 私も定年したら熟年離婚か。まだ未婚だけど。

「確かに、京都府警以外の人間関係希薄ですね、私。高校とか大学の同窓会に出たことないですし」

「でも紫木先生が登場したおかげで、ある程度は人間関係に広がりが出ただろう? やっぱり関係性は広い方がいいからね。この縁を大切にした方がいい」

「そう、ですね」

 私は平さんの言葉へ曖昧に返事した。というのも紫木とは最近会ってないからだ。私は事件が頻発して忙しかったし、向こうも四月に入って講義だなんだと慌ただしく予定が合わなかったのだ。

 そうやって考えていると、列が前へ進んでついに私たちの番になった。平さんはすでに注文するケーキを決めていたようで、「森のリスさんブッシュドノエルを二つ」と頼んだ。

 まったく臆せずに言ったぞ、この人。

 そのとき、ポケットに入っていた私の携帯が震えた。取り出してみると、サブディスプレイには紫木の名前が。噂をすれば。私は着信を口実に列から抜け出し、メルヘンなケーキを注文するという試練を回避することができた。

 人ごみをかき分け、ケーキ屋さんから脱する。昔ながらのガラケーなので、携帯を開いて電話に出た。

「もしもし、紫木先生?」

「あっ、もしもし。神園……薫さんのお電話ですか?」

 しかし、電話口に出たのは紫木ではなかった。というか男ですらなかった。戸惑った響きのある若い女性の声だ。

 ……なんで?

「そうですけど、そちらは?」

「あっ、すいません。鹿鳴館大学の森百花と言います。緊急の連絡で、その、ここでいいのか分からなかったんですけど一応と思ってお電話を……」

 緊急の連絡? その一言で頭の中がケーキ屋さんでおろおろしていた独身女性から刑事のそれへと移行していく。森の声色に切羽詰まったものはない。だから落ち着いて話を聞けばいいはず……。

「紫木先生が講義中に倒れてしまいまして。いま烏河病院ににゅう」

 私は最後まで聞かずに動き出していた。

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