さよならは地下鉄で

赤木衛一

第1話

 時間が止まれば良い、と真琴は思う。

 止まったまま溶けてしまえば良いと。そうなればこれ以上みじめな思いをしなくてすむ。そうなれば二人の姿は一枚の写真のように永遠に残って、それ以上どこにも進まない。


 アナウンス。

 三番線に列車が参ります。


 黄色いライトが左から近付いてくる。向かいのホームで乗客が一歩後退するのが見える。みんな黙ったままスマートフォンをにらんで、電車の方角なんて見てはいない。誰もが視姦に励んでいるようで、気味が悪い。綾もその一人だ。

 画面の奥に本当の世界が広がっているみたいに、その世界に取り憑かたみたいに、そこにしか自分の居場所がないとでも言うように、綾は画面を睨み付ける。

 でも見るべきものなんてそこにはない。まやかしだ。映画と同じだ。二時間の逃避。二時間の恋人、二時間の自分。

 でも問題は見ているものが違うだけで、自分も同じだということ。綾を見て、それで別の自分を空想している。可能性の恣意的選択。沈溺あるいは逃避と、真琴は思う。


 地下鉄の放送はいよいよやかましい。警告音を鳴らし、足元のパネルが光る。車輪の音が大きくなる。


 真琴は逃げるように遠方の私立高校に入学した。義務教育の日々が彼女にとって幸福だったとは言い難い。

 中学校生活は底無し沼だった。もがくほどに沈み込む。

 彼女が何かをしたわけではない、いや、何かをしなかったのが結局のところ問題だったのか。入り組んだ思春期の心情は、それだけに不安定だ。


 ある日真琴はサッカー部の同級生から呼び出された。

 告白。性も社会も何も知らないだけ無垢ではあるけど、それだけに致命的なほど盲目な恋は、ついに飽和に達したようで真琴の鼓膜を震わさずにはいられなかったようだ。

 相手の男子のことはひとつも好きではなかったが、真琴は思いやりに溢れていた。良くも悪くも自己を犠牲にして、相手の気持ちに応えたいという思いが強すぎた。

 その真琴の性格が、首を横に振ることを許さなかった。

 それが彼女の失敗だろう。

 真琴の初めての恋人には信望者が多かった。彼女らは真琴のことを決してよく思わなかった。しまいには男子の元カノが筆頭に立って、ありもしない真琴の話が学校に広まった。


高橋先生とヤったらしいよ男子の前だけで可愛こぶってブスのくせに気持ち悪い整形したんだって家が貧乏なんだって駅前でキスしてるの見たよ性格悪いよね浮気してるらしいエンコーしてるらしいヤリマン、デブ、チビ、死ねよ


 真琴の視線に気付いたのか、綾は顔を上げる。微笑みを浮かべる。ホームのこちら側からでもはっきりとわかる微笑みだ。

 その瞬間、真琴の胸は締め付けられる。心臓をえぐられたかのような苦しみを感じる。

 動悸。呼吸困難。

 酸素は吸ったそばから蒸発していくようで、綾への気持ちに沸点に達した真琴の体温が肺を焼いているのか、酸化して内臓が腐っているのか、あるいは単純に死にかけているのか、いずれにせよ向かいのホームの友人が気管に詰まって死にかけているのだ、と真琴は思う。死にかけているのだ、と。


 友人。袋小路。迷路の鼠。言葉の綾。綾。三番ホームの友人。友人。


 真琴は言葉から抜け出せない。自分から抜け出せない。十七才の頭に渦巻く言葉の放流を制御できない。

 友人。一方でその言葉の汎用性に甘えながら、他方ではその言葉に飼い殺されている自分に気付いている。どこにも自分を導かない言葉。意味によって定義された関係。主客の固定、あるいは行き詰まり、流動性の殺人。

 意味は麻薬だ。定義は真琴を、自由を、精神を殺す。


 電車はすでにホームへ半分姿を表している。電車は真琴と綾の間に広がる空間を分断しようと突き進む。その予感が、恐れが、真琴を支配する。

 まるで女を貫かんとする無慈悲な男根のように、その醜い鉄の塊はレールを滑る。


 真琴の逃避は成功した。自分の住む町から、在来線と地下鉄に二時間も揺られないと辿り着かないその私立高校に、好きこのんで入学する生徒などいなかった。

 地元の同級生より二時間早く起きることで、彼らの生活リズムとは別のリズムが出来上がり、顔を合わせることもなくなった。

 中学校で肩身の狭い思いをしていた頃に、すがるようにして中毒になった本も、通学時間で読める。

 利便性を犠牲にしてあまりある利益を手に入れたのだ。

 その最たるものが綾だった。


「可愛いね、それ」と綾は言った。初めて話すのにひとつも臆していない。まるで長年の友達に対するような話し方だ。

「え、」と声に出してあわてて真琴は可愛いものを探した。読んでる本は『スプートニクの恋人』、机の上には無印の筆箱と筆記用具、水色のノート、裸のiPhone、可愛いものなんてない。

「それ、そのブックマーク」

 ああ、と真琴は声に出す。これか、従兄弟のお姉ちゃんがイギリスの土産で買ってきてくれたもの。ハリー・ポッターの映画で見たことある赤い電話ボックスを模したアルミニウムの栞。

「なに読んでるの?」と綾は半ば強引に『スプートニクの恋人』を取り上げた。本は真琴にとっては麻薬以外の何物でもない。抗不安剤、阿片、モルヒネ。

「字しか書いてない」

「小説、だから」

「ふうん」と言うと綾は本を返した。ちゃんと真琴の読んでいたページを開いて。

「スプートニクってなに?」

「人工衛星、世界初の」と真琴は伏し目がちに答える。意図はしていなかったが、彼女は馴れ馴れしい相手から距離を保とうとした。彼女が中学校で身に付けた護身術だ。目立たず注意を引かない、最低限の言葉を使ってなおかつ相手を満足させる。

「ふうん」と綾は答えた。「面白いの?」

 真琴はうなずいた。

「今日、図書室で借りてみよう」

 真琴には綾の心中が読めなかった。

 高校二年生になり、クラスが変わって、一年生の時に仲良くなった子は別の教室に行ってしまった。まるで示し合わせたように真琴だけが別のクラスに編み込まれたのだ。それで幾分憂鬱を感じたりもしていた。その分、また学校で本を開く時間が長くなった。

 証拠も被害もないのに、また自分が陰口を言われてるんだと思っていたのだ。それならば引きこもってしまおうと。

 だから綾のことを警戒していた。自分から本までも取り上げてしまう輩かもしれないと。

 誰かが綾の背中を叩いて、彼女は真琴のことなどもう忘れたみたいに、どこかへ行った。

 次の日、綾は学校に来なかった。


「おい」と朝、教室に入った真琴に綾は声をかけた。恫喝に近いような声で、真琴は体をこわばらせた。耳が急いでシャッターを閉めようと、脳への回路を遮断してしまおうとしていた。

「すごく良かった」と綾は真琴の手を握った。「すごく良かった!」

 何の話かわからず、真琴はおずおずと視線を向けた。爛々とした瞳は朝陽を受けたかのようでまぶしいほどの輝きを放っていた。

「スプートニクだよ!夢中になりすぎて、昨日学校休んで二回も読んだ!」

 間違いなく、真琴の人生で最も幸せな瞬間だった。目の前の生徒が尊敬の眼差しを向けているのがわかった。そんな目で見られたことはなかった。

「ああ」と不器用な笑みを真琴が浮かべたのは、喜びの表し方がわからなかったのと、面食らったからだ。まさか綾が本当に図書室で本を借りて読むだなんて思ってなかった。

「わけわかんないけど、それがなんか読ませるんだよね、不思議と」と綾は真琴の下手な感情表現なんて気にせず続けた。「放課後、図書室についてきてよ、別のも教えてよ」

「良いよ」と真琴は笑った。

 もっと素敵な笑みで綾は答えた。


 その出会いから二年近く経った。

 二人はいつも一緒だった。

 お弁当を披露しあって、ノートの貸し借りをして、放課後は図書室に通った。

 話は尽きなかった。尽きるわけがない。同じことでも延々と話せたのだから。噴水と同じで、吐き出した話題がしばらくするとまた口から出てくるのだ。

 休みの日に映画に行って、街でおそろいの服を買った。夜にはたまに長い電話をして、朝起きれず遅刻することもあった。

 綾は面白い本と出会うと時々学校をサボった。そんな日は、真琴の学校生活は彩りを欠いたものになった。一秒一秒がひどく長く感じて苦痛で仕方なかった。そして自分をこんな境遇に陥れる綾に怒った。意味もなく腹が立った。いや、感情の裏に意味がないはずがない。大事なことは真琴がその意味に気付いていなかったということだ。

 しかし翌朝、綾がけろりとして待ち合わせ場所の地下鉄の改札前に姿を表すと、許してしまう。昨日の不幸より今日の幸福を肺に吸い込み満足する。


 しかし、どうしてあの時綾が自分に声をかけたのか、真琴にはわからなかった。それだけが胸のうちにつっかえていて、鉛のように日に日に重さを増していく。

 友情に理由はないのかもしれない。ただの友情であれば、真琴はそんなこと気にしない。互いに引き合うものがあった、その一言ですましてしまえば良い。運命という言葉に全てを委ねてしまえば良い。


 冬休みに二人は新幹線に乗ってUSJへ行った。一泊二日。両親に同意書を書いてもらい、ツアーに申し込んだのだ。


 恋は不条理だ、どんな時にも。一人の人間が相手を想い、相手のことで胸を充満させる。落とし穴と同じだ、あるいは地雷、もしくは地縛霊。踏めば最後だ。落ちていくしかない。そのくせ、相手からも同じ扱いを受けてもらえる保証はない。


 狭いホテルであったが、部屋からは暗くなったパークが見渡せた。無人の遊園地を見ると、『スプートニクの恋人』を思い出した。観覧車に閉じ込められて、アパートの部屋にいる自分を見るんだ、男の人といやらしいことをしている自分を。

「夜の遊園地てなんか良くない?」と綾が言った。

 綾の頭にはあのシーンが浮かんでいるのだろうか。風呂上がりの濡れた髪とホテルのロゴが入った白いバスローブ。夜のUSJを映す嬉々とした目は子供のように企みに満ちてに見える。

 真琴は見とれずにはいられなかった。


 どうしてあの時、私に声を掛けてくれたの?


 声に出しそうになった。しかし口には出せない。口に出してしまえば、全てが終わるような気がした。自分の弱さを、中学時代に陰口を言われて、それから必死で逃げてきた自分の情けなさを肯定してしまいそうな気がしていた。

 真琴は思っていた。自分があまりにも一人で本ばかり読んでいるから、綾は見かねて声を掛けてくれたのだと、自分を救い出すために話しかけてくれたのだと。綾にはそのような面倒見の良いところがあった。

 でも、それだけではないことを信じていたかった。きっかけはそうかもしれない、体裁もそういうことにしておけば良い。でももっと他に、何か自分では制御出来ない大きな感情が根底にあったはずだと、信じていたかった。

 その希望が、一言で潰えてしまう恐れがあった。

「一緒に寝よう」と悪戯に微笑んで枕を抱えた綾。耳元で囁く、どうでも良いような話に付き合うのが辛かった。ふとした一言で自分の本心が明るみに出てしまいそうで、それが二人の関係を壊してしまいそうで、いやきっと関係だけじゃなくて、自分自身を壊してしまいそうで、怖かった。

 抱き締めるように体に絡まる綾の手足。か細く弱々しい寝息。綾の大きくはない胸が腕に押し当てられる。

 眠ったふりをして、綾の方を向き、同じように抱き締めた。そのぷっくりとした高校生にしては大人っぽい唇に、何度も口を近付けてはためらいに退き、また吸い寄せられるように近付いた。

 夜は深く、長かった。何かを破壊してしまうには静か過ぎ、何かを維持しておくには苦し過ぎた。

 その日は一睡も出来なかった。


 時間は流れる。

 電車は今にも真琴から綾の姿を遮ろうとしている。綾が手を上げる。さよならという言葉の代わりに手が揺れる。


 高校生活が終わる。

 綾との日々が終わる。

 想いは伝えられないままで、友情は友情のままで終わる。

 もうすぐ綾は大学に行くために京都へ行ってしまう。スマートフォンなんてあっても、何の意味もない。LINEで繋がることに1ミリの意味もない。電波がいったい綾のどれだけを私に届けてくれる?隣に居てくれるから、友達なんじゃないの?いや、友達なんかでいたくない。でも、私の気持ちが知れると、綾はたぶんもう戻ってこない。怖い。


 電車が彼女をかき消す。空気の漏れる音が聞こえて、人間が吐き出される。浸透圧を守るように、同じ数の人間が吸い込まれる。酸素と二酸化炭素の関係、あるいは男と女の関係。人間の流れと交わりが経済を、社会を歴史を作る。

 その流れに綾は乗ったのか。左から来て右へ去っていく人間の群れに紛れたのか。

 せめて少しの希望を抱いておこうと、真琴は思う。電車が発車したとき、そこに一人で綾が立っていて、私に手を振って笑うのだ。


 電車は走り出す。

 スピードを上げる。

 真琴は目をつむる。



















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さよならは地下鉄で 赤木衛一 @hiroakikondo

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