第19話 愛に縛られて

 飯田橋駅を出た僕たち三人は、外堀通り沿いに東京理科大の方へ歩き、電話で言われたとおり、ハザードランプを点滅させて停まっている車を探した。後ろに、警察の尾行がついているのは分かっていた。その車には、島村が乗っているはずだった。

 神楽坂の店から杵塚が出て行った後、愛の携帯に、島村から電話がかかってきたのだった。「外務省は空井を警察に渡す気はない」と島村は言い、今後の具体的なことを相談するために、僕たち三人に会合を申し込んできた。

 お堀端の道路に人気はなく、ヘッドライトの洪水が通り過ぎる度に、あたりは墓場のように静まった。

 目的の車は柳の木の横に停まっていた。指示された通り、愛が最初に助手席に乗り込んだ。島村と言葉を交わした愛は、車の中から、僕と空井に向かって後ろに乗るように合図した。二人が乗ってドアを閉めると、運転席の島村は体をよじって室内灯を点けた。彼は僕に会釈し、すぐに空井に目を向けた。

 島村は、愛から聞いていたようなしぶとい男には見えなかった。三十代前半くらいで、人なつこい目をしている。面長で、髪は短く切りそろえられていた。一目で高級品と分かる背広を着ていた。

「ごぶさたしてます」彼は空井に言った。ヘッドハンターのふりをして空井に接触したのは半年くらい前になる。

「いえ、こちらこそ」空井は平板に応えた。

「どうやら、大変なことになっているようですね」

 空井はしばらく黙っていたが、やがて、

「そちらも無関係ってわけじゃないでしょう?」

「いや、確かに」島村は片手で顎をなでた。「わかりました。今は場合が場合ですから、前置きは抜きにしましょう。……まず、ですね、私は民間会社のヘッドハンターではなく……」

「あんた自身が外務省の人間でしょう」と空井。「名前も島村じゃなくて……」

 島村は、あっ、と片手を挙げてその先を制した。「やはり入って調べましたね。メールからですか?」

「どうだか」

「まあ、あなたが相手じゃ無駄ですか。……で、話を戻しましょう。実は……こちらとしては、あなたを警察に逮捕させるつもりはありません。それで今、うちの『上の方』が警察の『上の方』に掛け合っています。ところが、これがなかなか難航してまして。うちの上層部が、なかなか本腰を入れて掛け合ってくれない。それというのも、警察に捜査を中止させても、空井さんがわれわれの仕事をやってくれる保証はない、というんですね」島村は、つぶらな目で空井を見た。

「その確証があれば、警察を止めてもらえるんですか?」と空井。

「九十九パーセント保証します。こちらには国防上の問題と、ある機密がかかってますから、最終的には、警察が口を出せるもんじゃありません。ただそれには、こちらも上の方でいろいろ動く必要がある。思ったほど簡単なことではないんです」島村は、嫌みのない口調で言った。

 空井は、疑うように島村を見た。

「その確証、っていうのは……どうすればいいんです?」

「この念書にサインと」彼はポケットから無地の封筒を取り出した。「……拇印をいただければ」

「拇印……指紋が残るわけか」

 空井が小さく呟いたのを聞いて、島村は微笑んだ。頬に小さなエクボができた。「事が事なので」

 空井は、窓の外に目をやった。ヘッドライトの洪水がエンジンの唸りとともに通り過ぎると、闇が車を囲んだ。空井は、その闇を見通そうとしているように目をすがめた。

「……いつまでに?」

「期限はありませんが」島村は落胆を露にして言った。「逮捕されてしまったら、後はないですよ」

 空井は、相談するように愛を見たが、愛の目の中に何の答えもなかった。

「少し考えさせてください」空井は封筒を取った。

「それは構いません。ただ、このままだと、自衛隊のファイルをダウンロードした愛さんも罪に問われることになりますから、それもお忘れなく」


 僕たち三人は、マンションのダイニングテーブルを囲んでいた。愛が入れた紅茶を、無言ですでに三杯飲んでいた。愛が四杯目の紅茶を注ぎ終えた時、空井が、誰にともなく呟いた。

「何でこんなことになったんだ」

「……ごめん、私のせいで……」愛が小声で言った。

 空井の目の中に、一瞬、激しい怒りが浮かんだ。だが彼が一つ大きく息を吐くと、それはもう消えていた。

「でも……」愛は、沈黙に耐えられずに続けた。「私は、あなたに、最高の仕事について欲しかったの。三流のクズみたいな仕事を、あなたみたいな人が一生やり続けるなんて、耐えられなかったの。あなただって、デジタル土方はもうたくさんだ、って言ってたでしょ? あなたはそんな底辺にいるべき人じゃない。もっと……世の中の、頂点の仕事をやる才能があるんだもの」

「スパイが頂点なのか?」空井は皮肉っぽく言った。

「どうして? 国家のための情報収集でしょう? それに……スパイなんて呼び方がいけないのよ。そのくらいのことは、どこの国でもやってるんじゃないの?」

 愛の言うことは正しかった。いろいろな国の政府が、コンピュータ・エンジニアを雇ってあちこちの国の情報を盗み見させている。中東や朝鮮のように政情不安定な国ばかりでなく、アメリカやイギリス、フランスはもちろん、日本政府だってやっている。僕は、商社に勤めていた二年間に、海外の政府事業を担当した先輩から、そのことをたっぷりと聞いた。

「お前、口ではあやまっているが、本当は、思いどおりになったと喜んでるんじゃないか?」

 愛は息をのんだ。目に敵意が浮かんだ。感情が爆発する、と僕は思ったが、彼女は落ち着きを取り戻した。

「全部あなたのためなのに。こんなふうに仕方なく仕事を受けるのは、いやだっていう気持ちはよくわかる。でも、考えてみれば、これはチャンスかもしれないじゃない」

「汚い手を使って裏取り引きをもちかけてくるような奴らの仕事が、チャンスだっていうのか? スパイなんていう仕事は、決して表には出ないんだ。それがどういうことか分かるのか? 何があっても、裏で処理されるっていうことだぞ。何しろ相手は日本政府だからな」

「上に行こうと思ったら、多少の賭けは必要だわ」

「上? 上に行きたいなんて、俺がいつ言った?」

「じゃあ、アメリカの研究所で働きたいって言ってたのは何だったの? NASAのサーバーに入って勉強してたのは何のためだったの?」

「やりたいからやっただけさ……」そう言った空井は、考え込む表情になった。カップを取り上げて口に運ぶと、カップの縁が不揃いな前歯に当たってカチリと音を立てた。「何かのためにやってたわけじゃない」

 ふいに彼は、上着のポケットから白封筒を取り出し、中の念書をテーブルに広げた。

「書くもの、あるか」

 愛は自分のバッグの中を探しはじめた。

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